古代編第1節/古代社会の黎明4/海陸交通の掌握と部民の設置(高橋明裕)
尼崎地域周辺の部民の設置
古代の尼崎地域にどのような人々が住んでいたのかを知るためには、古文献に見える氏族の名前や、氏族と関連する地名などが手がかりになります。奈良時代の戸籍などには庶民の名も見ることができますが、多くの場合文献史料に記録されるのは豪族クラスか特定の集団の名称で、それらは共通の氏族の名称(氏名)を名乗るとともに、その地位を示す臣〔おみ〕や連〔むらじ〕などのカバネ(姓)と言われる称号を氏名の下に名乗りました。
豪族はその土地の地名を名乗ることが多かったのですが、大和王権の特定の職掌を担った集団はその職名を氏名としました。このような人々を部民〔べみん〕(単に部〔べ〕とも言う)と言い、豪族が中央との関係を築くなかでそうした職掌を担うようになったと考えられます。同業の組織は各地に配置され、伴造〔とものみやつこ〕と呼ばれる監督官のもとに統率されました。このような大和王権の組織を部民制、伴造―部制などと言います。
たとえば図1の贄土師部〔にえはじべ〕は、『日本書紀』雄略天皇17年の条に「摂津国の来狭狭村」と山城の伏見、そして伊勢国に存在したことが見えます。朝廷の膳に供せられる器を製造する贄土師部という技術者集団が、丹波方面との交通の要衝〔ようしょう〕である能勢〔のせ〕郡の玖左佐〔くささ〕村(現大阪府豊能郡能勢町)、山城、伊勢とを結ぶ形で組織されていたことがわかります。
猪名部の伝承と職掌
猪名川流域に住み着いた人々のなかには、朝鮮半島から渡来してきた集団もいました。
『日本書紀』の応神天皇31年8月の条には、次のような伝承があります。朝廷の船五百隻を造り、武庫水門〔むこのみなと〕に停泊させていたところ、倭〔わ〕国に使いにきていた新羅〔しらぎ〕の船から失火して、朝廷の船が全焼してしまいました。新羅の王は贖罪〔しょくざい〕として優れた工匠を倭国に献上しましたが、それが猪名部の始祖だという伝えです。この記事は細部にわたって海にまつわる造船・製塩の神事にいろどられており、時代が応神天皇の治世とされることなど、すべてを史実と受け取ることができない伝承ですが、大阪湾岸の港湾である武庫水門および猪名湊〔いなのみなと〕と密接な造船・木工の集団が、この地に渡来してきて住みついたという事実が核にあります。猪名川流域に居住したゆえに、彼らの集団が「猪名部」と呼ばれるようになったわけです(本節3参照)。
猪名部を名乗る人々は、伊勢や越前などにもいたことがわかっています(図2)。伊勢の猪名部の記事は、やはり優れた工匠として『日本書紀』の雄略天皇巻に登場します。
雄略天皇は埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣に「ワカタケル大王」と読める5世紀後半の銘文によって知られ、関東地方まで政治的関係を築いた実在の大王〔おおきみ〕(天皇の称号ができる以前の称号)です。東日本への進出にあたって伊勢に進出したことが、『日本書紀』の伊勢の豪族の反乱を平定した記事によって推測されます。伊勢でも猪名部が活躍していることは、朝廷に土器を貢納する贄土師部が摂津や伊勢に置かれていることとあわせて考えると、これらの部は雄略天皇の政権が東日本に進出した時期に政策的に配置されたと考えることができます。
猪名川と武庫川についての伝承
『住吉大社神代記』に、猪名川と武庫川の女神同士が争った結果、猪名川に大石がなくて芹が生え、武庫川は大石ばかりで芹が生えないようになったという説話があります。
この説話は、暴れ川としての武庫川の氾濫〔はんらん〕を語り伝えていると思われます。この氾濫原〔はんらんげん〕は未開の原野として、猪名県や猪名野・猪名の笹原などの狩猟地となるだけでなく、河川・河口の交通上のメリットや上流の資源を活かして、この地域を開発する人々が住み着いたのでした。
猪名県と佐伯部
猪名部が造船や木工の技術者集団として海上交通との関連で配置されたのに対し、陸上交通に関係するのが佐伯部〔さえきべ〕の設置です(図2)。『日本書紀』仁徳天皇38年7月条に、次のような説話があります。
仁徳天皇が摂津の莵餓野〔とがの〕の地で皇后とともに鹿の鳴き声を聞いて慰みとしていたところ、ある日鳴き声がしなくなりました。ちょうど猪名県〔あがた〕から食肉が贄として貢納されてきたところから、鹿を殺したのが猪名県の佐伯部であることがわかりました。天皇は怒って安芸国に移して遠ざけたというのです。
佐伯部の民の野蛮な行ないをとがめた話となっていますが、核にある事実としては佐伯部が狩猟を特技とする部民であり、猪名県からの食料の貢納を日常の職務としていることです。そこからは、狩猟を得意とする彼らが、大和王権の下で軍事力として政策的に配置されていたことが考えられます。
右の説話には、猪名県が現在のどこの地にあったと確定する手がかりは示されていません。しかし、のちの奈良・平安時代になって為奈野牧〔いなのまき〕が置かれ、また王族や藤原氏の狩猟地となった伊丹台地から猪名川下流の平原の景観は、説話の舞台になっている「猪名県」にふさわしいものです(図3)。律令制度のもと、この近辺には山陽道が開かれましたが、この地域は律令体制以前の古くより、摂津平野から中国地方に向けての陸上交通の要衝だったはずです。この地域に狩猟地としての王権の所領を確保し、かつ狩猟民である佐伯部が軍事的に交通の検断(統制)を行なったと考えれば、尼崎地域へのこれら部民の設置の歴史的意味があきらかになってきます。
佐伯部の配置は播磨、伊予、安芸、阿波など、瀬戸内海の西方へのルートに沿っており、海上交通に関わる摂津への猪名部の設置とあわせて、海陸の交通の掌握という政策を見て取れます。部民の分布は、畿内から東西に進出していった雄略天皇以降の大和王権の政策の反映と考えることができます。
古代史の調べ方
古代史の文献史料はほとんどのものが刊本になっています。基本史料である『古事記』『日本書紀』も『日本古典文学大系』(岩波書店)『新編日本古典文学全集』(小学館)などに収められ、注釈、あるいは口語訳付きで読むことができます。
古代の氏族やさまざまな部のことを調べるには、人名辞典を活用します。『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館、平成2年)には、参考文献も載っています。尼崎市内の氏族や部の分布については、『尼崎地域史事典』が便利です。