中世編第2節/中世社会の展開5/尼崎と南北朝の内乱(市澤哲)




建武政権の基盤としての尼崎

 鎌倉幕府が滅亡した元弘の乱、建武新政が崩壊した後の南北朝の内乱のなかで、西国と京都を結ぶ重要な港湾を擁する尼崎は、しばしば戦争に巻き込まれました。
 元弘の乱では、元弘3年(1333)播磨国の赤松円心が鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題〔ろくはらたんだい〕と攻防を繰り広げた際に、尼崎が戦場となっています。播磨国の太山寺(現神戸市西区)の僧兵たちは同年の閏〔うるう〕2月23日に尼崎で六波羅軍と戦い、時教と名乗る僧兵が負傷したこと、翌日の坂部村での戦いで刑部〔ぎょうぶ〕次郎が討ち死にしたことを赤松氏に報告しています(写真1)。また『太平記』によると、その直後の3月には六波羅に加勢する阿波国小笠原氏の軍勢が尼崎に上陸し、「久々智〔くくち〕・酒部」(久々知・坂部)に陣取る赤松勢を攻撃したとあります。伊予国の河野氏もこれ以前に尼崎に上陸し、六波羅に加勢しており、尼崎が京都にのぼる四国勢の上陸地点になっていたことがうかがわれます。
 鎌倉幕府が滅亡したのち、後醍醐天皇を中心とする建武新政が成立します。わずか3年で崩壊した建武新政期の間、尼崎の状況はよくわかりませんが、残された史料からは興味深い事実が垣間見〔かいまみ〕えます。建武新政期の当初、昆陽荘〔こやのしょう〕は楠木正成の所領となっていました。また、大島荘も正成に「臨時の朝恩(天皇の御恩)」として与えられていた時期がありました。さらに、『太平記』によれば、正成は河内国・摂津国を恩賞として与えられたとあります(第12巻)。以上より、後醍醐天皇は尼崎を含む西摂〔せいせつ〕(摂津国西部)地域に楠木氏の所領を配置し、政権の基礎として位置付けようとしたことがうかがわれるのです。


写真1 「播磨国太山寺衆徒等注進状」
神戸市太山寺蔵 写真提供:甲陽史学会
 太山寺の衆徒が、護良〔もりよし〕親王の命令で、赤松円心の軍に加わり、各地を転戦したことを報告した文書。報告を受けた赤松円心は、文書の袖〔そで〕(右側)に「一見了」と花押(サイン)を記し、太山寺の報告を認めました。後掲の「森本基長軍忠状」と同様に、この文書は太山寺の戦功を認めた文書として、合戦後に恩賞を求める根拠に使われたと思われます。

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南北朝内乱初期の尼崎

 その後、南北朝内乱が起こると、建武3年(1336)の足利尊氏・直義〔ただよし〕兄弟が兵庫から九州に敗走した合戦、反撃に出た足利軍の湊川上陸にともなう合戦をはじめとして、尼崎はふたたび戦略上の要地として戦争に巻き込まれます。この間、興味深いのは、湊川に上陸し入京した足利軍が比叡山に籠もった後醍醐天皇と対峙している間、後醍醐天皇軍の指揮官として八幡に派遣された四条隆資のもとに、「真木(牧)・葛葉〔くずは〕(楠葉)・禁野〔きんや〕・片野(交野)・宇殿(鵜殿)・賀島(加島)・神崎・天王寺・賀茂(加茂)・三日〔みか〕ノ原(瓶原)」の人々が集まり、川尻の道を遮断〔しゃだん〕したことです(『太平記』第17巻)。彼らの居住地はおおむね大阪湾岸、淀川の河口から流域に集中しており、かつて兵庫関で鎌倉幕府の守護使を襲撃した「悪党」連合を思い起こさせます。彼らが後醍醐天皇方に加担したのは、後醍醐天皇が打ち出した関所撤廃令を支持したからではないか、とする説もあります。
 その後、彼らが足利勢力に押さえられると、尼崎は西摂の北部に残った後醍醐方の勢力に対抗する足利軍の前線基地的な役割を与えられます。暦応元年(1338)から、摂津国山田荘(現神戸市北区)にあった丹生山〔にうやま〕城、有馬郡の香下〔こうげ〕城による新田義貞の一族の活動が活発化し、南下して湊川や明石を攻撃するようになります。これに対抗して尊氏は仁木義長を尼崎に派遣し、尼崎を基地に兵庫方面、小屋(昆陽〔こや〕)宿から有馬郡方面に勢力を展開させます。また、暦応3年には、紀伊国の海賊泰地〔たいち〕・塩崎氏らに命じて、周防国竈門関〔かまどのせき〕(現山口県熊毛郡上関町)から尼崎に至るまで、西国の運送船・廻船を警護するように命じており、尼崎が室町幕府を支える西国物資の搬入口として位置付けられていたこともうかがえます。
 さらに、同年足利方の飯岡次郎入道観恵が、長洲荘雑掌〔ながすのしょうざっしょう〕祥珠を後醍醐方に味方したとして摘発するなど、暦応年間を通じて、尼崎は室町幕府の前線基地として徐々に整備されていったようです。しかし、足利兄弟の対立によって、尼崎はまたもや戦場になります。



