中世編第3節/戦国争乱期の尼崎3/村落と庶民信仰(森田竜雄)




村の鎮守

 現在、市域には66の神社が鎮座しています。そのほとんどが、近世には村の鎮守(氏神)であった社です(近世の村の鎮守で明治以降他の神社に合祀〔ごうし〕されたものもあります)。では、これらの社は、いつまで歴史をさかのぼることができるのでしょうか。中世以前に史料で存在を確認できる事例としては、今のところ、上坂部〔かみさかべ〕の伊佐具〔いさぐ〕神社が式内社〔しきないしゃ〕(平安時代中期編さんの「延喜式」に見える当時の官社)に比定されているほか、西川八幡神社および富松〔とまつ〕神社の前身とおぼしき神社が、それぞれ室町時代の応永27年(1420)「某院院領年貢・公事書上」(尼崎市教育委員会蔵)と『康富記』文安4年(1447)の条に見えるにとどまります。
 そこで、各社の祭神や信仰のありようを見てみましょう。たとえば武庫地区に多数確認できる春日神社は(注1)、この地域が中世春日社・興福寺領武庫荘〔むこのしょう〕の領域に含まれたことから成立したと思われます。また、中世大島雀部荘〔ささべのしょう〕に属したと見られる今北・東大島・西大島が、近世以降も今北の大島神社を共通の鎮守としていることは、同社が大島雀部荘の荘園鎮守であったことを示すと見てよいでしょう。
 さらに、荘園にかかわる以外では、まず、杭瀬・若王寺〔なこうじ〕・西難波〔なにわ〕に鎮座する熊野神社(大西にも鎮守として熊野社があったが、明治期に生島神社に合祀)に関して、熊野三山への信仰が、戦国時代には尼崎周辺に伝播〔でんぱ〕していたことが指摘されています(豊島修「氏神熊野神社と近世熊野信仰」『地域史研究』28−1、平成10年12月)。加えて注目したいのは、市域に多数存在する「須佐男〔すさのお〕神社」「素盞嗚〔すさのお〕神社」です。これらはほぼすべて、近世には「牛頭天王〔ごずてんのう〕社」でした。同社の普及の時期や由来については諸説ありますが、先述の富松神社の前身と見られる社は「牛頭天王」と呼ばれており、室町時代には市域に存在したことが確認できます。中世に牛頭天王をまつり、人々の崇敬を受けた社に、京都の祇園社(現八坂神社)と播磨広峯〔ひろみね〕社(現姫路市広峯神社)があり、この両者は、互いに交錯しつつその信仰を広めていました。あるいは、このいずれかにより持ち込まれたのかもしれません。
 以上から、市域の神社の多くが、中世室町時代頃までには存在したと見てよいと思われます。これは、市域のどういった動きとかかわるのでしょうか。

