中世編第1節/中世社会の形成3/「猪名の笹原」と橘御園(田中文英)




歌枕としての猪名野

 猪名川の西岸から昆陽〔こや〕にかけての高燥な台地一帯を総称して、古くは猪名野といい、いまも伊丹市内の稲野や尼崎市域の猪名寺などにその名が伝えられています。この猪名野は、王朝貴族の世界では、和歌の名所〔などころ〕、いわゆる歌枕の地として有名で、多くの和歌に詠まれてきました。そのいくつかをあげてみましょう。

 しなが鳥 ゐなの伏原〔ふしはら〕とびわたる 鴫〔しぎ〕の羽音面白きかな
  神楽歌(「拾遺和歌集」巻十)
 有馬山 猪名の笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする
  大弐三位〔だいにのさんみ〕(「後拾遺和歌集」巻十二)
 しなが鳥 ゐなのふし原風さえて 昆陽の池水こほりしにけり
  藤原仲実(「金葉和歌集」巻四)

 このうち、大弐三位の歌は「小倉百人一首」にも撰録されており、とくに有名です。これらの和歌において、猪名野は、笹が生いしげる荒野であり、かつ風が吹きすさび、氷が張りつめるなど、荒涼寂寞〔せきばく〕としたイメージを込めて、「猪名の笹原」「猪名の伏原」「猪名の柴原〔ふしはら〕」などと詠まれたのでした。猪名野は、伊丹段丘〔だんきゅう〕と呼ばれる台地上に位置し、未開の荒野が多く存在したので、このように詠まれたのもあながち理由のないことではありません。
 けれども、歌枕における猪名野の荒涼寂寞とした情景やイメージは、作歌上の約束ごと(前提)であって、必ずしも実景とイコールではないのです。歌枕の作歌上のもっとも重要な特色のひとつは、実景を直写することではなく、その地名について、これまでに詠まれてきた情景・イメージの表現パターンを固定し、その枠組みのなかで、いかに巧みにアレンジして詠むかという点にありました。したがって、作歌に際して修辞と技巧を凝らせば凝らすほど、ますます実景(現実)から遠ざかり乖離〔かいり〕するという要素も持っていました。

「猪名寺・金塚 〔こがねつか〕・猪名笹原」
『摂津名所図会〔ずえ〕』より
 右端に「ゐな寺」として現在の法園寺境内、猪名寺廃寺跡の森を描き、神崎からの街道の先に、遠景として伊丹町の人家を配しています。左の上部には、鎌倉時代前期の歌人・藤原隆祐の和歌「かるもかく ゐなのゝ原のかり枕 さてもねられぬ 月を見るかな」(「続古今和歌集」収録)を載せ、古来からの歌枕の地としてこの風景を描いています。

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猪名野の開発と志多羅神事件

 猪名野の場合もそうで、王朝貴族の歌枕の世界で荒涼寂寞たる原野としてのイメージが定着し始める、まさにその10世紀中頃から、現地では開発活動が積極的に展開されつつあったのです。それをよく示すのが、つぎの志多羅神〔しだらがみ〕事件です。
 天慶8年(945)7月25日に、摂津国河辺郡から数百人ほどの民衆が、志多羅神という、これまで聞いたこともない神様を祀〔まつ〕った3基の神輿〔みこし〕をかついで、幣帛〔へいはく〕をささげ、太鼓を打ちならして歌舞しながら西国街道を東上するという事態が発生しました。その集団には、途中から大勢の人々が加わって激増し、行きつ戻りつしながら8月のはじめに石清水〔いわしみず〕八幡宮の近くまで到着した頃には大群衆になっていたと言われ、神輿も6基に増加していました。その間、7月28日には、神輿は河辺郡の昆陽寺(伊丹市)にも寄っているので、当然、その近くの猪名野地域の住人のなかからも多数の参加者が輩出したことでしょう。「志多羅神」の「しだら」とは、手拍子のことで、この神を祀った神輿のまわりに大勢の人々が集まり、手拍子を打って歌舞したことから名付けられたと見られています。このとき民衆が歌った童謡〔わざうた〕(歌謡)が別掲のように6首残っています。この歌謡の内容からもわかるように、この志多羅神は、農村における開発と生産の拡大を守り、農民たちの富と長寿への願望に応〔こた〕えてくれる神として熱狂的に信仰されたのでした。
 この時期は、平将門や藤原純友の乱などが起こって古代国家の支配が大きく揺らいでいくときであり、農村では新しく台頭してきた富豪層農民を中心として、開発活動が積極的に展開され始めるときでした。そうした開発と農業生産を守る神としての志多羅神の発祥地が河辺郡−しかも昆陽付近−という事実は、この時期に猪名野や猪名川流域の農民のあいだに荒野や未開地を切りひらき、新しい村づくりをめざす活動が昂揚〔こうよう〕しつつあったことを物語っているのでしょう。
 猪名川の中流渓谷の小盆地、現在の川西市多田院に、源満仲〔みつなか〕が多田荘を設けるのも、この志多羅神事件から間もない頃でした。満仲は,安和の変後、天禄元年(970)にこの地に多田院を創建して館を構え、武士団を形成しながら多田荘の開発をすすめました。その子孫は多田源氏(摂津源氏)と称されて、北摂一帯に勢力を拡張していきます。

