中世編第1節/中世社会の形成1/神崎川流域の発達と港津(田中文英)
河尻の発展
延暦3年(784)に長岡京の造営が始まってまもなく淀川と三国川(神崎川)とを江口付近でつなぐ工事が行なわれ、翌延暦4年には現在の神崎川ができました。これによって、神崎川が都と西日本とを結ぶ河川交通の主要水路となり、その河口の河尻〔かわじり〕地域が、瀬戸内海航路の発着点として重要な地位を占めるに至りました。
河尻一帯は、古くは難波〔なにわ〕の八十島〔やそしま〕と言われた河口の三角州地帯であり、神崎川など中小の河川の作用によって土地が造成され、地形が絶えず変化する場所でした。やがて、この地帯に、長洲〔ながす〕・神崎をはじめ蟹島〔かにしま〕(加島)・杭瀬・大物〔だいもつ〕・寺江・尼崎などの津や洲・島が相次いで出現し、それぞれに港湾機能を持った港津〔こうしん〕が発達してきました。瀬戸内海を往来して、漁業・運輸・交易などに従事する人々の集住もすすみました。さらに、荘園制や流通経済の発展にともなって、人間や物資の交流・運送が頻繁〔ひんぱん〕になると、この地はいっそう重要性を増しました。
瀬戸内海を通って人や物資を運んできた海船は河尻に点在する港津へ入って、積み荷を舟底の浅い川船に移しかえて京都へ運び、反対に京都から西海に向かう場合は、淀津から川船で河尻につき、そこで大きな海船に乗りかえました。こうして河尻には、おびただしい数の海船・川船が出入りするようになりました。
しかし、河尻の河口付近は、三方が海に面した低湿地帯で、風波を防ぐのに困難な地形であったため、しばしば洪水に襲われたり、河尻に入港しようとする船が着岸できず沈没したりしました。このため、河口をややさかのぼった神崎が、船泊りの地として繁栄するに至りました。
河尻付近の難船記事
貴族の日記などにも、河尻付近で難破する船が多かったことを示す記事が見えます。
『小右記』〔しょうゆうき〕は右大臣藤原実資〔さねすけ〕、『左経記』〔さけいき〕は左大弁源経頼〔つねより〕の日記です。
神崎の繁栄
神崎は、神崎川と猪名川・藻〔も〕川との合流点に位置しており、船舶や人間の往来が増加するとともに、にぎやかな宿場町が形成されました。神崎宿には多数の遊女や白拍子〔しらびょうし〕らも集まり、対岸の蟹島や江口とならぶ歓楽地へと発展していきます。12世紀の初頭頃、当時、貴族のなかで屈指の学者と言われた大江匡房〔おおえのまさふさ〕が書いた『遊女記』のなかで、神崎の地は「天下第一の楽地」であり、瀬戸内海を航行してきて停泊している大きな船のところへ、遊女が小舟をこぎよせて夜伽〔よとぎ〕をすすめる大声は、まさに風浪を圧するばかりであるとのべて、この神崎のにぎわい振りを描いています。
しかし、そうした神崎宿の周辺でも、田畠の開発が活発に推進されていた点を見落とすことはできません。現在の豊中市南西部から尼崎市の戸ノ内付近に位置した摂関家領の椋橋荘〔くらはしのしょう〕は、その地理的条件からして耕地の少ない荘園でしたが、住人による田畠の開墾がすすみ荘域が拡大した結果、12世紀中頃には東西荘園に分立して椋橋両荘が成立します。歓楽地の神崎宿のほとりでも、住人による開発活動が営々として続けられていたのでした(本編第2節1参照)。
荘園と船津・倉庫
こうした情勢のなかで、平安末期から鎌倉期にかけて、神崎から河尻一帯の水辺に接するところに、椋橋東荘・同西荘をはじめ橘御園〔たちばなのみその〕・潮江荘・杭瀬荘・富島荘・長洲御厨〔みくりや〕や貴族の別荘などが相次いで設定されていきました。これらの荘園・御厨・別荘などに特徴的なことは、それぞれ専用の船津や倉庫・荘家など交通運輸的な機能を持つ施設を付設しているものが多かったことです。