戻る


惣と宮座

 畿内周辺では一般に、鎌倉時代後期から室町時代にかけて、荘園や郷〔ごう〕のなかに、近世・近代の集落につながる村が成立するとされます。こうした村の多くは、「惣〔そう〕」と呼ばれる自治的な共同組織を形成しました(惣村)。かくして成立した村々は、さらに荘園や郷を単位に結合し、上位の「惣」を形成します(惣荘・惣郷)。これらの惣、とりわけ惣村は、寄合=住民の集会の決定にしたがって、おとな・年寄などと呼ばれる指導層を中心に運営され、山野や用水を共同で管理運営し、固有の法を持ち、領主に納める年貢を惣が請け負う地下請〔じげうけ〕を行なったことなどが知られます。
 市域における惣の発達については、史料の制約もあって、あまりあきらかにできません。それでも、室町時代、生島荘内の郷のひとつ、浜郷で、長禄2年(1458)以前に年貢の地下請が行なわれていたこと(『大乗院寺社雑事記』)や、文明18年(1486)、大島雀部荘の領主久我〔こが〕家が、年貢公事〔くじ〕の収取権の一部を有力武士の池田氏に売り渡した際、その旨を村びとの結合体である「大島庄名主〔みょうしゅ〕百姓中」に伝達していること(『久我家文書』)は、浜郷や大島雀部荘が惣として機能していたことを示すものと思われます。そして、戦国時代の16世紀に到れば、数多くの史料に、近世に見える村の名を確認できるようになります。以上から、市域でも、室町時代頃には惣荘や惣村が成立していたと見てよいと考えますが、こうした惣の結合の中核となったのが、荘園に置かれていた鎮守や、新たに勧請〔かんじょう〕された村の鎮守に対する信仰でした。先に見た、市域の神社の成り立ちは、このことと関係しているのです。
 そしてこの時代、荘園や村の鎮守の神事祭礼は、多くは宮座と呼ばれる組織によって担われていました。市域の神社で、中世に宮座があったことを示す史料は、今のところ未見ですが、近世の史料から、数多くの社に宮座の存在を確認できます(注2)。近世の宮座はほぼ中世にさかのぼるので、組織や機能はまったく同じではありませんが、これらは中世からあったと見てよく、右の事実は、市域の神社の多くが中世以来の歴史を持つ証拠とも言えます。
 なお、宮座は、浜田の松原神社が近世初期「宮衆七人廻り持」とされていたように(地域研究史料館蔵、堀新次氏文書)、村びとすべてに開かれたものでなく、先述の惣(村)のおとな・年寄を中心とする上層農民により構成されており、単なる祭祀組織ではなく、惣(村)の政治を運営する中核としての役割も持っていました。

戻る


村の仏堂

 荘園や村の鎮守に加えて、村びとの信仰生活の核となったものに、さまざまな仏菩薩〔ぼさつ〕をまつった仏堂や寺庵があります。応永26年、隆祐なる僧が弟子の良祐に「生島村内乾ふけ田」1反を譲った証文に、その田は「大日堂」に寄進されていたことが記されています(写真後掲)。この生島村は、近世初期まで一村で、村切りによって上之島〔かみのしま〕・栗山・大西・三反田〔さんたんだ〕に分離された生島村の前身にあたる中世の村と考えますが、ここから、村内に人々の信仰を集める大日如来〔だいにちにょらい〕をまつる堂があったことがわかります。この堂についてはほかに史料は見いだせませんが、大西・三反田のなかに、上之島の飛び地として小字「大日西」が見え、この付近にあったと思われます。
 仏堂や寺庵は、当時主流であった本地垂迹〔ほんちすいじゃく〕説(仏菩薩を本地、神々を垂迹とし、仏菩薩は人々の救済のため神となって現れたとする説)にもとづき、本地堂などとして鎮守境内に置かれたほか、村内の各所にも設けられたようです。ここでは、年中行事や本尊にちなむ仏事が営まれるとともに、堂に結集する信仰集団である講中により、彼岸や盆の念仏なども催されました。また、とりわけ境内の堂は、村の寄合にも利用され、鎮守と一体化して村の宗教と政治の核の機能を果たしたようです。
 こうした村の堂・庵に関しては、市域では先の大日堂以外、中世の史料は見いだせないのですが、あまり時期の下らない近世前期17世紀頃までの史料から、各村にあった堂を探ってみました(表1)。これらすべてが中世から存在したとは断言できませんが、たとえば友行の地蔵堂は、豊臣秀吉による文禄3年(1594)の検地で敷地が除地〔じょち〕(免税地)とされたと言い、ほかにも除地とされている堂が多く、また、下坂部〔しもさかべ〕の吉祥天女堂が「何百年前建立したか由来や時代は不明」とされることなどから、多くが、中世に起源を持つと考えてよいでしょう。なお、山号・寺号を持つ堂が見えることから、表以外に、近世には独立した寺院となっていた堂もあったと思われます。
 次の図は、14世紀初頭の村の仏堂を描いたものです。市域に中世に存在した仏堂も、おそらくこのような規模のものであったと考えてよいでしょう。


大和常葉(奈良県香芝市)の仏堂
前田氏実・永井幾麻「春日権現霊験記〔かすがごんげんれいげんき〕(模本)」(東京国立博物館蔵)より
Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/

