中世編第1節/中世社会の形成2/猪名荘の発展と長洲御厨(田中文英)
猪名荘の開発と集落の形成
天平勝宝8年(756)、孝謙天皇が東大寺に勅施入〔ちょくせにゅう〕したことによって成立した猪名荘〔いなのしょう〕は、現在の神崎川の西岸、尼崎市潮江付近を中心とする地域に位置していました。施入当時の田地は、北部の45町余り−うち水田は27町余り程度−であったと見られます。その後、平安時代にかけて次第に南部の海岸へと開発がすすめられていきます。
この地域は、大阪湾に臨む低湿地帯であったため、その開発は、堤防を築いて内側を排水して干拓〔かんたく〕したり、神崎川など大小の河川の水を防ぐ工事をするなど非常な困難をともなうものでした。それでも10世紀中頃には、猪名荘の田地は85町余りに増大しています(注1)。
ところが、東大寺にとって、猪名荘の荘田をそれ以上拡張することは容易ではありませんでした。10世紀に入り、延喜2年(902)に荘園整理令が出されると、摂津国司は当荘の拡大を厳しく抑制して、荘田の面積を85町1反余りに限定して認定し、それを固定する策を打ち出したからです。摂津国司は猪名荘の基準面積を85町1反余りに固定し、その分についてだけ官物の徴収を免除して東大寺の領有を認めるかわりに、それ以上の田数の拡張を制限する措置を講じ続けたのでした。このため、東大寺は国司が交代するごとに「免除」の国符・庁宣―免判〔めんぱん〕と言う―を申請して、85町1反余りの荘田の領有権を確認してもらう必要がありました(注2)。 しかし、このことは、猪名荘の現地で開発が停滞していたことを意味しません。東大寺は、荘田のほかにも、猪名荘の付属地として野地100町と浜250町の領有が認められていました。この浜が長洲浜で、猪名荘の海岸部を占め、三方が海に面して網人〔あみうど〕(漁民)の活動などに適していたので徐々に住人が増加し集落が発達していきました。その状況を見て、東大寺は経済的価値を再認識し、永延元年(987)頃には、この浜に渚司〔すし〕・刀禰〔とね〕などの管理人を置いて住人から在家地子〔ざいけじし〕を徴収するようになりました。耕地の少ない浜であったため、東大寺は屋敷の地子(在家地子)しか取れなかったと考えられます。したがって、長洲浜の住人たちは、東大寺に在家地子を納めるだけで、比較的自由に生業に従事することができたのでした。
海を生活の場とする住人たちの生業は、漁業・海運・交易から、ときに略奪に至るまで多様でした。10世紀末には、この浜の住人のなかから、武装集団を組織して海上交通に関わる一方で、海賊的行為をする者も出現しています。そうした状況のもとで、港湾を管理する京都の検非違使〔けびいし〕庁も統制強化に乗り出し、住人たちに庁役をかけ始めました。この検非違使庁役の主なものは「行啓雑事〔ぎょうけいぞうじ〕」で、交通・運輸などに関係する雑役〔ぞうやく〕でした。
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長洲御厨の成立と鴨社
そこで長洲浜の住人たちは、検非違使庁役を免れる手段として、みずから権門勢家の散所〔さんじょ〕(注3)となり、その身分的特権を得ることによって庁役を忌避しようとします。11世紀初頭に、まず小一条院敦明親王の散所となり、次いで式部卿宮敦貞親王、関白藤原教通、小野皇太后宮藤原歓子(注4)へと伝領されていきます。
その長洲散所の中心をなしたのは、38人の根本〔こんぽん〕住人でした。彼らは公私にわたって都に縁故をもち、散所雑色〔ぞうしき〕として所定の奉仕を負担するかわりに経済活動を保障され、漁業・運輸・交易などの諸活動を展開するに至ったのでした。しかしその間、住人たちは従前通り、東大寺に在家地子を納めていたので、東大寺はこうした散所の設定や伝領の事実などに、まったく気付かずにいたようです。このことは、長洲浜に対する東大寺の住人把握と現地支配の体制が、まだ極めて弱体であったことを意味しています。