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志多羅神の童謡6首


 『本朝世紀』によると、このとき民衆たちは、つぎの童謡〔わざうた〕を歌って歌舞しました。
月は笠着る 八幡は種蒔 いざ我等は荒田開かむ
 (月は笠をかぶり、八幡神は種を蒔く、いざ我らも荒田を開墾しよう)
しだら打てと 神は宣まふ 打つ我等が命千歳
 (手拍子を打てと神は宣う、手拍子を打てば、我らの命は千年も永らえるぞ)
しだら米 早買はば 酒盛れば その酒 富める始めぞ
 (手拍子を打って、米を早く買い、酒を盛んにつくれば、その酒は富の始まりになるぞ)
しだら打てば、牛は湧ききぬ 鞍打ち敷け 佐米を負わせむ
 (手拍子を打てば、牛も精を出す、さあ牛に鞍を置いて、米を背負わせよう)
   反歌
朝より 蔭は陰れど 雨やは降る 佐米こそ降れ
 (朝から大変くもっており、待ち望んだ雨が降りそうだ、それは米が降るのと同じことだ)
富は揺み来ぬ 富は鎖懸け 宅儲けよ さて我等は 千年栄えて
 (富がどんどんやって来る、鎖をかけてやってくる、家宅をつくろう、そうすれば、我らは永遠に栄えるぞ)

志多羅神の行程 天慶8年(945)7月
 多くの民衆が、志多羅神の神輿を摂津国河辺郡から山城国の石清水八幡宮までかついで行進した行程です。河辺郡を出発した当時は数百人でしたが、石清水八幡宮の近くまで来た時には、大群衆になっていたと言います。

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橘御園の発展とその特色

 こうした農民や武士の活動によって、猪名野から猪名川流域にかけての開発が次第にすすみ、平安中期以降、後述する橘御園〔たちばなのみその〕をはじめ多くの荘園が成立します。伊丹市昆陽寺付近の小屋荘(昆陽荘)、伊丹市域から尼崎市域にまたがる野間荘、さらにその南には富松〔とまつ〕荘・大島雀部〔ささべ〕荘・生島荘などが相次いで形成されていきました(注1)。これらの荘園については史料が乏しいため不明な点が多いのですが、さいわい摂関家領の橘御園に関してある程度内容をうかがえるので、少しくわしく見ることにしましょう。
 橘御園は、もともと園地(畠地)を中心とする所領で、摂関家へ橘の実や柑子〔こうじ〕などの柑橘〔かんきつ〕類を貢納する果樹園が多かったために、その名称が生じたと言われています。その境域は、中世文書に現れる地名によると、南は現在の尼崎市の立花・久々知〔くくち〕・生島付近から、伊丹市域の森本・北村・辻村などを含めて、北は川西市の多田荘に接し、東は池田市の呉庭〔くれは〕荘、西は宝塚市の山本荘に及ぶ広大な地域に、他の荘園の田畠と複雑に入り組みながら散在する形態をとって分布していました。橘御園が、このような所領形態をとって発展した理由のひとつは、この地域の自然地理的条件によって規定されたものと思われます。この地域は、猪名川沿いの氾濫原〔はんらんげん〕や伊丹台地の猪名野に位置し、原野・荒野が多く広がるところでした。したがって、当時の技術水準や労働組織では、住人たちがこの未開の地を広範囲にわたって開発し、灌漑〔かんがい〕用水施設などを設けて田地や水田に造成していくことは極めて困難でした。そこで、住人たちは、これらの未開地を開墾して、まず果樹園や畠地などをつくり、それを徐々に田地に造成していく方法をとったと考えられます。当然、その過程は順調なものではなく、旱魃〔かんばつ〕・風水損・虫害などによって、田地が畠地になり、さらに野原にもどるような現象が頻発〔ひんぱつ〕したことでしょう。それを克服しながら開発がすすめられていったのでした。橘御園が広い分布形態を示していることは、この地域で、そうした開発活動が、いかに広範かつ積極的に展開されたかを物語っています。
 ところで、この橘御園のもうひとつの特質は、住人のなかに、摂関家の散所雑色〔さんじょぞうしき〕・舎人〔とねり〕・寄人〔よりうど〕などの身分を持つ者が多数存在したことです。これは、摂関家領としての橘御園の成立の仕方と密接に関係するものでした。橘御園の史料上の初見は、11世紀中頃の関白藤原頼通の時代です。その頃から、この地域の住人たちは、自分たちが開墾した果樹園や畠地などを摂関家に寄進して、各種の産物を貢納したり、労役奉仕をするかわりに、散所雑色・舎人・寄人などの身分を認めてもらい、その身分的特権と摂関家の権威を背景として、国司の課するさまざまな負担・課役や、多田源氏のような武士の侵略などを排除して、自分たちの権益を守る方法をとったのでした。したがって、それは、住人たちが、たんに開発活動だけでなく、自分たちの開墾地や権益を守るための政治的努力を積極的に展開したことの証しでもあったわけです。

