中世編第3節/戦国争乱期の尼崎2/港町・尼崎と塚口寺内町(仁木宏)




港町の発展と寺院

 戦国時代の大阪平野にはさまざまな種類の都市が数多く成立しました。池田・伊丹などには城下町ができましたし、西国街道沿いの宿(宿場町)も発達しました。なかでも顕著な発展ぶりを示したのが、港町と寺内町〔じないまち〕です。
 大阪湾に面する港町としては、堺がもっとも有名です。戦国時代には、瀬戸内海航路、太平洋航路(土佐沖、紀伊半島沖)の貨客が集中し、南蛮貿易の拠点にもなります。このほか、兵庫、西宮、渡辺・大坂、泉大津などがそれに次ぐ地位を得ました。
 神崎川(三国川)と猪名川の河口部にあたる河尻〔かわじり〕にも港町は発達しました。中世前期には、椋橋〔くらはし〕(庄本遺跡)、長洲〔ながす〕など複数の拠点が、瀬戸内海航路と淀川・神崎川航路の中継地として栄えていましたが、それらが徐々に淘汰〔とうた〕され、15世紀以降はおおむね大物〔だいもつ〕と尼崎に限定されたようです。また尼崎が発達するにつれ、大物をその一部分に取り込んでいくようです。
 15世紀までの尼崎は、律宗大覚寺を中心とする港町として展開していました。早くも応永18年(1411)には、都市自治組織である地下〔じげ〕番頭の寄合が開催され、老若、宿老などがいたことがわかっています。明応5年(1496)には魚崎町、市庭〔いちにわ〕南町などの町が成立しています。また、紀伊国の湯浅宗祐が市庭南町に屋地を持っていたことは、尼崎と紀伊との日常的なつながりを想像させます。戦国時代には、尼崎四町として市庭町、別所町、風呂辻町、辰巳町があり、このほかに魚崎町などがあったと考えられます。
 尼崎には、新しい宗教勢力も進出してきました。15世紀以降、法華宗(日蓮宗)の寺院が開基されます。本興寺は、応永27年、日隆によって建立されました。細川氏や伊丹氏などに礼物(献金)を送り、都市的な特権を認める禁制〔きんぜい〕をもらっています。寺の西側を中心に、門前町が発達していたようです。現在も残る開山堂や方丈〔ほうじょう〕は、戦国時代にすでに建立されていました。もうひとつの法華宗寺院である長遠寺〔ぢょうおんじ〕も、戦国時代に七松〔ななつまつ〕から尼崎に移ってきます。
 法華宗に対抗するように、一向宗(浄土真宗)は大物に進出し、道場を設置しました。16世紀半ばには、西教寺が進出してきたと伝えられています。このほか、尼崎には、都市住民の氏神である貴布禰〔きふね〕神社などがあったことが知られています。これら複数の寺社がそれぞれ寺内(境内)や門前に町屋を展開しました。戦国時代の都市尼崎は、四町などの独立した町と、寺社門前の集合体として成り立っていました。永禄10年(1567)には、イエズス会宣教師ルイス・フロイスも尼崎を訪れています。

戻る

元亀3年(1572)「長遠寺建立につき織田信長条々」



元亀3年(1572)「長遠寺建立につき織田信長条々」(長遠寺文書)

 上の文書は、織田信長が法華宗長遠寺の寺内町に特権を与えて、保護する姿勢を示したものです。戦国時代によく見られる、都市的な特権が網羅されています。
 軍兵の乱暴や軍事課税を禁じた条項(第1・2条)、不法な質取り行為や徳政(借金の棒引き令)の適用を禁じて、安定的な商取引を保障した条項(第3・4条)、税や徴発の免除を定めた条項(第6・7条)からなっています。第5条は、中世尼崎のアジール(治外法権)としての性格を認めたものと言えるでしょう。
 尼崎の法華宗は、前代の三好政権以来、権力の手厚い保護を受けており、信長もそれを踏襲したのでしょう。このことが港町としての尼崎の発展につながりました。また信長にとっては、本願寺・一向宗に対抗するため、法華宗を援助したという側面もあります。


長遠寺〔ぢょうおんじ〕本堂
慶長3年(1598)以降に現東本町〔ほんまち〕の南部に建立、元和9年(1623)現在地(寺町)に移築再建

戻る

江戸時代の貴布禰神社


江戸時代の貴布禰〔きふね〕神社 『摂津名所図会〔ずえ〕』より
 中世尼崎町の総社として、もとは現北城内北西部にあったと伝えられますが、近世尼崎城築城にともない西屋敷役人町(現西桜木町)に移転。さらに正徳5年(1715)この図のように城下西端(現在地の西本町〔ほんまち〕)に移されました。図中、境内前面を通る中国街道は、竹谷〔たけや〕御門から玄蕃〔げんば〕堀の橋を渡って出屋敷の町並みに至っていました。

