中世編第2節/中世社会の展開1/後鳥羽院政と尼崎地域(田中文英)

水無瀬殿の宴遊と神崎の遊女

 後鳥羽天皇は、建久9年(1198)正月に、弱冠19歳で為仁親王(土御門天皇)に譲位して院政を始めました。しかし、当初の院権力はまだ強固ではなく、建仁2年(1202)に後白河院政末期以来の権臣であった源通親が没するのを機として、朝廷内部の党派的対立を解消しつつ、急速に独裁的な体制を形成していきました。
 後鳥羽上皇は、文武にわたって多芸多才で、その生活や趣味もきわめて豪奢〔ごうしゃ〕であり、院御所・離宮などの造営にも熱心でした。なかでも水無瀬殿〔みなせどの〕は、上皇がもっとも気に入って遊興の中心舞台のひとつにしたところです。その水無瀬殿は、はじめ直接淀川に臨んで建てられていたため、建保4年(1216)8月の大洪水で流出してしまいます。そこで上皇は、もう少し奥まった百山〔ひゃくさん〕の麓(現大阪府島本町)の眺望のよいところに、天下の財力と造園技術の粋を尽くして新離宮を造営しました。また、近傍に魚市を移すなど商業活動や民家の集住策をすすめたりしました。
 上皇は、離宮へ頻繁に御幸し、そのつどさまざまな宴遊を行なっています。江口・神崎から遊女を呼んで郢曲〔えいきょく〕を謡わせ、白拍子〔しらびょうし〕に舞を舞わせ、今様〔いまよう〕合わせ・白拍子合わせなどがあって、最後に廷臣たちが乱舞に至るのが恒例でした。藤原定家は、日記『明月記』のなかで、そのさまを「河陽の歓娯休日なし」と評しています。遊興乱舞のほか碁・将棋、さらに藤原俊成・藤原定家・慈円らの歌人を集めて歌会・歌合わせなども催しています。また、ここを拠点に石清水〔いわしみず〕をはじめ各地の寺社・名勝への御幸、さらに近隣地への狩猟などにも出かけています。
 そうした後鳥羽上皇の華やかな御幸や宴遊と前後して、貴族たちの遊行・寺社参詣なども盛んになり始めます。それは、源平争乱以後の政治的激動がひとまず収まり、後鳥羽院政の成立によって貴族社会が久しぶりに安定期を迎えたことの表れでもありました。

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藤原定家の有馬旅行と神崎

 貴族たちが遊行先として好んだのは摂津方面で、水無瀬をはじめ吹田・江口・天王寺・住吉・広田・福原・須磨・有馬などへ頻繁に出かけるようになりました。このため淀川沿岸に貴族の別業〔べつぎょう〕・別宅のほか、さまざまな宿泊施設が発達していきます。神崎も、そうした宿泊施設の整ったところで、藤原定家も有馬旅行の際によく利用していることが『明月記』によってわかります。
 まず建仁3年7月10日条によると、早朝有馬を発って帰路につき、神崎の宿所で休息ののち、乗船して江口にいたり、その夜は遊女三位の宅に泊まっていますが、あいにく彼女は天王寺参詣のため留守であったと記しています。元久2年(1205)閏7月7日には、未明に出京して乗船し、日没に神崎に到着して宿泊、翌朝降雨のなかを出発して、正午頃、有馬の湯山の宿に着いています。そして15日未明に有馬をたち、正午に神崎で乗船して江口の宿所で食事をしてからふたたび船に乗り、その夜は今津で泊まっています。
 建暦2年(1212)正月のときは、21日に出京し、その夜は激しい雨のなか「神崎小屋」に泊まります。ここで静快律師と同宿になり、
 はるさめのあすさへふらは、いかゝせん、そてほしわふるけふのふな人
という歌を詠んでいます。翌朝未明に出立して昆陽〔こや〕池を過ぎ武庫山に入ったところ、増水のため武庫川を渡るのに苦労し、午後四時頃に有馬に着き、仲国朝臣の湯屋に泊まっています。二九日に帰路に着きますが、武庫川が増水のため渡れず、下流の小林〔おばやし〕荘まで下り浅瀬になったところを渡って、小屋野(昆陽野)を通って神崎に到着しました。そこで乗船して綱手に船をひかせて夕方に「吹田小屋」に着いて一泊し、翌日帰京しています。
 この藤原定家の有馬旅行に見られるように、貴族の摂津遊行が盛んになったことが、神崎をはじめ淀川・神崎川沿いの各所に、宿泊施設や交通機関の発達をいっそう促すことにもなりました。  


