中世編第2節/中世社会の展開4/悪党の蜂起(市澤哲)




悪党の登場

 鎌倉時代の末期、各地に「悪党」と呼ばれる人々が現れます。「悪党」とは、貴族や大寺社などの荘園領主が、自分たちの支配に敵対する人々を朝廷や幕府に訴えるときに使った呼称です。また、朝廷や幕府が自分たちに反逆する者たちを「悪党」と呼ぶこともありました。つまり、誰の目から見ても「悪党」に違いないという人々が、突然現れたわけではありません(写真1)。「悪党」は相手を訴えるときに使う呼称ですから、強盗や海賊だけではなく、れっきとした鎌倉御家人や荘園の荘官たちも、場合によっては「悪党」と非難されたのです。
 尼崎は、このような「悪党」の現れた場所としてとくに有名です。嘉暦4年(1329)4月、江三入道教性という人物が、東大寺領長洲荘〔ながすのしょう〕を預かっていた澄承僧都〔そうず〕を殺害する事件が起きました。東大寺は早速、教性ら「悪党人」を朝廷に訴え、幕府に彼らを捕えるよう命令してほしいと求めました。
 以下、ここに現れる教性と澄承の人物像を探りながら、尼崎に「悪党」が多く現れた理由、そして彼らが尼崎に与えた影響について考えてみましょう。

写真1 正安3年(1301)、春日大社の神鏡を奪った悪党(左側)と興福寺衆徒(右側)の合戦。両者のいでたちが似かよっていることが注目されます。
前田氏実・永井幾麻「春日権現霊験記〔かすがごんげんれいげんき〕(模本)」(東京国立博物館蔵)より
Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/

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澄承僧都

 まず、殺害された澄承僧都はどのような人物だったのでしょうか。
 東大寺が、澄承を殺害した教性を厳しく訴えたことから、澄承は東大寺に従順な代官であったかに見えます。しかし、残された史料からは、意外な澄承の横顔が浮かび上がってきます。澄承が殺害される20年前の延慶2年(1309)、東大寺僧が澄承を糾弾する文書を作成しています(写真2)。これによると澄承は、これ以前に東大寺が管理する兵庫関の現地管理人(雑掌〔ざっしょう〕)の任にありましたが、任期が終わっても年貢を東大寺に納めませんでした。怒った東大寺は、当時長洲荘雑掌の任にあった澄承を解任するよう、評議で決定したのでした。澄承は、決して従順な代官ではありませんでした。
 さらに、澄承は尼崎で東大寺以外の荘園領主としばしば問題を引き起こしていました。正和元年(1312)に鴨社は、澄承が鴨社領長洲・大物〔だいもつ〕・尼崎の三か所の御厨〔みくりや〕で、神物(神社に納めるべき年貢物)を強奪したと、朝廷に訴えています。また、元亨3年(1323)には、杭瀬荘雑掌からも訴えられています。当時杭瀬荘をめぐって、これを猪名荘〔いなのしょう〕内であると主張する東大寺と、橘御園〔たちばなのみその〕を拠点として杭瀬に勢力範囲を拡大しようとする比叡山の傘下にある浄土寺、杭瀬荘を相伝の家領と主張する藤原氏女〔ふじわらのうじのにょ〕の三者が複雑な争いを展開していました。この争いのなかで、澄承は同荘の新開荒野等を不当に占拠したとして訴えられたのです。おそらく、澄承は杭瀬荘の領有をめぐる三つどもえの争いのなかで、東大寺の尖兵〔せんぺい〕として現地を実力で切り取ろうとしたのでしょう。
 ここに、澄承と東大寺の関係が象徴的に表れています。つまり、澄承は他の荘園領主を圧倒する力―その力には暴力や人的ネットワーク、裁判を戦い抜く法廷技術などが含まれていたと考えられます―を持っており、それゆえに東大寺から荘官として頼りにされていたのでしょう。しかし、その力の行使によってが澄承が他の荘園領主から訴えられ、そしてまた東大寺自身がかつて澄承を糾弾〔きゅうだん〕したように、澄承は東大寺にとって、「悪党」に転化する可能性を常に持つ人物でした。
 荘園領主の支配領域が入り組んだ尼崎において、東大寺が荘園経営を存続させるには、東大寺に敵対し得る力を持った人物を荘官に登用せざるをえなかったのです。


