中世編第1節/中世社会の形成5/大物遺跡と流通(益田日吉)




河尻−神崎川河口の港

 延暦4年(785)、都と西国をつなぐ大動脈として、淀川と神崎川を結ぶ水路が開削されました。これにより平安時代には神崎川の河口部は「河尻〔かわじり〕」と呼ばれるようになります。西日本各地から都に送られる物資は海路河尻に着き、そこからさらに川船に積み替えられて淀津までのぼって都へ運ばれて行きました。このように河尻の地は瀬戸内海水運と神崎川・淀川水運を結ぶ物資流通の重要拠点として発展していきます。
 一方、この河尻の地は、猪名川・神崎川河口の三角州地帯にあたるため、たえず土砂が堆積〔たいせき〕して水深は変動し、河川の移動や新たな陸地の形成など地形の変化が盛んに起こりました。そのため平安時代から中世を通じて、特定の場所が港湾施設の整った港として発展したわけではなさそうです。長洲〔ながす〕・神崎、大物〔だいもつ〕・杭瀬、尼崎と、主要な港は時代とともに移り変わっていったと考えられます。
 河尻の港については、文献資料等を中心に研究がすすめられてきました。現在の地名などからの位置比定とわずかな出土資料によって、神崎が西川遺跡周辺、長洲が金楽寺貝塚周辺に推定されてきました。しかし、その具体的な内容は必ずしも明確にはなっていません。これは、この地域の地形の変動と都市化の進展によって、近世以降大きく改変されたことから当時の集落の位置が明確にできていないためです。
 文治元年(1185)、源義経一行が兄頼朝との不和により船出し遭難〔そうなん〕したことで知られる「大物」も河尻の一翼を担う港湾集落で、現在の大物町あたりと考えられてきました。しかし、具体的な内容についてはまったくわかっていませんでした。

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大物遺跡の発見

 平成6年(1994)10月、大物町2丁目で市営大物団地の建築工事が計画されたため事前に試掘調査を行ないました。その結果、現地表から約2m下の砂層から銅鏡一面と多量の中世の土器などが出土したため、「大物遺跡」と命名し発掘調査を行ないました。
 発掘調査は、市営住宅の建物部分約555uについて、平成7年4月から8月の5か月間かけて行ないました。現地表下約1.8mまでの盛土を掘削〔くっさく〕重機で除去した後、江戸時代に尼崎の城下町の北端を流れていた水路とその前身と考えられる戦国時代の溝を検出しました。さらに下の堆積層には、平安時代から鎌倉時代にかけての白磁〔はくじ〕・青磁〔せいじ〕など中国からもたらされた貿易陶磁器、常滑〔とこなめ〕窯・渥美〔あつみ〕窯など東海地方で生産された陶器、西日本各地で生産された土器をはじめ木製品・石製品など多種多様の遺物が多量に含まれていました。この遺物を含む層(遺物包含層)の厚さはもっとも厚いところで1.8mあり、堆積状況等土層の観察から14の層にわけることができました。
 しかし、建物跡、井戸、溝、ごみ捨て穴など人々がこの場所で生活した痕跡は見当たらず、南から北へなだらかに傾斜した自然の堆積層となっていたことから、この場所は、集落の北側で東西方向にのびていた流路が土砂の堆積によってしだいに干上がり、低湿地化していった場所と考えられます。また、現地形に見られる高まりなどから、当時の集落はこの調査地の南東側につづく地域ではないかと推定されます。


図1 大物〔だいもつ〕遺跡と周辺の中世遺跡
1辰巳橋遺跡 2小田遺跡 3長洲〔ながす〕包含層 4長洲石ノ戸遺跡 5金楽寺貝塚遺跡 6猪名庄遺跡 7西川遺跡
国土地理院発行の2万5千分の1地形図(大阪西北部)より