建武3年、後醍醐天皇方の大将四条隆資に編成された勢力の分布
 分布地は、それぞれ次の現市町域に比定されています。
真木(牧)・葛葉〔くずは〕(楠葉)・禁野〔きんや〕=現枚方市
片野(交野)=現交野市
宇殿(鵜殿)=現高槻市
賀島(加島)・天王寺=現大阪市
神崎=現尼崎市
賀茂(加茂)・三日〔みか〕ノ原(瓶原)=現京都府相楽郡加茂町

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観応の擾乱と尼崎

 室町幕府は当初、足利尊氏・直義兄弟の二頭政治によって支えられていました。しかし、貞和5年(1349)、足利直義は足利家の執事高師直〔こうのもろなお〕と反目して失脚し、尊氏の子義詮〔よしあきら〕にその政治的地位を譲りました。その後、観応元年(1350)尊氏の実子で直義が養子にしていた直冬〔ただふゆ〕が西国で反乱を起こすと、尊氏はみずから西国に出陣します。これを好機とみた直義は、京都を脱出して河内に下って南朝と合体し、尊氏追討を呼びかけました。急速に膨張〔ぼうちょう〕した直義軍の先鋒〔せんぽう〕畠山国清は、伊丹宗義らを率いて河内から神崎に進出し、観応2年元旦の合戦で、尊氏に味方していた摂津守護赤松範資の守護代河江右衛門太郎入道円道を追い落としました。
 その後畠山・石塔〔いしどう〕らを中心とする直義軍は、西国からとって返した尊氏軍を摂津国打出浜〔うちでのはま〕の合戦で破り、勝利します。尊氏方の主力であった高師直・師泰兄弟をはじめ、高一族は、都に引き上げる途上、武庫川付近で殺害されました。
 こうしていったんは勝利した直義でしたが、その後も尊氏・義詮との対立は続き、同年8月には京都を脱出し、鎌倉に逃れます。尊氏は南朝と和睦して京都の安全を確保し、11月に直義追討に出陣しますが、翌観応3年(正平7、1352)閏2月、尊氏の留守に南朝軍は和睦を破棄し、京都を占領してしまいます。
 結局、南朝軍の京都制圧は長く続かず、3月15日に義詮は京都を奪還し、南朝軍は八幡に退きました。ところが楠木氏を中心とする南朝軍は、京都から撤退した直後の3月17日に神崎に進出します。
 足利側についた森本基長の軍忠状(写真3)によると、基長は4月に渡辺に馳〔は〕せ向かい、以来6月までたびたび合戦し、8月には志宜杜〔しぎのもり〕(現大阪市中央区)、9月には渡辺・神崎で南朝軍と戦っています。さらに11月には南朝軍の軍事行動は活発化し、直義派の武将石塔頼房を中心とした軍勢が神崎一帯を焼き払い、戦線は西の打出浜、神呪寺〔かんのうじ〕、北の伊丹河原にまで広がり、翌年には伊丹城、吹田で戦闘が繰り広げられました。
 京都にいた貴族広橋兼綱は、この時の南朝軍の尼崎攻撃について「これまでの南朝の作戦は貴族たちが立案していたが、今回の合戦は吉良(満貞)・石塔の両人が立案したものらしい」と記しています。まだ力を残していた直義派の武将が合流したことで、この時の南朝軍は手強〔てごわ〕かったようです。
 その後、文和2年(1353)6月、南朝と結んだ足利直冬が山名氏らに支えられて一時京都を占拠しますが、直冬軍の士気は高まらず、7月26日に義詮が京都を回復すると、楠木勢も河内に引き上げ、1年以上続いた尼崎近辺の戦争も一段落します。


写真2 師直塚
 観応の擾乱〔じょうらん〕で討たれた高師直〔こうのもろなお〕にちなむ塚。伊丹市池尻には江戸時代にすでに塚がありましたが、この碑は大正4年(1915)旧西国街道沿いに建立されたものです。
(写真は『伊丹の文化財』−伊丹市教育委員会、平成7年−より)


写真3 「森本基長軍忠状案」 『楓軒文書纂』中−内閣文庫、昭和59年−より
 文和元年(=正平7年・1352)尼崎周辺で楠木勢と戦った森本基長の軍忠状。森本氏は「伊丹杜本」と名乗るときもあり、伊丹近辺を拠点とした武士であったと考えられます。軍忠状とは武士が合戦に参加し味方について戦ったことを、大将や戦の奉行が認定した文書で、合戦後の恩賞請求の根拠となりました。
 ここで、森本基長の合戦での働きを認定し、文書の奥(左端)に「承了(うけたまわりおわんぬ)」(承知した)と花押を記したのは、摂津国守護の赤松光範でした。