写真2 澄承追放決定の「了尊等連署起請文〔きしょうもん〕」(京都大学総合博物館蔵、狩野亨吉蒐集古文書)
 兵庫関の年貢を納めなかった澄承から長洲荘の雑掌職を取り上げることを、集会で決定した了尊ら東大寺僧が、この決定を覆〔くつがえ〕さないことを神仏に誓った文書。澄承を追放するために、神仏の力を借りなければならなかったことは、澄承の並々ならぬ実力を示しています。


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江三入道教性

 一方、澄承を殺害したとされる教性はどのような人物だったのでしょう。実は教性も、これ以前に大きな事件に関わっていました。正和4年、東大寺領の兵庫関の調査に来た守護の使者に、百人近い「悪党」が襲いかかるという大事件が起きました。訴えられた悪党人たちは、下図に見られるように比叡山、淀川流域、西摂〔せいせつ〕(摂津国西部)の大阪湾岸に居住する者たちで、その分布から見て水上交通に関わる人々であったと考えれます。流通業を営む彼らにとって、関所は流通を阻〔はば〕む目ざわりな存在でした。また、当時朝廷は独自に武力を編成し、それを指揮する力をすでに失っており、兵庫関も幕府の力によって守られていました。このような状況のなか、彼ら「悪党」の敵意は、関所を守る守護対して爆発したと考えられます。この「悪党」のなかに尼崎の住人「江三」、すなわち教性が含まれていたのです。
 こうしてみると、教性は相当な悪人であったかのように思えますが、彼にはもうひとつの顔がありました。嘉暦元年に鴨社領長洲荘の22人の人々が、1通の起請文〔きしょうもん〕(神仏への誓約を通して規則を定めた文書)を作成しました。その起請文は尼崎の大覚寺に提出されたもので、大覚寺を自分たちの手で守っていくことが誓約されています(写真3)。
 ここで、大覚寺の守護を誓った22人は、自分たちのことを「地下〔じげ〕」と呼んでいます。「地下」は、「代官」「沙汰人」「番頭」というメンバーの肩書きから、鴨社領長洲荘を現地管理する荘官の集団であったと考えられます。
 しかし、「地下」にはもうひとつの重要な性格がありました。起請文の3条目に注目してみましょう。ここでは、大覚寺敷地内での問題は、「地下」が他から介入を受けることなく、自分たちで解決すると定められています。彼ら「地下」は長洲荘現地を自治的に担う集団だったのです。この時期、尼崎に荘園領主から現地の支配を任される、自治的な組織が現れたことは注目すべきことです。
 そして、この「地下」のなかに、教性の名を見いだすことができるのです。教性は荘園領主から「悪党」と非難される顔と、長洲荘の秩序を守る自治組織「地下」の一員という顔を持ち合わせていたのでした。


正和4年(1315)兵庫関で守護使を襲撃した人々の居住地
 比叡山、淀川流域、西摂の大阪湾岸に分布する居住地からすると、水上交通に関わる流通業を営む人々 と考えられます。


写真3 「代官・沙汰人・番頭等連署起請文」(大覚寺文書)
 「代官」「沙汰人」「番頭」という肩書きを持った「地下(じげ)」のメンバー22人が連署しているなかに、東大寺側からは「悪党」呼ばわりされている「沙弥(しゃみ)教性」の名前も見えます。
写真提供:尼崎市教育委員会