戻る

自治都市と城

 この頃の尼崎には、どんな人々が住んでいたのでしょうか。港町ですから、交通運輸業者である船頭・水主〔かこ〕や、陸上の物資を運ぶ馬借〔ばしゃく〕などがいたことでしょう。当時、尼崎には、米、塩、油、材木などが海上ルートから入ってきたと考えられます。これらを保管する土倉〔どそう〕(倉庫業者)もいたでしょう。土倉はしばしば高利貸業も営みました。その他の商人や手工業者だけでなく、僧侶や武士も居住し、また漁民や農民も少なくなかったと推定されます。
 こうした都市住民が結集して、都市共同体を形成していました。都市の空間は、先に見たように四町や寺社門前などがモザイク状に入り組んでいたと思われますが、都市住民はそうした垣根を越えて、全体として「惣中〔そうちゅう〕」と呼ばれる自治組織を結成していました。
 尼崎には、しばしば大規模な合戦の舞台となった尼崎城もありました。永正16年(1519)に城柵を築いたという記事があり、本格的な築城は、大永6年(1526)だったようです。摂津守護細川高国が諸将に築城を命じていることから、私的な城ではなく、守護の城(公的城郭〔じょうかく〕)であったと考えられます。土石を運んで築城したという記事があることから、低湿地を埋め立てたものであったのかもしれません。
 戦国時代の尼崎城の位置については、『尼崎市史』第1巻刊行当時は近世尼崎城と同じ場所だとする説が採られていました。しかしながら、その後、近世城下絵図の考証から、近世尼崎城の本丸の北東、大物の西側が戦国期尼崎城の故地と考えられるに至っています。戦国時代の発達した港町を見渡したとき、町の中心に城郭が立地する事例は全国的に皆無です。たとえば、兵庫の場合も兵庫城が町場に隣接して築かれるのは16世紀末になってからです。おそらく尼崎の場合も同様であり、寺社が強く、また都市住民が結集して都市としての機能を発揮した尼崎町に、武家は入っていけなかったものと考えられます。
 尼崎は、堺に次ぐような、代表的な自治都市のひとつだったのです。

戻る

一向宗と寺内町

 戦国時代の代表的な都市である浄土真宗(一向宗)寺内町として、塚口も建設されました。塚口の中心寺院であった塚口御坊は、応永16年に建立されたと伝えられます。おそらく、当時は道場であったのでしょう。のちに、塚口御坊を警固することになる摂津三門徒として、広根村(現猪名川町)の最徳寺、多田村(現川西市)の光遍寺、箕輪村(現豊中市)の超光寺が知られています。このことから塚口御坊が、川辺郡・豊島〔てしま〕郡・能勢〔のせ〕郡の中心寺院のひとつであったことがわかります。
 塚口が卓越した地位を獲得し、寺内町が発達したのは、立地条件の良さのためでしょう。塚口は、伊丹と尼崎を結ぶ南北の街道と、西宮と吹田を結ぶ東西の街道の交差点に立地していました。
 1530年代、大坂(石山)が本願寺の本山となると、やがて大阪平野各地に衛星都市のような寺内町群が形成されていきました。摂津では、小浜〔こはま〕(現宝塚市)、富田〔とんだ〕(現高槻市)などが著名であり、塚口もそのひとつと位置付けられます。寺内町の特徴は、都市的な特権を認める禁制類を獲得していることです。残された史料からは、塚口が明確に寺内町と確認されるのは1570年代以降ですが、その立地から考えて、16世紀前半には寺内町として成立していたと思われます。
 近世の絵図などによれば、塚口寺内町の周囲を取りまく土塁の大半は18世紀まで残っていました。おそらく、江戸時代になってから大規模な改造はなされていないでしょうから、こうした土塁で囲まれた領域を、戦国時代の寺内町の範囲と認めてよいでしょう。東西約400m、南北約300mの長方形です。内部は、塚口御坊を中心に、東町・清水町・北町・南町に区画されています。四つの町にはそれぞれ門があったようです。「城ノ内」「城ノ山」という地名も残っていたことから、寺内町になる以前に土豪の城館があったのかもしれません。
 平成17年に実施された発掘調査によって、寺内町の南側で一部、二重になった堀が確認されました。自然地形も活かしながら、要害化をすすめていたのでしょう。塚口の周辺では、富松〔とまつ〕や生島などで、有力な百姓が自分の屋敷を道場にして真宗の教えを広めていたことがわかっています。本願寺・一向宗が農村へ広がり、政治・経済・宗教三位一体となって強固な基盤を形成していく、まさにその拠点として、塚口寺内町が位置していたことがわかります。
 ところが、本願寺・一向一揆が織田信長と戦った「石山合戦」においては、大阪平野の寺内町のほとんどは中立、ないし信長寄りの姿勢をとることになります。住民の生命・財産の安全を守り、都市を振興させるための選択だったのでしょう。塚口寺内町もそのひとつでした。有岡城(伊丹城)の荒木村重が本願寺と同盟して織田信長に対して挙兵すると、信長方は塚口を有岡城攻めの拠点として利用しました。尼崎が三好氏との深いつながりから信長軍に反攻し、焼き討ちに遭ったのに比べて、塚口の方がより現実的対応をしたと言えるかもしれません。

天正10年(1582)10月18日「塚口神家宛て羽柴秀吉禁制」(地域研究史料館蔵、岸岡茂氏文書)


塚口寺内町復元図(藤田実氏作成図に着色)
 道路が碁盤目状に整序されておらず、町の範囲も入り組んでいることから、中世当時の町並みの名残りを示していると推定される、貴重な遺構です。

戻る

塚口寺内町と周辺の堀・川


〔参考文献〕
小野寺逸也「江戸時代前期の尼崎城下絵図について」(一)(二)(『地域史研究』9−3・11−3、昭和55年3月・57年3月)

戻る