東大寺領猪名荘〔いなのしょう〕では、早くから宮宅〔みやけ〕(荘家)が設置されて、同荘の年貢米を収納するとともに、西国方面から海路運ばれてくる東大寺向けの諸物資を奈良へ運送するための、中継基地としての機能を果たしていたと見られています。神崎川流域にも、このような機能を持つ荘園や別荘などが盛んに形成されていったのです。
とくに、権門貴族の荘園・別荘などの場合には、寺社参詣や遊行の際に、交通施設として重要な役割を果たしました。『宇治関白高野御参詣記』によると、すでに永承3年(1048)10月に、関白藤原頼通が高野参詣に向かう際、椋橋荘からも夫役として30人が出て、淀川を下る一行の川船の水手〔かこ〕の役を務めており、当荘の住人が摂関家のために交通の雑役〔ぞうやく〕を負担する体制が形成されていたことがわかります。これらの住人には、散所雑色〔さんじょぞうしき〕・舎人〔とねり〕・寄人〔よりうど〕・神人〔じにん〕など、さまざまな身分を持つ者が存在しますが、なかでも注目されるのが散所雑色です。散所雑色は、交通の要衝〔ようしょう〕に置かれることが多く、交通運輸などに関する多様な雑役を奉仕するのが一般的でした。河尻地域では、橘御園の散所雑色などが知られています。
ところで、これらの荘園領主や権門貴族に専属して雑役を負担する身分のほかに、河尻刀禰〔とね〕が存在しました。この刀禰は、中世の教科書として有名な『庭訓往来〔ていきんおうらい〕』に「淀・河尻の刀禰」とあるように、淀の刀禰と同じく、河尻の港を管理する役人でした。港湾には、個々の荘園領主や住人集団の力では解決できない公共機能の確保という課題があり、河尻刀禰はその面にかかわる存在ですが、残念ながらあまり具体的なことはわかりません。
神崎の遊女とその伝説
神崎宿の繁栄とともに登場した遊女たちは、その後、河尻地域の発達にも支えられて、ますます盛んに活動を展開していきます。大江匡房は『遊女記』のなかで、当時、神崎遊女は河孤姫が長者であり、そのもとに孤蘇・宮子・力命らの著名な遊女がいたと記しています。これらの遊女のうちには、今様〔いまよう〕をはじめ歌舞・音曲等の芸はもとより、和歌をよくする者もおり、院や貴族の宴遊に参加したり、その妻妾になる者もいました。
今様狂いと評された後白河法皇は、その著『梁塵秘抄口伝集〔りょうじんひしょうくでんしゅう〕』のなかで、十余歳のときから重ねてきた今様を謡〔うた〕う修練の跡をふりかえりつつ、公卿殿上人〔てんじょうびと〕だけでなく、神崎の「かね」をはじめとする神崎・江口の遊女、諸国の傀儡子〔くぐつ〕らの名人から習ったと記しています。後鳥羽上皇が水無瀬〔みなせ〕離宮で宴遊を行なうさいには、江口・神崎の遊女らを呼び、今様などを謡わせて乱舞するのが常であったと言われています。
しかし、こうした上層の遊女に比べて、下層の遊女は悲惨な状態に置かれていたようです。13世紀のはじめに、法然が讃岐へ遠流〔おんる〕されるさい、神崎の5人の遊女が罪業〔ざいごう〕の深さを懺悔〔ざんげ〕して、法然に念仏を授かって入水〔じゅすい〕し、これを哀れんだ人びとが遺骸を川岸に葬り、遊女塚を建てたという伝説などが生みだされていくことになります(本節「この節を理解するために」参照)。
河尻から神崎の港津には、多くの海船・川船が輻輳〔ふくそう〕しました。下に中世の絵巻物などに描かれた船を集めました。こうした多様な船が入港したものと見られます。