中世編第2節/中世社会の展開3/大覚寺の建立と門前町(中村光夫)
河尻の燈炉堂
河尻〔かわじり〕は尼崎市を含む神崎川河口付近を総称する地名で、奈良西大寺の叡尊上人〔えいぞんしょうにん〕が建治元年(1275)8月に僧衆120人とともに河尻の燈炉堂〔とうろどう〕の近くに宿泊し、36人に菩薩戒〔ぼさつかい〕を授けたと、伝記に記されています。これが長洲〔ながす〕の燈炉堂と考えられています。叡尊上人は真言律宗の開祖で、戒律復興運動とともに各地の交通路・港湾施設などの整備をすすめた人ですが、叡尊上人が河尻に来たときには、すでに燈炉堂は値願上人によって創建されていました。
値願上人は、暗がりに迷う舟人を救い、諸国から海路を運ばれてくる年貢を安全に輸送できるように燈炉堂を設けました。つまり、冬場にはとくに強い風が吹き、浅瀬や島の多い神崎川河口地帯の航路の安全を図るための灯台だったわけです。
「大覚寺縁起絵巻」は、能勢の剣尾山〔けんびさん〕上の月峰寺を遙拝〔ようはい〕する施設として長洲漁民が燈炉堂を建てたと記していますから、燈炉堂建設は実用上の必要だけでなく長洲住民の信仰がその背景にあったと考えられます。しかし、永仁2年(1294)頃には燈炉堂を維持する灯油料や供僧供料などの諸経費が欠乏し、住僧の行然が経費調達のために津料徴収の許可を願い出ています。灯台の維持は必ずしも順調ではなかったようです。
大覚寺は建治元年に尼崎に来た琳海上人によって建立されたと伝えられていますが、正和4年(1315)の「大覚寺絵図」(後掲)に燈炉堂は描かれていませんし、次に見るように燈炉堂が大覚寺に寄進されるまではそれぞれ別の寺院でした。
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燈炉堂の大覚寺寄進
14世紀のはじめ、燈炉堂を相伝していた住持の浄瑜が、海賊の一味であるとの風聞が立って逐電〔ちくでん〕してしまいます。長洲御厨〔みくりや〕の領家は、浄瑜を犯罪人と見なして燈炉堂・温室(浴場)およびその敷地を没収し、嘉暦元年(1326)9月、大覚寺に寄進しました。港湾施設としての灯台の管理が、当時の尼崎では最大の寺院であった大覚寺に任されたのでしょう。しかし燈炉堂の維持管理には負担がともないます。そのためもあってでしょう、寄進と同じ9月に長洲荘の「地下〔じげ〕」22名が大覚寺を戦乱などから保護し、修造等の責任を負うことを誓う起請文〔きしょうもん〕を作成しています(本節4参照)。
戻る大覚寺市庭と門前町
大覚寺は、15世紀になって本興寺などが開かれるまで尼崎随一の大寺院でした。鎌倉時代の初期、13世紀のはじめから尼崎では港町として木材の流通や生魚取引が発達し、檜物〔ひもの〕商人なども活躍するようになりますが(本節2参照)、尼崎の町はそれらに携わる商工業者が集住する大覚寺の門前町でもありました。一般に、近世の門前町は遊楽・観光の町としての性格が強くなっていきますが、中世の門前町はそれとは異なり、寺社の権威と経済力を求めて商工業者が集住する経済都市でした。
先の起請文に署名した「地下」は、その門前町の住民が中心です。「地下」は長洲荘の現地支配を任される自治的な組織であり、「地下」の支持を得た大覚寺は、尼崎の中核的な寺院となったのです。
弁財天と市戎
現在、大覚寺境内(寺町)に建つ弁財天堂(尼崎市指定文化財)は、それ以前からあった弁財天社の唐門を18世紀中頃に改修して建立されたもので、「大覚寺敷地四方堺図」(大覚寺文書)に記されている「鎮守」と推定されています。また、かつて大物〔だいもつ〕橋の袂〔たもと〕に祀〔まつ〕られていた市戎社(後掲『摂津名所図会』図版参照)も、大覚寺との関係が想定されます。市神〔いちがみ〕は、市〔いち〕に祀られ、市とその場での取引を守護する神で、戎神も各地で市神として祀られます。元禄5年(1692)の「尼崎寺社改〔あらため〕付込帳写し」(地域研究史料館蔵、梶広子氏文書)に「一、市戎社…此宮古来より大物之橋側ニ御座候得共勧請年暦由来共ニ相知レ不申候」とあるように、近世初期にはすでにその由来も忘れられていますが、その社名と祀られていた場所からみて大覚寺の市と関係深いと思われます。大覚寺が寺町に移転されるまでは、前掲図のように「中世の市」に祀られるような存在だったのではないでしょうか。
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