江戸時代の有馬・温泉寺
『摂津名所図会〔ずえ〕』より


神崎から有馬への道
陸地測量部5万分の1地形図「大阪西北部」
 当時の貴族たちが西摂平野を横断するルートは未詳ですが、大正5年(1916)の地形図によって最短ルートを示しました。
右下から左上へ、神崎〜塚口〜昆陽〜小浜〔こはま〕〜生瀬〜船坂(有馬温泉に至る)


西摂平野から見る六甲山系 神崎から有馬へ向かう人々が眺めた六甲山は……
平成18年撮影

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承久の乱の発火点 −長江・椋橋荘−

 さて、後鳥羽上皇は、朝廷内部において独裁的な体制を固める一方、鎌倉幕府に対しても統制力を強化します。そのため、上皇は将軍源実朝を臣従させることによって、幕府に御家人ぐるみで奉仕させる体制を形成しようとしました。この政策は、実朝に幕政の実権がなかったため効果があがらず、執権〔しっけん〕北条氏らとの間に、しばしば対立や抗争を引き起こしました。
 やがて、建保7年正月、将軍実朝が暗殺されると、朝幕関係はついに破綻し、上皇は倒幕の意志を固めます。そして同年3月、上皇は使者を鎌倉に下し、実朝の死を弔うとともに、寵愛する白拍子亀菊〔かめぎく〕(注1)が領家職〔しき〕を持つ、摂津国長江〔ながえ〕・椋橋〔くらはし〕両荘の地頭職の罷免を執権北条義時に強く要求しました。両荘は後鳥羽院領で、当時、上皇は亀菊に領家職を与えていました。これに対して北条義時は、源頼朝が勲功の賞として補任した地頭職を罪もないのに改めることはできないと主張して、上皇の要求を拒否し、回答のため弟の時房に兵百騎をつけて上洛させ、その決意のほどを示威しました。ここに上皇は、倒幕の挙兵計画を具体的にすすめ始め、ついに承久3年(1221)5月15日に、北条義時追討の宣旨を発して挙兵し、承久の乱を起こすに至ったのでした。
 ところで、この承久の乱の発火点となった長江・椋橋荘のうち長江荘の所在地は、残念ながら未詳ですが、椋橋荘は倉橋荘とも書き、現在の大阪府豊中市庄本〔しょうもと〕町付近に比定されています(注2)。この地域は、神崎川と猪名川の合流点に位置するため、早くから交通や交易活動の要衝〔ようしょう〕として発展し、諸権門によって複雑な支配・領有関係が形成されてきた場所でした。この当時も、亀菊の椋橋荘のほかに、摂関家領の椋橋荘や、二位法印尊長(注3)が領家職を持つ頭陀寺領椋橋荘などもありました。
 これらの荘園は、入り組み関係をとって存在したものと考えられますが、その実態はあきらかではありません。しかし、摂関家領の椋橋荘の場合が、この地域における荘園のありようの一端を示しており、また尼崎地域とも密接な関係にあるので、次にこの荘園について見ることにしましょう。


椋橋荘比定地
地域研究史料館蔵、昭和48年航空写真より
 12世紀に東・西に分立する前の椋橋荘は、豊中市庄本町付近に比定されています。庄本町付近は、神崎川とかつての本流である旧猪名川に面し、交通や交易活動の要衝として発展しました。