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足利義詮の尼崎進駐

 延文3年(1358)4月足利尊氏が死去し、12月に義詮が征夷大将軍に任じられます。義詮は将軍就任のデモンストレーションとして南朝に対して大攻勢をかけ、延文4年12月から翌年5月末まで尼崎の大覚寺を本陣に、合戦の指揮をとりました。
 尼崎在陣中の義詮の動向はよくわかりませんが、本陣となった大覚寺には同寺が義詮の命令で天下静謐〔せいひつ〕の祈祷を行なったことや、義詮が摂津国富島荘を寄進したことを示す文書が残されています。
 義詮は延文5年5月に京都にもどりますが、義詮の尼崎在陣は尼崎に安定をもたらすどころか、合戦の処理の混乱からまたもや尼崎は戦火に巻き込まれます。『太平記』によると、赤松光範は摂津国守護であるにもかかわらず、尼崎在陣中の義詮に十分な奉仕を行なわなかったという風評がたち、これに佐々木道誉〔どうよ〕がつけ込み、守護職を奪い取ったとあります。こうして、康安元年(1361)道誉の嫡孫〔ちゃくそん〕秀詮が摂津守護に就任することになります。この守護交代劇は、尼崎地域に大きな影響を与えました。
 そのひとつは、新たに摂津に入ってきた佐々木氏が、自分の基盤をこの地域に築こうとしたらしいことです。康安2年興福寺は武庫荘〔むこのしょう〕、山道荘〔やまじのしょう〕(現芦屋市・神戸市東部)の半済〔はんぜい〕(年貢の半分を兵糧米として差し出すこと)の停止を求めて幕府に訴えを起こしました。同時に西小屋荘についても訴えがなされており、これも半済の停止ではないかと推測されます。このように、この時期いっせいに西摂一帯で半済停止の訴訟が起こったことは、佐々木氏が守護就任を機に、半済を実施したからだと思われます。
 第二は、守護交代の隙〔すき〕をついて、またもや楠木軍が尼崎に進出してきたことです。康安元年(正平16、1361)には楠木正儀〔まさのり〕が神崎で佐々木道誉の孫秀詮を破り、南朝軍が同寺に乱入しないよう定めた禁制〔きんぜい〕を、大覚寺に発給しています(写真4)。さらに翌康安2年8月楠木軍は神崎川にすすみ、守護代箕浦俊定と伊丹・河原林・芥河などの摂津武士の連合軍と対峙〔たいじ〕しました。『太平記』(第38巻)によると、川の東側に陣取った楠木軍は本陣にかがり火を大量に燃やして敵の注意を引き付け、夜間に上流の三国渡〔わたし〕で神崎川をわたり、背後から箕浦の陣を攻撃します。箕浦軍が逃げ込もうとした要害浄光寺も敵の手に落ち(写真5)、箕浦一族の残党は尼崎の「道場」にひそんだのち、京都に逃亡したと言います。
 しかし、その後赤松勢の守る兵庫に向かった楠木軍は、何を思ったか急に河内に引き上げたと『太平記』にはあります。こうして、義詮の尼崎在陣にともなって起こった混乱はおさまり、その後尼崎が幕府軍と南朝軍の戦場になることはありませんでした。


写真4 「楠木正儀〔まさのり〕禁制〔きんぜい〕」(大覚寺文書)
写真提供:尼崎市教育委員会
 禁制とは、軍の司令官(ここでは楠木正儀)が味方として保護すべき場所(ここでは大覚寺)に、味方の軍勢が「乱入狼藉」をしないよう命じたもので、紙に書かれた文書の形式をとるものや、木札に書かれたものがありました。保護を求める当事者の要求を受けて発給されることが一般的でした。


写真5 楠木正儀勢による浄光寺放火 浄光寺蔵「浄光寺縁起図」より 撮影:樫本正巳
 浄光寺は、神崎の南方、神崎川西岸の常光寺3丁目に現存しています。「縁起図」は桃山末期の作品です。

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南北朝内乱期の尼崎

 このように、尼崎は南北朝の内乱の戦火で大きく傷ついたように見えるかも知れません。しかし、一方でこの時期、尼崎が港湾都市として新たに飛躍しようとしていたことを示す史料も残っています。本節2「港津の発展と商工業」でもふれられているように、中世の尼崎は京都の寺社建築用の特大の材木を集散する港湾として有名でした。また、石清水〔いわしみず〕八幡宮の造営などに参加した「尼崎番匠〔ばんしょう〕」と呼ばれた大工集団もいました。これら材木や大工に関する史料は、ちょうど南北朝内乱期になってはじめて現れてきます。戦乱のなかで、尼崎は物資の集散力を高め、それらを加工する技術者を要する港湾都市に成長を遂〔と〕げつつあったのです。
 応永13年(1406)足利義満(これ以前に将軍を辞し、北山殿と呼ばれていました)が、着岸した「唐船」を見ようと尼崎にやってきたことは、内乱をくぐり抜けて尼崎が発展してきたことのあかしと言えるでしょう。

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