中世編第3節/戦国争乱期の尼崎1/戦乱と城(仁木宏)
細川両家の主戦場
明応2年(1493)の「明応の政変」以降、本格的な戦国の世が始まります。このクーデターで政権を掌握した細川氏が、一族内部で争いを始めたからです。
細川政元は実子がいなかったため、澄之〔すみゆき〕・澄元〔すみもと〕・高国を養子にしたのですが、家臣たちがそれぞれの派閥にわかれ、勢力を競い合うようになります。ついに永正4年(1507)、澄之方が主君である政元を暗殺する事件が発生し、澄之方と澄元方が京都で武力衝突する事態となりました。澄之が敗死したのち、今度は、澄元方と高国方の抗争になります。当時、細川氏は摂津国だけでなく、丹波・和泉など周辺国の守護も兼ねていたため、それぞれの国内の武士たちも巻き込んで、戦乱は長引いていきます。
高国は、将軍足利義材〔よしき〕(のちの義植〔よしたね〕)をかつぎ、いったん政権を掌握しましたが、前将軍足利義澄を擁する澄元との間の争乱は簡単にはおさまりません。この高国方と澄元方の戦いにおいて、尼崎地方はしばしばその主戦場になりました。京都を押さえる高国方に対して、本国である阿波国(現徳島県)から攻め上る澄元方が兵庫・尼崎などに上陸したためです。
永正16年の冬、高国方の河原林正頼が越水〔こしみず〕城(現西宮市)に籠城〔ろうじょう〕しました。これに対して澄元方は、尼崎などに着岸し、神呪〔かんのう〕・西宮(現西宮市)などに配陣して攻撃を加えました。越水城を救援するため京都から出撃した高国方は、池田城(現池田市)を本陣に、昆陽〔こや〕・富松〔とまつ〕・武庫などに陣を張りました。翌17年正月、高国方が攻撃をしかけますが勝敗は決しませんでした。この時、大島村を本拠とする土豪である雀部〔ささべ〕与一郎と弟次郎太郎が越水城から出撃し、澄元方の田井蔵人を討ち取りましたが、その時の傷がもとで数日後に死去してしまいました。河原林正頼らがその死を惜しんだと伝えられています。
2月には布陣替えが行なわれ、高国方は長洲〔ながす〕、尼崎などに撤退しました。これに対して澄元方は、昆陽・富松・生島などに進出します。やがて澄元方が尼崎・長洲を攻撃し、大物〔だいもつ〕北の横堤で高国方の香西氏と澄元方の三好氏が交戦しました。この戦いでは高国方が敗退しましたが、その後、京都での合戦で澄元方が敗れ、澄元自身は阿波国へ帰国します。
澄元のあとを細川晴元が継ぎます。一方、高国方は京都の政権を固め、摂津の支配も回復していきました。大永6年(1526)には、高国は尼崎城を築城しています。
ところが、丹波の波多野氏などが高国方から離反すると、畿内の戦況は一挙に不安定になっていきました。晴元方の三好元長が尼崎に上陸し、高国方の伊丹城を攻撃します。翌大永7年には、京都郊外の桂川で大会戦があり、敗北した高国方は京都から没落しました。
享禄3年(1530)になると、勢力を盛り返した高国方が神呪に進出していきます。晴元方は、富松城に薬師寺国盛らが籠城しました。9月21日、高国方が富松城を攻めましたが、晴元方は大物を本陣に、久々知〔くくち〕・坂部〔さかべ〕などに陣をしいて対抗しました。しかし、10月19日、高国方は富松城を攻略し、新たに本陣とします。そして11月6日には、高国方は大物城まで攻め落とし、晴元方は中島(現大阪市)へ敗退します。
翌享禄4年6月4日、天王寺(現大阪市)付近で高国方と晴元方の大規模な戦闘がありました。この戦闘で敗れた高国方は総崩れとなり、高国自身は大物(尼崎とも言う)の町に逃げ込みました。しかし、紺屋の甕〔かめ〕に隠れていたという高国はたちまち探し出され、同月8日、自害させられます。この一連の事件を当時の人々は「大物くずれ」と称しました。
こうして政権を握った晴元ですが、すぐに本願寺・一向一揆と対立し、門徒らの蜂起に直面します(天文一向一揆)。天文2年(1533)には、一揆が大物で武家方に大勝し、翌3年には、椋橋〔くらはし〕・潮江で一揆方が伊丹氏・池田氏ら摂津の国人衆〔こくじんしゅう〕(土豪・国衆〔くにしゅう〕とも言う)を破りました。この一揆を鎮めて政権を安定させた細川晴元に対して、摂津国人衆が抵抗することがありました。天文10年には、伊丹氏・河原林氏らが西富松に在陣しており、15年には晴元方が尼崎に在陣し、池田城を攻めています。
なぜ尼崎地域で、これほど戦闘がくり返されたのでしょうか。それは、軍勢が兵庫や尼崎に上陸すると、西国街道を通って一両日のうちに京都にまで到達してしまうからです。そのため京都を支配する勢力は、最前線である尼崎付近で敵方を撃破しようとしました。ここでの戦争が、政権の帰趨〔きすう〕をしばしば左右したと言えるでしょう。