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椋橋荘と檜物師集団

 摂関家領椋橋荘の史料上の初見は11世紀中頃ですが、その頃は耕地も少なく、交通運輸や漁業などに従事する住人が中心でした。ところが、やがて急速に開発がすすみ、猪名川を越えて尼崎市域へ荘域を拡大し、少なくとも12世紀中頃に、同荘は東・西に分立します。東荘と西荘の境域は必ずしも明確ではありませんが、東荘は現在の豊中市庄本町を中心とする地域、西荘は尼崎市の富田〔とうだ〕から戸ノ内にかけての地域に比定されています。こうした荘園の開発と拡大は、複雑に入り組んだ領有形態をとって展開されたらしく、椋橋西荘では、東大寺領猪名荘〔いなのしょう〕や摂関家領橘御園〔たちばなのみその〕の荘官や住人との間に、入り交じった耕地の帰属をめぐって相論や抗争がしばしば起こっています。
 ところで、椋橋荘は耕地の拡大だけでなく、流通や商業活動の面でもめざましい発展を遂〔と〕げます。その具体的な例として、13世紀初頭に、椋橋荘内に居住して活動した檜物師の集団をあげることができます。この檜物師〔ひものし〕の集団は、蔵人所〔くろうどどころ〕に書籍・文書・記録・器物などを入れる「唐櫃〔からびつ〕」を製造して貢納するかわりに、蔵人所から特定の地域内で檜物を独占的に販売する特権を認められた供御〔くご〕人の集団でした。その交易圏は、貞応2年(1223)の蔵人所牒によると、別掲図(本節2掲載「貞応2年3月日「蔵人所牒案(前後欠)」に見える地名」図)のように、淀川沿いの現在の大阪市から伊丹市南部・尼崎市東部・西宮市にいたる地域と、河内国北西部の蒲田新開〔かまたしんかい〕(現東大阪市)、榎並〔えなみ〕・高瀬(現守口市)などに分布していました。これらの分布地は、いずれも当時、交易活動の拠点をなしていたところで、椋橋荘も大物〔だいもつ〕・長洲〔ながす〕などとともに、その地域的交易圏の一環を構成していたのでした。近年発掘された庄本遺跡によって、その繁栄ぶりの一端をうかがうことができます(檜物商人の活動については本節2参照)。
 この庄本遺跡の近辺に位置したと考えられる後鳥羽院領の椋橋荘(亀菊が領家職を持つ)も、やはり流通・交易活動の重要な拠点であったと見てよいでしょう。したがって、上皇にとって椋橋荘から地頭職を排除することは、領家の亀菊に懇望されるまでもなく、淀川流域における上皇の支配と権益を確保するうえでも不可欠の措置だったのです。


東・西両荘分立後の椋橋荘比定地
地域研究史料館蔵、昭和48年航空写真より 写真中の地名は、旧大字地名
 椋橋荘は、少なくとも12世紀中頃には東・西両荘に分立します。それぞれの境域は不明ですが、東荘は庄本を中心とし、西荘は椎堂・富田・穴太・法界寺・善法寺・高田・神崎周辺の地域に比定されます。

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承久の乱の影響

 さて、承久の乱を起こした後鳥羽上皇の兵力は、北面・西面の武士をはじめ畿内西国の非御家人や在京の鎌倉御家人をもって構成されていました。しかし、上皇が期待したほどの兵力が集まらず、戦いはあっけなく敗北しました。摂津国では渡辺党の渡辺翔〔かける〕・守〔まもる〕・生や、多田源氏の基綱(行綱の子息)が上皇について参戦して敗死しています。乱後、後鳥羽上皇ら三上皇を配流し、院方の所領3千余か所を没収して新たに地頭を設置するなど、幕府はその支配を著しく伸張させました。
 この承久の乱は、尼崎地域にも波及し、乱の直後に出された、武士の狼藉〔ろうぜき〕を禁じた官宣旨のなかには東大寺領猪名荘も含まれており、戦乱に乗じて荘園を侵略する武士が続出したことを物語っています。そうした情勢のなかで、数は少ないながらも、後鳥羽上皇側について戦った在地武士や土豪も出現したようです。
 乱後、安貞2年(1228)3月に、源時光なる者が「承久勲功」として摂津国善法寺の地頭職に補任されていますが、この善法寺を市内の小田地区の善法寺に比定する説が有力です。源時光は、京方についたために所領を没収された武士にかわって、新補地頭に任命されたものと見てよいでしょう。こうして尼崎地域にも、鎌倉幕府の支配が一段と浸透してきたのでした。

〔注〕
(1)亀菊
 もと白拍子で後鳥羽院の寵妾〔ちょうしょう〕。伊賀局の局名を与えられていた。『吾妻鏡』などには、亀菊が長江・椋橋両荘の地頭職を停止するよう後鳥羽院に懇望したと記す。乱後、後鳥羽院の隠岐遠流〔おんる〕にしたがい、後鳥羽院が死ぬまで18年間仕えたという。
(2)長江・椋橋両荘の所在地
 これには諸説があるが、詳しくは、小山靖憲「椋橋荘と承久の乱」(市史研究『とよなか』第1号、平成3年3月)を参照。
(3)尊長
 一条能保の子。後鳥羽院の側近の僧として活躍し、承久の乱では張本のひとりとなり、乱後自殺。

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