ところが、やがて応徳元年(1084)8月、京都の鴨社(注5)は、神に供する新鮮な魚介類を入手する必要から、小野皇太后宮職〔しき〕と交渉して、社領の山城国愛宕〔おたぎ〕郡栗栖〔くるす〕郷の田地7町8反余りとの交換により、この浜に長洲御厨〔ながすみくりや〕を設立するに至りました。御厨というのは、天皇家・摂関家や大社などに供御〔くご〕・供物・食料として魚介類その他の特産物などを献納する領地のことです。それらを負担する住人を、供御人・供祭人〔ぐさいにん〕・神人〔じにん〕あるいは寄人〔よりうど〕などと言いました。彼らは、貢納物などを負担するかわりに種々の特権を与えられます。長洲御厨の住人の場合も魚介類を貢進する代償として、後述するような特権を獲得しています。
さて、長洲御厨が成立した当初は、鴨社の私的な御厨で、供祭人もわずかに根本住人38人、在家20宇でした。しかし、寛治3年(1089)に、白河上皇から供祭人に対して検非違使庁や国衙〔こくが〕などの課役を免除する特権が認められると、近隣から漁民や浪人らが多数来住するようになり、新開田も開け、早くも元永元年(1118)には、神人300人、間人〔もうと〕200人、浜在家は数百軒に激増します。そして12世紀中頃には、長洲浜には数千軒の人家があると記す史料さえ見られるのです。これら御厨の住人は、供祭人・神人としての特権を利用しながら、瀬戸内海を往来して漁業はもとより廻船業・交易などの経済活動を広範に展開していきました。また、浜地の開発もすすみ、長承2年(1133)に摂津国衙が調査したところでは、浜は発達して長洲・大物〔だいもつ〕・杭瀬の3か所に分化し、長洲浜と杭瀬浜には「新開田」があると記しています。
東大寺・鴨社の相論と永観
そうした状況のなかで、長洲浜の支配をめぐって東大寺と鴨社の相論が展開されることになります。
鴨社の長洲御厨支配は、本来、供祭人や神人としての住人の身柄に限定されたものでした。しかし、まもなく鴨社は、そうした人間支配だけでは満足せず、住人から地子を取るばかりか、四至牓示〔しいしぼうじ〕を打って土地を囲い込むなど、御厨支配=人間支配から領域的な土地支配をめざすようになりました。そこで、東大寺はこれを寺領への侵略と見なし、寛治6年に長洲浜の領有権を主張して朝廷に訴え出たので、相論が勃発するに至りました。この相論は長期にわたりますが、なかでも東大寺を代表して積極的に相論に取り組んだのが別当の永観〔えいかん〕でした。
康和2年(1100)に 東大寺別当に就任した永観は、長洲浜の支配権を取り戻すため、もとの長洲散所の所有者であった皇太后宮(藤原歓子)にはたらきかけて前記の応徳元年の鴨社との土地の相博〔そうはく〕(交換)を破棄させ、鴨社領長洲御厨の存在そのものを消滅させようとしたのでした。永観の意向を受けた皇太后宮は、相博の解消を要求しますが、鴨社は応じず、朝廷への訴訟に持ち込まれます。その結果、嘉承元年(1106)に至って朝廷は、長洲浜の土地は東大寺領、在家(住人)は鴨社の支配とすべしとする裁定を下しました。しかし、この相論の本質は、供祭人・神人などの在家(人間)支配を媒介としながら領域支配を強化しようとする鴨社と、土地の領有権を根拠に激増する在家を掌握して荘園支配の拡充をはかろうとする東大寺との、荘園支配の形成をめぐるふたつのコースの対立にあったので、もとよりこの裁定によって相論は終息せず、その後も長く鎌倉末期頃まで断続的に展開されることになります。
寛治6年(1092)7月10日「東大寺牒」
鴨社の長洲御厨支配が強化されるのに対して、東大寺が激しく抗議した文書。これによって、長期にわたる東大寺と鴨社の相論が展開されることになります。その文書の全文と読み下し文を掲げました。
差出人の法師賢快は、東大寺の庶務や僧を統率する部署の「三綱〔さんごう〕」に属し、その部署の役職「都維那〔ついな〕」の「権官〔ごんかん〕」です。文書の標題についている「牒」は、上下関係にない役所・寺院間に用いられた文書形式で、東大寺が対等の立場で鴨社に抗議していることを示しています。
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河尻一洲と重源