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主要都市と街道
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永正17年(1520)細川高国方・細川澄元方の対陣図
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三好長慶の台頭
この頃、細川晴元の家臣である三好長慶〔ながよし〕が台頭してきました。三好氏は阿波国の有力武士で、代々細川氏に仕えてきましたが、長慶は摂津国衆を味方につけ、政権をうかがいます。やがて天文18年、尼崎から出陣した長慶方は晴元方を江口(現大阪市)合戦で撃破し、将軍足利義晴や晴元を京都から追放して、ついに政権の座につきました。翌19年には、摂津国衆で唯一、長慶に反攻した伊丹氏を攻めるため富松城に在陣し、結局尼崎の本興寺で和議を結びます。
三好氏は、阿波からの上陸地として、また兵庫・淡路・堺などに兵力を移動させる中継ポイントとして、尼崎をしばしば利用しました。永禄元年(1558)には、三好長慶、三好実休、安宅〔あたぎ〕冬康、十河一存〔そごうかずまさ〕、三好義興ら、三好氏の一族が尼崎に参会しています。三好政権は、織田信長に先行して新しい政策を次々と実施しており、堺と並んで尼崎を大阪湾支配の拠点にしていたことが注目されます。
こうした戦乱のなかで、尼崎市内の各地に軍勢が駐屯しましたが、ほとんどの場合、村に一時的に在陣するだけでした。当時の村は武家や隣村からの攻撃に備えるため、集落のまわりに土塁や柵をめぐらせ、農業用水の溜め池を水堀代わりにすることもあったので、戦闘にあたっては陣地として利用しやすかったのでしょう。これに対して、恒久的な城郭〔じょうかく〕施設をともなっていたと考えられるのは、尼崎城(本節2参照)と富松城だけです。
富松城と富松集落
富松村(東富松村)は、北から続く伊丹丘陵の先端部付近に位置します。現在、富松城の遺構である土塁・堀が残っているのは、この富松の旧集落の北西部分にあたります。高さ4m、基底部幅約11mの土塁が、鍵の手状に数十メートルにわたって続いています。ただし、16世紀のものと思われるこの土塁は、富松城の最終段階のものです。この土塁が残る地区のすぐ南側を発掘調査したところ、大規模な堀が並行に走っていることがわかりました。これらは、地上に残る土塁とうまくつながらないことから、土塁が築かれる以前の施設にともなうものと推定されています。すなわち、寺院か館があった部分を改造して、16世紀に土塁・堀を構えたのだと考えられます。
この土塁はとても巨大で、土豪・地侍クラスの居館のものとしては大きすぎるでしょう。つまり富松城は、守護クラスの武将が一国レベルの戦争の際に利用する城郭(公的城郭)だったのです。それ故、その城の築造は、守護大名によって国内から集められた人夫たちによってなされたと考えられます。
この富松城とは別に、富松の集落の中心部に位置する富松神社付近に、居館があったと考えられます。これは国衆である富松氏の居館でしょう。さらに、富松集落は四周を用水路や水堀で囲まれており、環濠〔かんごう〕集落となっていました。主要な部分には土塁も築かれていたことでしょう。先に述べたように、16世紀の大規模な戦闘において、しばしば軍勢が富松(城)に入城しています。その前提として、集落全体が要害化していたことがあると思われます。
さらに戦国時代には、村の有力者が浄土真宗(一向宗)に帰依〔きえ〕して、私宅を道場(寺院)にしていました。これが、現在の真光寺や円受寺につながっていきます。こうした真宗道場も集落の核になっていました。
守護の城、国衆富松氏の館、村人が結集する真宗道場などを中心に集落が広がり、それら全体を土塁と堀で囲んだのが戦国時代の富松です。この富松の出身者は戦国時代、宗教者や商人となって全国で活躍していることもあきらかになっています。その多様性は富松の個性ですが、尼崎地域の村々のいずれも大なり小なり、これに似た豊かさを持っていたことと思われます。
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江戸時代の東富松村
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東富松地域の微地形
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