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橘御園に関連する地名


 『摂津志』(並河誠所編、享保20年)に「御園荘」と注記されている村と「橘御園荘」と注記されている村が、尼崎市域と伊丹市域に広がっています。中世の橘御園関係の文書には、さらに広範囲の地名も記されています。

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住人の活動と相論の展開

 橘御園の住人の摂関家にたいする貢納品や労役奉仕(課役)の内容にも、田地を主体とする一般の荘園とは違った特色が見られます。柑橘類のほかにも、12世紀中頃には、毎年5月5日の節句に、浜刀禰〔とね〕(京都市)・大津御厨〔みくりや〕(大津市)・垂水東牧(吹田市)などとともに菖蒲〔しょうぶ〕30駄(注2)を貢納するのが恒例になっていました。また、住人のなかには前記のように、散所雑色・舎人・寄人などの身分の者がおり、その身分にともなう課役を奉仕する義務がありましたが、なかでも注目されるのが散所雑色です。散所雑色は、摂関家の政所〔まんどころ〕に所属し、交通の要衝〔ようしょう〕などに置かれることが多く、交通・運輸などに関する雑役を奉仕するのが一般的でした。猪名川流域に位置する橘御園の場合でも、摂関家は河川交通や運輸などに従事する住人の盛んな活動に注目し、彼らを雑色身分に編成して課役を奉仕させる体制を形成していったものと考えられます。
 さて、橘御園の開発がすすむと、貢納品の内容にも変化が生じるようになります。『康平記』の康平5年(1062)正月の記事によれば、春日社の祭礼に参詣する内大臣藤原師実〔もろざね〕一行に対する雑事として、橘御園に「裹飯〔つつみいい〕二百果」を割り当てています。裹飯とは、飯を木の葉などに包んだものや、強飯〔こわいい〕を握り固めた弁当のことです。このとき一緒に貢納を命じられているのが、良米の産地として知られる河内国の玉櫛荘(東大阪市)であることからすると、すでにこの頃には、橘御園の内部でも田地の開発がすすみ、米の生産も相当盛んになっていたことがわかります。
 しかし、田地の開発が進展するのは、橘御園の内部だけではありません。橘御園の住人のなかから、近隣の荘園に出作りをしたり、田地を請負って耕作したりする者が相次いで出現するようになります。橘御園は、本来、他の荘園と複雑に入り組んだ構造になっていたため、そうした住人の開発や耕作活動が活発化するにつれて、他荘との間に係争事件や相論などを頻発するにいたります。久寿3年(1156)に橘御園の住人が、長洲〔ながす〕御厨(尼崎市)・椋橋〔くらはし〕荘(豊中市)の住人とともに、東大寺領猪名荘〔いなのしょう〕(尼崎市)の田地を耕作しながら地子〔じし〕を滞納して譴責〔けんせき〕された事件が起こっています。同じ頃、北部でも呉庭荘と山本荘の田畠の帰属をめぐる争いに、橘御園の住人が介入する事件が発生しています。
 こうして、王朝貴族の歌枕の世界では、荒涼たる未開の原野とされた猪名野や、猪名川流域の低地帯でも、橘御園の住人たちのような開発活動が積極的に推進され、活気にみちた中世的世界が切り開かれていったのでした。


 橘御園からは、5月の節句の行事に使われる菖蒲(葉の部分)を摂関家に貢納するのが恒例になっていました。写真は尼崎市農業公園(尼崎市田能〔たの〕)の花菖蒲です。

〔注〕
(1)本節4「平安末期の動乱と尼崎地域」参照。
(2)駄…馬1頭に負わせるだけの重量分をいう。

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