表1 市域の「村の仏堂」
大字 堂の名 備考
東富松 薬師堂 鎮守境内にあり
尾 浜 大日堂 「蓬莱山円福寺」の山号・寺号あり、鎮守境内にあり
東新田 地蔵堂 村中支配とあり
今 北 薬師堂・観音堂  
下坂部 吉祥天女堂 「安生山常願寺」の山号・寺号あり
潮 江 十一面観音堂  
西昆陽 大日堂・釈迦堂  
時 友 薬師堂  
友 行 薬師堂・地蔵堂 薬師堂は鎮守境内にあり
西武庫 観音堂 鎮守境内にあり
守 部 観音堂 「寿福寺」の寺号あり、鎮守境内にあり
西難波 地蔵堂 鎮守境内にあり
岡 院 (鎮守境内に庵)  
若王寺 (鎮守境内に庵)  

出典:岡治茂夫氏文書、岡村信邦氏文書、沢田正雄氏文書、福田佐一郎氏文書、友行部落有文書、高寺功氏文書(以上、尼崎市)、岡本俊二氏文書(西宮市)、長沢祥光氏文書(伊丹市)、『立花志稿』


応永26年(1419)「生島村内乾ふけ田譲与証文」(栗山五左衛門氏文書)
2行目中段に「本年貢は弐斗、大日堂寄進なり、大義造営時助□」と記されています。

戻る


鎮守と堂の信仰

 鎮守や村の堂で、中世には、どのような仏神事が営まれたのでしょうか。市域には、それを示す史料は残っていません。そこで、市域に近い川西市久代〔くしろ〕(中世久代荘−村−)の、室町・戦国時代の寺社とその行事にかかわる記録を参考に考えてみましょう。
 久代荘(村)の鎮守は春日大明神宮で、その境内には大氏宮以下9社があわせまつられるとともに、村堂としての大日堂がありました。別に地蔵堂もあったようです。社・堂では、一年を通じて、表2のような年中行事が行なわれていました。そして、社・堂とその行事は、建物等の修理の費用にあてる修理田や、行事の費用を賄〔まかな〕う料田の管理も含め、惣(宮座)により維持運営されていたようです。
 表2を参照しながら、市域浜田の例を見てみましょう。浜田は、戦国時代の永正16年(1519)、隣接する大島荘と浦浜の境目をめぐって争い、室町幕府から「浜田庄名主沙汰人中」宛てにその主張を認める文書を受けていることから(地域研究史料館蔵、寺岡得夫氏文書)、浜田荘(実態として近世の浜田村と同一か、あるいは東新田村を含んでいた可能性もある)として惣を形成していたことが確認できます。当地の松原神社は、この中世浜田荘あるいは浜田村の鎮守と考えられる社です。
 同社には、近世、正月の注連〔しめ〕飾り・御鏡餅、2月18日神事、節句式日、10月5日神事、11月16日神事があったことが確認できます(西宮市・岡本俊二氏文書、右の多くは一部日を変えて現存)。このうち、正月の行事は表に見える正月朔日〔ついたち〕の御当〔おとう〕に、節句は3月3日・9月9日の御当に重なります。11月の神事は御火焼(ホタキ、大松明〔おおたいまつ〕を燃やして陽気を迎える祭)でしょう。加えて同社には、近世には宮座が支配する「宮之弓田」があり(地域研究史料館蔵、堀新次氏文書)、浜田村の文禄3年の検地帳(個人蔵、草葉忠兵衛氏文書)に見えることから、確実に中世にさかのぼります。この名は、あるいは表2にある武射〔ぶしゃ〕(結鎮〔けちん〕とも言い、弓矢を放って鬼神を鎮め、村人の幸福を願う行事)の料田に由来するのかもしれません。また、検地帳には「彼岸田〔ひがんでん〕」という字が見えます。これは、表にはありませんが、春秋の彼岸に、鎮守か仏堂で行なわれた仏神事の料田の名残りと考えられます(注3)。以上から、中世には浜田荘(村)でも久代荘(村)と同様に、惣(宮座)が管理する田畠を財源に、鎮守や仏堂で多様な仏神事が行なわれていたことを想定できるのです。
 ここでは一地域の例を検討したに過ぎませんが、他の地域の社や堂についても、多かれ少なかれ同様のことが言えるのではないかと思われます(注4)。そして、こうした年中行事や仏神事では一般に、村や住民の息災安穏〔そくさいあんのん〕や五穀豊穣〔ごこくほうじょう〕が祈られたことが知られています。加えて、こうした行事が、村の一年の農事暦と深くかかわり、村びとの日々の農耕の営みと強く結びついていたことも指摘されています。
 また、仏神事や堂社修理の財源となる田畠は、生島村の大日堂へ寄進された田地が堂の「大義造営」に充てられていたように、多く村びとの寄進によるものでした。寄進にあたっては、村や社の平和と繁栄、自身の現世安穏とともに、しばしば自身の極楽往生と先祖の追善供養が祈願されています。後者の場合、ときに忌日の念仏などを依頼することもあり、それは、仏堂に結集する講中や村の老若により執行されました。
 このように、村の鎮守と仏堂は、村びとの現世の生活と来世の極楽往生をともに保障する機能を果たしていました。