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西日本各地の土器

 それでは、大物遺跡から出土した遺物について具体的に見ていきたいと思います。
 大物遺跡から出土した遺物は整理箱約600箱分あり、そのうち平安時代から鎌倉時代の遺物が約350箱、江戸時代の遺物が約250箱です。
 平安時代から鎌倉時代の遺物のなかでもっとも多く出土したのが土器類で、土師器〔はじき〕・黒色土器・瓦器〔がき〕・国産陶器・貿易陶磁器などがあります。また、用途別では、椀・皿・杯〔つき〕など供膳用の食器と鍋・釜・壺・甕〔かめ〕・鉢などの調理・貯蔵用の器に大別することができ、供膳用の食器が土器全体の95%余りと大多数を占めていました。これらの土器はその形や作り方などから12世紀前半から13世紀後半のもので、特に12世紀後半から13世紀前半のものが大多数を占めていました。このことから大物がもっとも賑〔にぎ〕わった時代は、平氏政権誕生から鎌倉幕府の執権政治確立期にいたる約100年間であったと考えられます。
 このうち大物遺跡の性格を示す資料として注目されるのは、当時日常の食器として使われていた、西日本各地の椀・皿・杯など多数出土した土器です。大物遺跡から出土した供膳用食器の、実に22%余りを占めていました。そのなかには土器の形や作り方、使われている粘土などから、現在の岡山県から広島県で生産されたもの、香川県で生産されたもの、山口県から北部九州地方で生産されたものなど瀬戸内海沿岸各地で生産された土器が多数含まれていました(図2)。
 大物遺跡が位置する摂津地域はもとより、他の集落遺跡からはほとんど出土することがないこれらの土器は、西日本各地から物資輸送等に従事した人たちが使用し、大物に持ち込んだものと考えられます。近辺で同様の土器がわずかでも出土する遺跡は、淀川流域の高槻市や八幡市などが知られており、これらの遺跡も淀川水運との関わりが指摘されています。


図2 大物に運ばれてきた日本各地の土器

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青磁・白磁貿易と大物

 次に注目されるのは、当時盛んであった、中国大陸を中心とする海外との貿易によって日本に輸入された白磁・青磁などの陶磁器(貿易陶磁器)が、多数出土していることです。貿易陶磁器が、大物遺跡から出土した土器類全体の約2%を占めていました。
 貿易陶磁器の多くは福建〔ふっけん〕省・広東〔かんとん〕省など中国華南地方で生産された白磁の椀・皿や福建省同安窯〔どうあんよう〕、浙江〔せっこう〕省龍泉窯〔りゅうせんよう〕などで生産された青磁の椀・皿など供膳用の食器です。白磁・青磁の椀や皿は、数に多い少ないの差はありますが、近年日本各地の集落遺跡から出土することがわかり、当時広く流通していたことが確認されています。尼崎市内でも、数はごくわずかですが、この時期の集落遺跡から出土しています。
 一方、大物遺跡から出土した貿易陶磁器のなかには、江西〔こうせい〕省景徳鎮窯〔けいとくちんよう〕の青白磁合子〔ごうす〕、福建省磁竈窯〔じそうよう〕の黄釉〔おうゆう〕陶器盤、江西省建窯〔けんよう〕の天目〔てんもく〕茶椀、陜西〔せんせい〕省耀州窯〔ようしゅうよう〕の黒釉〔こくゆう〕陶器水注〔すいちゅう〕など、京都・博多・鎌倉・平泉などの都市遺跡を除く他の集落遺跡からはほとんど出土することがない高級品も、出土しています。これに白磁の四耳壺〔しじこ〕や褐釉〔かつゆう〕陶器の壺などを合わせると、供膳用の食器以外の陶磁器は、貿易陶磁器全体の約25%を占めていました。
 さらに、貿易陶磁器のなかには、底部に「丁綱」と墨書〔ぼくしょ〕された白磁の椀(写真1)が2点、花押が墨書された白磁の椀や青磁の壺が数点出土しています。「中国人名+綱」と墨書された貿易陶磁器はこれまで博多で大量に出土しており、中国で貿易船に積み込まれる際に荷主を示すために記され、博多での荷揚げの際に選別され使用・廃棄されたものと言われています。「丁綱」と墨書された貿易陶磁器の出土は、博多以東ではこれまでのところ大物遺跡が唯一の例です。出土量などからこれらの墨書土器と博多のそれを同一視することはできませんが、当時中国貿易の日本の玄関口として大いに賑わった博多と大物の関わりが注目されます。
 なお、博多では椀・皿などの高台を研磨していない貿易陶磁器の存在が指摘されています。貿易陶磁器は生産地では商品としての最終仕上げの研磨を行なわず、博多で商品化されていたと考えられています。一方、大物遺跡から出土した貿易陶磁器はすべて丁寧に研磨されており、商品化されたものが持ち込まれていました。このことから、博多と大物では貿易陶磁器受け入れの様相に違いが認められます。


