中世編第2節/中世社会の展開3コラム/琵琶法師と大覚寺(砂川博)




十王堂伝説

 かつて寺町大覚寺の境内の一郭に、閻魔〔えんま〕大王以下の十王〔じゅうおう〕を祀〔まつ〕るお堂がありました。その十王堂は、ある盲人から多額の金銭を奪った報いにより我が子を失った海賊夫婦が、犯した罪を懺悔〔ざんげ〕し、その供養のために寄進したものだと言われています。盲人は、高位の「検校〔けんぎょう〕」という職階を得るために京都へ上る途中でした(『摂陽群談』など)。
 右の話は、いわゆる「伝説」です。本当にあったできごとであるかと言えば、保証の限りではありません。ひょっとしたら作り話かもしれません。しかしそれにしても十王堂の寄進先が、なぜ外ならぬ大覚寺なのでしょうか。
 事件があったのは、西宮の鳴尾沖でした。それならば、堂の寄進先は西宮の寺院であるのが自然です。ところが尼崎の、それも大覚寺が選ばれているのです。「伝説」である以上、根掘り葉掘り調べるのは無意味ではないかとの意見もあろうかと思いますが、しかしこれはこれでひとつの貴重な資料だと言えそうです。
 それは大覚寺が、室町時代のある時期、盲目の琵琶法師たちの重要な拠点寺院であったと思われるからです。

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覚一本平語相伝次第

 よく知られているように、大覚寺には南北朝期を代表する平曲〔へいきょく〕(琵琶法師の語る『平家物語』を言う)演奏家明石覚一〔かくいち〕の語った『平家物語』の伝来経路、すなわち、誰から誰に『平家物語』が譲り渡されたのかを記録したものの写しが残されています。「覚一本平語相伝次第〔かくいちぼんへいごそうでんしだい〕」(関西学院大学名誉教授永島福太郎氏の命名)と呼ばれるこの文書の存在こそ、かつて大覚寺が平曲を語る琵琶法師たちの有力拠点寺院であったことを物語っているのではないでしょうか。
 寺内にそうした文書が残り、伝えられていくということは、そうあることではありません。そこにはよくよくの事情があったと見るべきでしょう。その事情とは何でしょうか。

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琵琶法師と中世律寺

 「縁起」によれば、大覚寺は奈良時代創建と伝えられており、ある時期から唐招提寺の末寺となったようです。その唐招提寺は鑑真〔がんじん〕以来、戒律を重んずる寺院、いわゆる律寺でした。
 ところで鎌倉時代は、仏教の復興運動が盛んでした。そのなかで、大和の西大寺を拠点とする僧侶(律僧)は戒律復興に強い情熱を燃やす一方で、今の募金・募財活動にあたる勧進〔かんじん〕を熱心に行なっていました。集めた金品は、廃絶した寺院を再興したり、道路を作り、橋を架け、貧しい病人に施しをしたりするために使われていました。
 重要なことは、その西大寺流律僧の拠〔よ〕る大和の寺院(現天理市長岳寺)が琵琶法師の足溜〔あしだま〕りとなっていたことです。琵琶法師と律僧・律寺は密接な関係にあったのです。琵琶法師たちは京都、奈良の有名な寺院を舞台に「勧進平家」(『平家物語』を語って募金・募財を行なう)を行なっていましたが、こうしたことも手伝って律僧との密接な協力関係が生まれたものと想定されます。そして、唐招提寺末の大覚寺は、西大寺系統の寺院でこそなかったものの、やはり律寺でした。

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琵琶法師と市

 ところで正和4年(1315)の「大覚寺絵図」に見るように、寺域には市〔いち〕が開かれる「市庭〔いちにわ〕」がありました。
 鎌倉・室町期の琵琶法師は、覚一のように名前に「一」の字をもつ集団と、城玄のように「城」の字をもつ集団のふたつに分かれており、前者の名乗りは平安京に設けられた「東市」に由来するものと想定されています。『庭訓往来〔ていきんおうらい〕』という書物には、市に招く者としてさまざまな芸能者が挙げられており、そのなかに琵琶法師も含まれています。「市庭」をもつ大覚寺にも、琵琶法師が足繁く出入りしたことは疑問の余地がありません。
 「市庭」には市の繁盛を祈って市神〔いちがみ〕が祀られますが、その多くは弁財天でした。その弁財天は胸に琵琶を抱くことから、琵琶法師の守護神でもありました。大覚寺には、今も元和年間(1615〜24)に建立され、18世紀半ば頃に改修された弁財天堂があり、これこそ上記の「絵図」に見える「市庭」に祀られていた、市神の後身であると考えられます。
 このように見てくると、大覚寺に「覚一本平語相伝次第」なる文書が伝わったのも、殺害された盲人の供養のための「十王堂」が寄進されたという「伝説」が付会されたのも、単なる偶然ではないことがわかっていただけるでしょう。

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「覚一本平語相伝次第」の国文学研究史上の位置

 覚一が制定した『平家物語』の伝来経路や詞章改変の事実を伝えるこの文書をはじめて翻字し、日本文学研究者に広く紹介したのは後藤丹治氏の『戦記物語の研究』(筑波書店、昭和11年)でした。しかしあいにく翻字に2か所誤りがあり、これが後の研究者の誤読を生む原因のひとつともなったのは遺憾なことです。
 「覚一本平語相伝次第」はA〜Eの五つの記事(後掲の「解読文」参照)からなりますが、このうち、覚一の忌日と戒名を記すDは、当道座の歴代総検校〔けんぎょう〕の名前や戒名、在職年数、没年などを記した『職代記』と一致しており、また覚一本平家物語制定までの経緯を詳しく記したEは、龍谷大学図書館蔵の覚一本平家物語の奥書と同文です。
 一方、覚一本の伝来経路と詞章改変について記すA、B、Cの記事のうちには、これを裏付ける史料がなく、信頼性にやや欠けるところがあるとも言えます。現に、信憑〔しんぴょう〕性の確認が済んでいないとして評価を保留する平家物語研究者もいます。
 確かに、厳密な史料批判がなされていないことは事実です。しかしD・Eはもちろん、Aについても、たとえば定一が覚一制定の平家物語を「清書」したことはE、すなわち龍谷大学図書館蔵本平家物語奥書と密接に繋〔つな〕がり、その「清書」本が足利将軍家に進上されたことは竜門文庫蔵平家物語奥書によって裏付けを得ることができます。このことから、Aの残りの記事やB、Cの記事についても、史実を正確に伝えたものと判断することもできるかもしれません。
 ちなみに覚一の没後、その後継者となった定一の名前は、同時代の記録や日記『職代記』にも見ることはできません。『職代記』の欠を補う史料として本文書は独自の位置を占めており、貴重です。

「覚一本平語相伝次第」(大覚寺文書)
サイズ:縦31.1×横41.4p
裏面に「平家系図」を記載


〔参考文献〕
砂川博「中世の大覚寺と琵琶法師−「覚一本平語相伝次第」をめぐって−」(『地域史研究』26−1、平成8年12月)
砂川博『平家物語の形成と琵琶法師』(おうふう、平成13年)


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