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尼崎と悪党

 鎌倉後期の産業・流通の発展は、地域社会を担う新たな人々を生み出しました。彼らは一面では、荘園支配の末端を担ってきた旧来の荘官たちと対立し、荘園支配を危機におとしいれました。このとき、彼らは荘園領主から「悪党」と非難されたのでした。しかし反面、彼らの実力を頼む荘園領主によって、彼らは新しい荘官として編成されました。同時に、彼らの一部は地域の自治を担う人々でもあったのです。
 最近、東大寺の宝珠院〔ほうしゅいん〕文書(京都大学総合博物館蔵)のなかに、尼崎と悪党の関係を考えるうえで興味深い文書(写真4)が発見されました。それは、元徳2年(1330)に教性を中心とする大和国・摂津国・尼崎・伊丹・大阪湾岸の「悪党」たちが、猪名荘野地村の延福寺に討ち入り、同寺に立て籠もったことを示す文書です。この文書から、このときの「悪党」のなかに、平野将監〔しょうげん〕入道という人物が含まれていたことがわかりました。平野将監入道は、『太平記』にも登場する楠木正成軍の有力武将です。さらに東大寺の法華堂文書(同前博物館蔵)からは、彼がときの有力貴族西園寺家に仕えていたこともわかりました。平野将監入道も「悪党」と、有力貴族の従者という二面性を持った人物でした。
 それでは、このような人々が尼崎に引き寄せられてきたのはなぜなのでしょうか。むずかしい問題ですが、第一の理由として考えられるのは、尼崎が流通の結節点であり、新たな実力者として台頭してきたこれらの人々を結びつける場であったことです。広い地域の「悪党」たちがいっせいに行動することができたのは、彼らが集まる拠点があったからではないでしょうか。第二に考えられるのは、荘園領主たちが、荘園の入り組んだ尼崎地域で自分たちの利権を守るために、このような人々を積極的に尼崎で雇い入れたのではないかということです。
 つまり、ここに現れる「悪党」たちは、このような尼崎の特色が生み出し、引き寄せた、新しい時代を切り開く人物たちだったと言えます。


写真4 元徳2年(1330)「藤原基信(カ)請文案」(京都大学総合博物館蔵、宝珠院〔ほうしゅいん〕文書)
 「悪党」たちの居住地は、尼崎周辺の摂津国小屋(昆陽〔こや〕)・野間・杭瀬・神崎から、摂津国三手蔵嶋〔みてくらしま〕(御幣島〔みてじま〕)・榎並〔えなみ〕・渡辺・平野・喜連〔きれ〕、大和国笠目など、東の方へと連なっています。

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荘園制の変質

 その後、南北朝時代に入ると、東大寺や鴨社など荘園領主のもとに遺〔のこ〕された文書から、現地の様子をうかがうことはむずかしくなります。
 たとえば、南北朝期に入ると、長洲荘に関する東大寺の文書は、杭瀬荘をめぐる争いを除くと、ほぼふたつの関心から作成されたものに限られていきます。第一は、長洲荘の代官をどういう条件で誰にゆだねるのかといった、代官任命に関わる文書です。第二は、長洲荘から上がる年貢を寺内で配分する方法に関する文書です。
 つまり東大寺は、もはや自力で荘園を経営することを放棄し、代官にすべてをまかせるようになっていたのです。澄承のような人物に荘園を預けた時点で、すでに東大寺が直接荘園を支配する体制は崩れ始めていたのですが、時代とともに、東大寺はますます現地から離れていかざるを得ませんでした。その結果、東大寺の関心は収益と配分に集中することになります。
 時を隔てた応仁元年(1467)、応仁文明の乱が始まり、大内勢が尼崎を占拠したとき、東大寺はしきりに書状を大内氏に遣わして寺領の回復を求めます。しかし、大内氏がそれを拒否すると、東大寺は大内政弘、大内の家臣で尼崎を占拠していた安富忠行、弘中重勝の3人を呪詛〔じゅそ〕することに決め、法華堂の執〔しつ〕金剛神(写真5)の足下に彼らの名前を書いた札を納め、「呪いを満ちて、調伏〔ちょうぶく〕の懇祈(呪いを込めて、ねんごろに祈る)」をなしました。もはや東大寺が自力でなし得ることは、祈以外に残されていなかったのです。
 そして、このような荘園領主の後退とともに、先に現われた「地下」が大きな成長を遂〔と〕げていくことになりました。


写真5 東大寺法華堂の執〔しつ〕金剛神像(国宝) 写真提供:奈良国立博物館
 執金剛神は、手にした金剛杵の威力をもって仏法・伽藍〔がらん〕を守護します。


〔参考文献〕
熊谷隆之「摂津国長洲荘悪党と公武寺社」(平成15〜17年度科学研究費補助金研究成果報告書『中世寺院における内部集団史料の調査・研究』平成18年)

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