表2 久代村の寺社年中行事
春日大明神宮
毎月朔日 御 弊
正月朔日 御 当
3月3日 御 当
9月9日 御 当
4月8日 夏中日参御経
6月晦日 御 祓
9月28日 祭 礼
11月初卯酉 庄神祭
11月15日 御火焼
大 日 堂
毎月28日 御 経
正月3日 御 経
正月11日 大般若経祈祷
2月27日 八 講
不 詳 左吉(義)長
2月16日 武 射

※付属する諸社の行事は省略した。
出典:「久代村古記録」(『かわにし』第4巻)

戻る


石造物の世界

 中世の村びとの信仰のありようを今に伝えてくれる貴重な存在として、当時つくられた石塔・石仏などの石造物があります(注5)。
 現在までに市内で確認された中世の石造物は、在銘のもののみで180基に及び、無銘のものも含めれば、その数はさらに増加します。このうち最古と目されているのは、大物〔だいもつ〕町常念寺の層塔と宝篋印塔〔ほうきょういんとう〕の残欠で、ともに鎌倉時代末の1305年頃のものと考えられており、ちょうど惣村の成立時期と重なっていることが注目されます。
 実際、鎌倉時代後期〜南北朝時代の遺品を見ると、元応2年(1320)西武庫須佐男神社十三重塔(写真1)をはじめ、守部〔もりべ〕素盞嗚神社十三重塔残欠、上坂部伊佐具神社五輪塔、尾浜八幡神社宝篋印塔など、多くが村の鎮守の境内にあることがわかります(なお、西武庫須佐男神社境内には観音堂が、伊佐具神社の西北には地蔵堂があります)。また、寺町如来院に現存する嘉暦2年(1327)笠塔婆〔かさとうば〕(写真2)は、近世城下町形成以前から同地に所在するとされていますが、縁起によれば、同院はもと神崎にあった釈迦〔しゃか〕堂が尼崎町に移転して来たとされています。その移転の時期(大覚寺に残る絵図や文書からは鎌倉時代末期〜室町時代前期と考えられますが、異説もあります)からすると、この笠塔婆は神崎の釈迦堂に建立された可能性が考えられます。つまり、こうした石造物が、村びとの結合を背景に、村の信仰の核である鎮守や仏堂に接して建てられたことが推測できるのです。
 在銘のものを見ると、銘文には、両親の供養のため(西武庫須佐男神社十三重塔)、両親の三十三回忌の供養のため(如来院笠塔婆)とありますが、先述した鎮守や仏堂の村における位置付けを考えるならば、これらは社や堂への寄進物として建てられ、村によって維持されたものと考えられます。供養の対象者は、他の村びとにも冥福〔めいふく〕を祈ってもらうことで、よりよく極楽往生できるとともに、祈りを捧げた人々にもその功徳〔くどく〕が及ぶという信仰が、背景にありました。また、無銘のものは、同じ信仰で結ばれた村びとの集団=一結衆〔いっけつしゅう〕により建てられたものが多いと推定されています。このように、鎌倉時代後期〜南北朝時代の石造物は、惣村の村びとの信仰のありようをよく示しています。
 また、室町〜戦国時代の石造物で特徴的なものは、応永4年七松〔ななつまつ〕共同墓地板碑(写真3)をはじめ、七松・大西・塚口に残る題目(「南無妙法蓮華経」)を刻んだ板碑です。板碑は、板石を加工して本尊や銘文などを刻んだ石塔の一種ですが、これに題目を配した題目板碑は、法華宗(日蓮宗)特有の石造物で、県内では市内のほか、伊丹市と淡路島にのみ残されています。