東大寺と鴨社は訴訟だけでなく、現地の開発を推進することによって荘園支配を拡充しようとしました。猪名荘の沿岸地域は、平安末期以降、沿岸潮流や神崎川など大小河川の作用によって急速に土地の自然造成がすすみ、長洲のほか杭瀬・大物・尼崎・寺江〔てらえ〕などの洲・浜や開田可能な野地などがいくつも形成されていきました。このため、承安5年(1175)に鴨社禰宜〔ねぎ〕の鴨佑季が供祭人らを組織して長洲・大物間の「江」の開発に着手するのをはじめ、東大寺僧による開発や、現地の有力住人の猪名為末が大物浜・尼崎浜を開墾して東大寺に寄進する例などが相次いで見られるようになります。
開発がすすんだのは、田畠だけではありませんでした。当時、長洲・杭瀬・大物・尼崎などを含む、神崎川の河口一帯を総称して河尻〔かわじり〕と言いました。この河尻は、別項で見たように(注6)、古くから瀬戸内海航路の発着地として重要な位置を占め、とくに荘園制や流通経済の発展とともに多数の海船・川船が輻輳〔ふくそう〕するようになり、港湾機能を持った港津〔こうしん〕がいくつも発達してきました。そして、住人が急激に集住し、権門勢家や荘園領主が競って専用の船津や倉庫・荘家・別荘の施設を設けるなど、地域開発がすすみ、次第に港湾都市的な様相を呈し始めたのでした(注7)。
そうした情勢のなかで、当然、東大寺も従来の宮宅〔みやけ〕(荘家)を中心に渚司・刀禰などを設置して行なってきた港湾掌握体制を、さらに拡充していったと考えられます。その点で、とくに注目されるのが、俊乗房重源〔ちょうげん〕による河尻一洲〔いちのす〕の港湾修築事業です(注8)。
養和元年(1181)8月に造東大寺大勧進職〔だいかんじんしき〕に任命された重源は、平氏の南都攻撃で焼亡した東大寺を再建するため、諸国をまわって募財の勧進に努めるとともに、各地で池溝の改修、荒野の開墾、架橋、港湾の修築、道路の建設などの地域開発事業を展開しました。重源は、この河尻にも着目し、文治5年(1189)には、周防国の杣山〔そまやま〕から伐り出した大仏殿造営用の柱木15本を海路を経て当地に送りつけています。これは重源が再建用の材木・資材などの輸送ルートとして、河尻から神崎川を遡上〔そじょう〕して淀川に入り、奈良へ至るコースを採用しようとしていたことを示すものでしょう。しかし河尻付近は、風波などを防ぐのに困難な地形であったため、着岸できずに沈没する船が多く発生していました。
そこで重源は、建久7年(1196)4月に、魚住泊〔うおずみのとまり〕(現明石市)・大輪田泊〔おおわだのとまり〕(現神戸市)とともに河尻一洲の港湾の修築計画を立て、朝廷にその裁可と支援を申請しました。その申請の内容は、これらの港を通行する船舶から石別1升(1石あたり1升)の米を徴収して港湾の修築費用に充てることなど、5か条からなっていました。同年6月、朝廷はその申請を認めています。
この重源の壮大な3港湾の修築計画が、どの程度実現したか残念ながらあきらかではありません。しかし、河尻付近の港津がその後ますます発展し、商工業活動の中心地として繁栄していったことは確かです(注9)。
〔注〕
(1)古代編第2節3「猪名荘の成立と地域開発」参照。
(2)摂津国司による免判の事例は、現在少なくとも寛弘6年(1009)から延久元年(1069)にいたる60年間に18通も出されたことが確認でき、国司の強い統制下にあったことがわかる。
(3)散所〔さんじょ〕…権門勢家の政所〔まんどころ〕など中央の家産管理機関を本所というのに対して、その分枝として各地に設置した機関のひとつ。一般に交通の要衝〔ようしょう〕などに置かれることが多い。
(4)藤原歓子…関白藤原教通の娘。後冷泉天皇の皇后。承保元年(1074)に出家し、その居所の小野宮を改めて常寿院とし、仏教三昧の生活を送ったことで有名。
(5)鴨社…京都市左京区に鎮座する神社。正式には賀茂御祖〔みおや〕社と言い、賀茂別雷〔わけいかづち〕社(上賀茂社)に対して下鴨社とも言う。
(6)本節1「神崎川流域の発達と港津」
(7)河尻地域への諸勢力の進出と競合・対立については、本節4「平安末期の動乱と尼崎地域」も参照のこと。
(8)河尻一洲〔かわじりいちのす〕は、神崎川の川口の砂州〔さす〕に位置し、東大寺領長洲浜の境域内にあった港と見られる。
(9)この点については本節5「大物遺跡と流通」、本編第2節2「港津の発展と商工業」を参照のこと。