中世編第1節/中世社会の形成2コラム/猪名庄遺跡を掘る(益田日吉)
市街地の遺跡
天平勝宝8年(756)、勅施入〔ちょくせにゅう〕により東大寺領荘園として成立した猪名荘〔いなのしょう〕は、12世紀頃作成と推定される「摂津職〔しき〕河辺郡猪名所地図」の存在によって、早くから川辺郡条里の研究とともに所在地比定の検討がすすめられ、現在の潮江地区を中心としたJR尼崎駅北側一帯に広がる荘園と考えられてきました(図1)。
この一帯は戦前から都市化がすすみ、昭和45年(1970)に尼崎市教育委員会が実施した遺跡分布調査のときには既に宅地化していたため遺跡の分布が確認できない状況でした。こうしたなか、昭和58年、潮江地区市街地再開発事業にかかる環境影響評価において、市教委事業地内に「潮江字東大寺」の地名が認められることから猪名荘に関わる遺跡が存在する可能性を指摘し、昭和59年には再開発事業に先立って試掘調査を行ないました。その結果、一部において土師器〔はじき〕・須恵器〔すえき〕などの土器を含む遺物包含層を確認したため、「猪名庄遺跡」と命名して遺跡の発見届を提出しました。
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奈良時代後期に始まる
その後、再開発事業に先立ち発掘調査を3回、確認調査を28回行なっています。なかでも平成9年(1997)1月から6月にかけて行なった第31次調査では、奈良時代から鎌倉時代の建物や井戸などの遺構および土師器や須恵器などの遺物が出土し、猪名荘の一端があきらかになりました。
この発掘調査の調査地は、市街地再開発事業地の北西部分にあたり、調査面積は約5,300uです。調査では、現表土下約1.2mのところから、鎌倉時代前期の掘立柱建物2棟、井戸9基、溝2条、平安時代中期から後期の掘立柱建物8棟、井戸4基、溝6条、現表土下約1.3mのところから奈良時代後期の掘立柱建物4棟、井戸1基の遺構を検出しました。さらに下層からは縄文時代から古墳時代にかけての土器、とりわけ古墳時代の土器を多量に含む洪水層が確認されています。
このことから、古墳時代には調査地の近辺に集落があり、洪水によって大量の土砂とともにそこで使われていた土器が押し流され、堆積〔たいせき〕した厚い砂礫〔されき〕層によってこの土地が形成されたものと考えられます。その後、奈良時代になってはじめて建物が建ち、平安・鎌倉時代まで宅地として利用されていたことがあきらかになりました。
それでは、猪名荘成立後間もない奈良時代後期の遺構を中心に調査成果を概観したいと思います。
奈良時代後期の遺構としては、調査地の西端で検出した建物1・2、中央部で検出した建物3・4、中央部北端で検出した井戸1があります。
奈良時代の倉庫跡
建物1は3間×3間の総柱建物で、東西4.8m、南北6m、面積28.8uです。建物2も3間×3間の総柱建物で、東西5.0m、南北5.7m、面積28.5uです。この2棟の建物は、12.5m離れて、南北に並んで建っていた倉庫と考えられます。
また、建物2から東に42.5m離れて建っていた建物3は2間×5間の南北棟建物で、東西5.2m、南北13m、面積67.6uです。いずれの建物も直径40cm程度の円柱が使われていたと考えられ、柱の不等沈下を防ぐために柱穴の底に板が敷かれたものもありました。
建物3と一部重なる位置で東西棟の建物4の一部(1間×3間以上)を検出しましたが、残存状態が悪く全体の規模等を確認することはできませんでした。ただ、柱穴の新旧関係などから建物3に先行する奈良時代後期の建物と考えられます。
井戸1は一辺約1.5mの方形の穴に井戸枠材をロの字に組み合わせ、その下部中央に直径約40cmの曲物〔まげもの〕を水溜めとして据えたもので、井戸枠上部は後世の掘削によって破壊され最下部のみ残存していました。曲物の上部から土師器の皿が5点完全な形で見つかり、皿の底部外面に「西庄」と墨書〔ぼくしょ〕されたものや底部内面もしくは外面に「×」印が記されたものがありました。
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平安・鎌倉時代の屋敷跡
平安時代中期から後期にかけての遺構は、主に調査地の西半部において見つかっています。柵や細い溝で区画された中に建物や井戸が配置されており、建物の重なりなどから3時期以上の変遷が考えられます。また、建物の柱は奈良時代のものに比べ細く、直径10〜20cmの円柱が用いられていました。
鎌倉時代前期の遺構は調査地の中央部で見つかっています。幅約1.4m、深さ約70cmの溝で方形に区画された中に建物や井戸が配置されています。建物の柱は平安時代のものと同様直径10〜20cmの円柱が用いられていました。
このように今回の調査地は、猪名荘成立後の早い時期に掘立柱建物や倉庫が建ち並ぶ荘園の中心施設の一部にあたると考えられます。その後、平安時代中期から鎌倉時代前期にかけては屋敷地として利用されていたことがあきらかになりました。
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