写真1 西武庫十三重塔


写真2 如来院笠塔婆


写真3 応永4年七松共同墓地板碑(拓影)

戻る


諸宗派の浸透

 市域で法華宗といえば、同宗本門流大本山・本興寺を中心に、港湾都市として栄えた尼崎町との関係が注目されがちですが、前記のような題目板碑の残存状況からは、室町〜戦国時代にかけて、村落部、とりわけ立花地区に有力な信者が存在したことがわかります。寺町の法華宗長遠寺〔ぢょうおんじ〕は、かつて七松にあったという伝承があり、あるいはこういった事実とかかわりがあるのかもしれません。
 先に見たような、村の鎮守や仏堂を中核とした、極楽往生への信仰(阿弥陀〔あみだ〕信仰)や念仏信仰は、荘園領主等によりもたらされたいわゆる旧仏教(天台宗・真言宗)の教えにもとづくものと考えられていますが、こうしてつくられた下地の上に、鎌倉新仏教の諸宗派が展開していくことになります。市域においてその過程を詳しく追うことは困難ですが、題目板碑の存在は、その一端を垣間見〔かいまみ〕させてくれます。立花地区には近世以降法華宗の寺院はなく、同宗の勢力は衰退したようです。同地区を含め、市域に最も浸透していったのが、浄土真宗の勢力でした。そしてこれは、一向一揆という形で、地域社会を動かす大きな政治的社会的なうねりを生み出していったのです(本節2参照)。

〔注〕
(1)常松〔つねまつ〕には今も春日神社があり、西武庫の須佐男〔すさのお〕神社は近世には牛頭天王〔こずてんのう〕・八幡・春日神を、また東武庫の須佐男神社は牛頭天王・春日大明神をあわせまつっていました。さらに、武庫庄にも春日社がありました(明治期に須佐男神社に合祀)。 なお、このほかやはり春日社・興福寺領西小屋荘の遺称地である西昆陽〔にしこや〕、同じく生島荘浜郷の一部であったと見られる西難波〔なにわ〕にも近世春日社がありました(明治期に須佐男神社・ 熊野神社に合祀)。
(2)浜田松原神社・栗山生島神社・常松春日神社・尾浜八幡神社・長洲貴布禰〔ながすきふね〕神社・同天満神社・西昆陽須佐男神社・七松〔ななつまつ〕八幡神社・東新田琴浦神社・万多羅寺素盞嗚〔まんだらじすさのお〕神社・常吉〔つねよし〕須佐男神社・西富松須佐男神社・守部〔もりべ〕素盞嗚神社・東難波八幡神社・別所戎〔えびす〕神社・穴太〔あのう〕白井神社・下坂部伊居太〔しもさかべいこた〕神社・潮江素盞嗚神社など。今も宮座の慣習が遺〔のこ〕る神社もあります。
(3)中世浜田村に仏堂があったかどうかは不明です。ただ、近世に「堂なし」の虚空蔵菩薩・観音菩薩像があり(西宮市・岡本俊二氏文書)、これらを収めた堂があった可能性があります。
(4)友行村の延宝5年(1677)の検地帳(地域研究史料館蔵、友行部落有文書)に、「弓田」「ひがんでん(彼岸田)」の字が見えます(なお、今北にも「弓田」という小字があります)。また、潮江村の延宝7年の検地帳(岡村信邦氏文書)の字に「かくらでん」が見え、穴太・七松・水堂〔みずどう〕・東難波には「神楽田」という小字があります。これらは、中世に仏神事の際行なわれた神楽の料田の名残りとも思われます。
(5)市内の中世石造物については、『尼崎市史』第10巻第2章「尼崎の石造美術」をはじめとする田岡香逸氏の研究に拠っています。

戻る