中世編第3節/戦国争乱期の尼崎/この節を理解するために(仁木宏)
荘園の衰退
明徳3年(1392)、室町幕府3代将軍足利義満によって南北両朝は合一され、以降70年間余り、比較的安定した時代が続きます。
西国と京都を行き来する物や人の量がいっそう増えたことから、神崎川河口部の尼崎・大物〔だいもつ〕の港町は、さらに繁栄していきました。山陽道(西国街道)を通行する旅行者の数も増え、なかには隣国朝鮮の使者宋希m〔そうきけい〕もいました。希mによれば、当時、尼崎地域の農村では稲・麦・蕎麦〔そば〕の三毛作が行なわれていたと言います(『老松堂日本行録』)。この観察が事実かどうかはわかりませんが、灌漑〔かんがい〕や品種改良など、高度な農業技術によって、尼崎地域の農村が高い生産力を誇っていたことはまちがいないでしょう。
しかし、生産力の向上と反比例するように、京都の公家・寺社など、荘園領主による農村支配は力を失っていきました。尼崎地域でも、年貢・公事〔くじ〕などを徴収できない「不知行」の荘園が数を増していきます。久我〔こが〕家領大島庄では、摂津国守護である細川氏の一族が久我家の代官となっていましたが、15世紀半ばには契約した年貢額を支払わなくなり、事実上、荘園領主の手を離れました。守護が賦課〔ふか〕した段銭〔たんせん〕と呼ばれる臨時課税も、荘園財政を圧迫していきます。
荘園領主の支配を根底からおびやかしたのは、地域社会のなかで成長を遂〔と〕げていた土豪・地侍などの武士や、彼らを支える村落共同体でした。田能〔たの〕の田能村大和守は、用水をめぐって隣の原田荘(現豊中市)の領主である奈良興福寺・春日社と争いました。大和守は裁判に敗れ、領地を取りあげられましたが、大和守の背後には橘御園〔たちばなのみその〕内の3か村の百姓らがついていたことがわかっています。
大阪湾岸の自治都市
こうして、守護から土豪にいたる武士たちや村落、さらには都市の動向が社会をリードする戦国時代を迎えることになります。
応仁元年(1467)、足利将軍家の家督争いから始まった応仁・文明の乱の戦火は、たちまち畿内・近国に広まっていきました。西軍に味方するため周防国山口から進出してきた大内政弘は、支配されることを拒んだ尼崎の町を焼き討ちにしました。「地下老〔じげおとなな〕ル物(者)」は従属しましたが、「若衆」が大内氏に「敵対」したからです。その後、尼崎をめぐっては東西両軍の衝突が続き、文明7年(1475)には大津波が尼崎を襲い、多くの家や「人モ千人余」が波にさらわれたと言います。戦乱にもかかわらず、尼崎の町がにぎわっていたことがわかります。おそらく津波からもすぐさま復興したことでしょう。
応仁・文明の乱を経るなかで、荘園は荘園領主の手から完全に離れていきました。守護細川氏の代官と地元の土豪が連携して、年貢を領主に納めず、代官や土豪の手元にとどめおいたのです。興福寺領武庫荘〔むこのしょう〕では、太田氏・吹田氏・伊丹氏らが入れ替わり代官となっては介入していました。土豪館の蔵は村の蔵を兼用する場合も多かったので、村落共同体もこれらの行為に力を貸していたことでしょう。
明応2年(1493)、細川政元が将軍足利義材〔よしき〕(のちの義稙〔よしたね〕)を追放して政権を掌握しました。この明応の政変以降、尼崎地域も本格的な戦国の世を迎えます。摂津国は当時、京都の政権を争っていた細川氏の領国であったため、しばしば政権の争奪をかけた大規模な戦闘が繰り広げられました。戦国後期になると、細川氏の家臣から台頭した三好氏も摂津国越水〔こしみず〕(現西宮市)・芥川(現高槻市)に本拠を置き、京都へ攻めのぼる基盤としました。細川氏や三好氏の抗争のもと、摂津西部(千里丘陵以西)では、伊丹氏、池田氏らが地侍から有力な武士に成長し、さらに地域の武士たちを統合していきました。
一方で、地侍たちの出身地である村落共同体も力を増していました。村の有力者から村人まで、広範な階層に浄土真宗(一向宗)が受け入れられていきました。大坂(石山)本願寺を中心とする政治・宗教ネットワークがはりめぐらされ、尼崎地域ではその拠点として塚口寺内町〔じないまち〕が成長していきます。
一向宗勢力は大物〔だいもつ〕にも進出していましたが、戦国時代に尼崎の中核を押さえていたのは日蓮宗(法華宗)でした。尼崎は、堺、兵庫に次いで、大阪湾内第3の港町として発展を遂げ、有数の自治都市として繁栄していったのです。
戦国の争乱のなかで、村や町は悲惨な被害にもあいましたが、その一方で、自治や経済の発展は豊かな社会の実現につながっていきました。