図3 中国のおもな窯〔かま〕跡と日中交易路


写真1 「丁綱」墨書〔ぼくしょ〕土器
写真提供:尼崎市教育委員会

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大量の写経石など

 次に、大物遺跡から出土した土器以外の遺物としては、木製品、石製品、骨角〔こっかく〕製品、金属製品などがあります。
 木製品としては、箸〔はし〕・漆器・曲物〔まげもの〕などの生活用品、櫛〔くし〕・扇・下駄〔げた〕などの装身具・履物〔はきもの〕、砧〔きぬた〕・木錘〔おもり〕などの生産用品、呪札・舟形木製品・羽子板・将棋の駒などの呪術・遊戯具など総数691点が確認されています。
 このなかには、「能米四□□(以下不明)」や「御米弐□□」と墨書された荷札と考えられる木簡〔もっかん〕も出土しています(写真2)。
 石製品としては、砥石〔といし〕、石錘、紡錘車〔ぼうすいしゃ〕など生産用品のほか、長崎県西彼杵〔にしそのぎ〕半島一帯で製作され当時日本各地に広く流通した石鍋、割れた石鍋を再加工した製品や未製品、ヒノキ製の専用の木箱に納められた温石〔おんじゃく〕、いろいろな形をした硯〔すずり〕、遊戯具としての碁石など175点の製品・未製品が確認されています。
 また、どのような目的で写経し、この地に納めたかはわかりませんが、おもに扁平〔へんぺい〕な自然石に法華経の経文を細かい字で全面に墨書した礫石〔れっせき〕経とよばれる写経石が、「無量義経」と墨書された木簡とともにまとまって出土しています(写真3)。写経石は、ともに出土した土器によって12世紀末から13世紀初頭のものと考えられ、これまでに983点が確認されています。なお、この時期の写経石がこれほどまとまって出土した例は、これまでのところほかにありません。
 以上、大物遺跡から出土した遺物について概観してきました。これらの遺物は、商品として運ばれてきたものや、大物に集まった人々がみずからの生活に使用した生活の用具と考えられ、当時大物でどのような人々がどのような暮らしをしていたかを知ることのできる、貴重な資料となっています。


写真2 大物遺跡出土の木簡〔もっかん〕
左:「無量義経」長6.1p
中央:「御米弐□□…」長8.0p
右:「能米四□□…」長10.2p 
写真提供:尼崎市教育委員会


写真3 大物遺跡の写経石出土状況
 5×7p程の扁平な自然石が、多くを占めています。 
写真提供:尼崎市教育委員会

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交易都市・大物

 大物には、西日本各地の荘園から領主の住む都へ年貢として運ばれた米などの物資、各地の特産品で商品として広く流通した品々など、数多くの物資が集まってきたと考えられます。また、水上輸送の専門的な担い手であった「梶取〔かんどり〕」と呼ばれた人々をはじめ、物資輸送に従事した瀬戸内海沿岸各地の人々、農具・漁具など各種生産用具や石鍋の再加工製品・未製品の出土などから想像される農民・漁民や各種の職人、布教や勧進〔かんじん〕を行なう僧侶、高級品の貿易陶磁器や木箱入りの温石といった、ぜいたくな品を所持していた商人など富裕な人々もいたことでしょう。大物遺跡の出土資料はまさに、各地から運び込まれた物資とともに、さまざまな階層の人々が西日本各地から集まっていたことを、私たちに伝えています。
 当時「大物浦」や「大物浜」と呼ばれた地名から、今日私たちが想像するひなびた港や漁村のイメージとは大きく異なり、当時の大物は、たんに物資輸送の中継地ではなく、物資を集積・保管し、それらを交易する都市であり、さまざまな地域のさまざまな階層の人々が交流する場として、大いに賑わっていました。

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