中世編第2節/中世社会の展開/この節を理解するために(田中文英)




「摂州大物〔だいもつ〕浦平家怨霊〔おんりょう〕顕〔あらわ〕る図」(地域研究史料館蔵)
 嵐に翻弄〔ほんろう〕される義経主従の前に平知盛らの亡霊が現れる場面。文治元年(1185)に義経主従が大物より逃亡した史実は多くの人々の関心を呼び、古くは「平家物語」から江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎に至るまで、多様な作品に取りあげられています。

源氏政権と院政

 平氏の滅亡後、兄源頼朝との対立が激しくなった義経は、後白河法皇にせまって頼朝追討の宣旨〔せんじ〕を出させ、反頼朝勢力の結集をはかりますが、これに失敗します。文治元年(1185)11月はじめには都落ちして、大物〔だいもつ〕浦から船出し姿を消しました。
 一方、頼朝は北条時政を代官として上洛させます。11月末に入京した時政は、後白河法皇の責任を追及するとともに、義経の追捕〔ついぶ〕と反乱の防止を理由にかかげて、諸国に守護・地頭を設置することを要求して勅許を得ました。頼朝が、この勅許によって獲得したのは、国ごとに守護(惣追捕使とも呼ばれた)と、国地頭を設置し、平家没官〔もっかん〕領や謀叛〔むほん〕人の所領があるところには荘郷地頭を置いて、御家人を任命し、全ての土地から反別5升の兵糧米を徴収する権限であったと見られています。
 そうした状況のもとで、尼崎近辺にも頼朝の支配が浸透していきます。すでに頼朝は、同年6月の時点で、義経を孤立させる策の一環として多田源氏の棟梁〔とうりょう〕・多田行綱を勘当〔かんどう〕し、伊賀国惣追捕使の大内惟義に多田荘の没収を指示していました(本編第1節4)。大内惟義が現地に乗り込み、行綱一族を追放して、その配下の武士を鎌倉御家人に編成し始めるのも、この頃からです。また平家領であった武庫御厨〔みくりや〕(現尼崎市)や小松荘(現西宮市)などは、没官されて頼朝の手に帰しました。摂津国の河尻〔かわじり〕付近では、「河辺船人」を御家人に編成して港湾支配を推進しようとしています。
 しかし、こうした支配は、武士の狼藉〔ろうぜき〕や地頭の荘園侵略などの行為を各地で頻発〔ひんぱつ〕させたので、貴族・寺社などの荘園領主をはじめ在地諸階層の猛烈な反発を引き起こしました。このため頼朝も譲歩せざるを得なくなり、翌文治2年10月頃には、地頭は基本的に平家没官領や謀叛人・凶悪人の旧領だけに置かれるようになりました。また、文治3年9月には、幕府は「河辺船人」を強引に御家人に編成することも禁じています。
 その後、文治5年に、頼朝が義経をかくまった奥州の藤原氏を滅ぼすと、源平争乱以来の政治的激動がひとまず収まり、公武関係も比較的安定した時期を迎えます。その時期に登場してくるのが、後鳥羽上皇による院政でした。その後鳥羽院政の展開と摂津国との関係に注目しながら、承久の乱へと至る過程を論じたのが本節1「後鳥羽院政と尼崎地域」です。

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商工業と港湾都市

 ところで、尼崎地域の人々は、源平争乱や承久の乱などの戦乱によってさまざまな被害を受けながらも、多様な産業や流通経済を発達させ、独自の特色をもった地域社会を発展させていきました。以下、本節では、その様相をいくつかの側面から、できるだけ具体的に見てみることにしました。
 まず本節2「港津の発展と商工業」では、貞応2年(1223)3月付の蔵人所牒案〔くろうどどころちょうあん〕という史料に見える檜物〔ひもの〕商人の活動を中心に据えながら、当時の商工業活動のあり方を分析しました。そこには、港湾都市としての尼崎にもたらされる材木を原料として、檜〔ひのき〕加工業や檜物商人が出現し、関銭免除などの特権を得て、河尻内の市や都市的な場などを巡回して販売活動を行なう実態が示されています。これは一例で、このほかにも、海運業者のなかから出現する材木商人や、漁労活動から生魚交易への転換をはかる漁業関係者など、活気にみちた商工業の発展が見られます。
 尼崎の町は、そうした商工業者が集住する港湾都市として発展します。やがてその中心地となって重要な役割を果たすのが大覚寺でした。本節3「大覚寺の建立と門前町」では、建治元年(1275)に琳海上人によって長洲〔ながす〕に創建されたと伝えられる大覚寺が、14世紀に入ると長洲荘の「地下〔じげ〕」(在地)の住人の自治的組織などに支えられて、その門前町を発達させていく点を取りあげました。大覚寺の寺域には市場があり、商工業者はもとより芸能者たちも頻繁〔ひんぱん〕に訪れ、この地域の文化交流の中心地であったと考えられます。現在、大覚寺には、「覚一〔かくいち〕本平語相伝次第」と呼ばれる文書が所蔵されており、同寺が、平家物語を語る琵琶法師たちの有力な拠点寺院であったことを示すものとして注目されています(本節3コラム参照)。 


番匠〔ばんしょう〕
『職人絵尽〔えづくし〕』(久保田米齋編、風俗絵巻図画刊行会、大正6、7年)より
 材木の集散地であった中世の尼崎には、棟梁〔とうりょう〕大工である番匠を中心に釘大工・瓦大工・鍛冶大工などを含む大工集団が居住していました。彼らは建武5年(1338)に石清水〔いわしみず〕八幡宮再建にあたって西経蔵の大工を務めるなど、権門寺社所属の番匠と並んでその伝統と技能を認められていました。

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新興勢力・悪党

 大覚寺の門前町が本格的に繁栄し始める14世紀は、一方では「悪党」に代表される在地勢力の蜂起が相次ぎ、既存の支配秩序が大きく動揺するときでもありました。悪党の出自や身分はさまざまですが、その張本は、守護や荘園領主の支配に反抗して狼藉・濫行〔らんぎょう〕などをはたらく御家人・地頭・荘官くずれや悪僧などが多く、その党類にはしばしば商工民や荘民なども含まれていました。尼崎地域は、流通や商工業などが発展して多数の新興勢力が生み出されていたうえ、荘園領主の支配領域などが錯綜〔さくそう〕して相論・抗争などが頻発していたため、悪党が発生しやすい条件にありました。本節4「悪党の蜂起」では、嘉暦4年(1329)4月に起こった澄承僧都〔そうず〕殺害事件の登場人物を取りあげます。澄承は東大寺領長洲荘の雑掌〔ざっしょう〕(荘官)であった人物です。多数の登場人物を通して、尼崎地域における悪党発生の基盤・条件と、悪党のもつ多様で複雑な性格を具体的に浮彫りにするとともに、荘園制支配の動揺の内容を分析しました。
 悪党の蜂起に代表される政治支配秩序の動揺と、反幕府勢力の台頭などの情勢を背景に、元弘元年(1331)に後醍醐天皇が起こした元弘の乱を契機として、やがて時代は南北期の内乱期へと突入することになります。この長期にわたる内乱は、尼崎地域をしばしば戦争の渦中に巻き込み、大きな被害を与えました。本節5「尼崎と南北朝の内乱」では、その戦争の様相をあきらかにするとともに、そうした戦乱にもかかわらず、尼崎が港湾都市として成長を遂〔と〕げていく点に注目しました。

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