現代編第1節/戦後復興の時代1/敗戦と市民生活の窮乏(佐賀朝)
敗戦と占領軍の進駐
昭和20年(1945)8月15日。この当時、尼崎市立高等女学校の教員だった井上勇は、日記に次のように綴〔つづ〕っています。
(前略)正午重大ニュースの発表があるという。なにごとかといぶかしく思う。やがて陛下ご自身の御放送の由。全く前代未聞のことで、おそらく陛下が、直接にわれわれ国民に対し本土決戦をよび掛けられるのだと、語る者あり、わたしもまたそのように思う。在校の教職員、学校工場員一同、緊張して職員室に詰めかける。正十二時「君ケ代」の奏楽に始まり、録音が流れでる。放送機が故障なのか、十分聞きとれない。だが、大意を拝承し感涙にむせぶ。しばらく誰も発言しない。
「とうとう負けたか…」田口先生の一言をきっかけとして、室内はざわめく。
『日記昭和二十年』(のじぎく文庫、昭和49年)より
井上は、敗戦を大きなショックをもって受けとめますが、徴兵検査不合格で兵役〔へいえき〕免除のため肩身が狭い、という精神的苦痛から解放されるとも考えました。
9月2日に降伏文書が調印され、日本は連合国軍に占領されることになります。西日本を管轄する米第六軍は神戸に第1軍団第33師団司令部を置き、県内では姫路・宝塚・西宮・伊丹に部隊が駐屯〔ちゅうとん〕しました。
猛烈なインフレへ
占領軍進駐にそなえて、政府は軍需〔ぐんじゅ〕物資を秘密裡〔り〕に処分すべく8月後半に大量放出します。その総額は少なく見て58億円、最大では1,000億円とも言われています。また政府は軍需会社に対する未払い代金、損失補償金の支払いにも応じ、100億円以上を支払いました。このため戦時中から進行していたインフレは一挙に加速します。
当時の朝日新聞の調査によれば、京阪神地方の「自由物価」(統制外の闇〔やみ〕値、白米等9品目合計)は日中全面戦争開始の昭和12年7月から20年8月までに224倍に達しており、その後もさらに上昇を続けます。
政府はインフレ抑制策として昭和21年2月に金融緊急措置令を公布し、3月より新円切り換え、強制預金および預金封鎖により通貨量の抑制をはかりますが、物資生産が回復しない状況ではインフレは避けられず、新円流通制限緩和につれインフレは激化していきます。
食糧危機
敗戦による戦時経済体制の崩壊と激しいインフレのなか、国民生活は危機に陥〔おちい〕ります。
とりわけ深刻なのが食糧難でした。生産減退に加えて敗戦による生産意欲の低下、植民地からの移入途絶など、食糧品供給は大きく減少します。しかも昭和20年は天候不順で米の生産は前年比33%減。じつに明治43年(1910)以来という記録的減収でした。
昭和16年に始まる米穀配給は、外米の混入や芋・雑穀による代用など配給内容が低下しており、20年7月には基準量が1人1日2合〔ごう〕3勺〔しゃく〕から2合1勺に切り下げられるなど、市民の食生活は悲惨でした。
先ほどの井上勇日記の11月にある、食糧事情に関連する記述を下の表にまとめてみました。芋や粥炊〔かゆだ〕きを主食に、頻繁〔ひんぱん〕に釣りにも出かけ、カエルの日干しまで蓄えて毎日をしのいでいたことがわかります。この年12月の日記には、米の闇値が配給価格(1升88銭2厘)の「七十倍以上」とあり、井上の手取り月額258円余りではヤミ米4升を買うと、あとはほとんど何も買えないありさまでした。
月 日 | 記 事 |
11月3日 | 午前10時から1時間半でウナギ1匹、セイゴ3匹を釣る。 |
11月8日 | 朝は焼き芋。カエルの日干しは既になくなり、夜はキビ・米麦の混食。釣りでウナギ1匹。 |
11月13日 | 連日1食または2食の生活。混食米1合を粥〔かゆ〕炊き。 |
11月16日 | 河瀬先生が蒸し芋をくれる。返礼にセイゴ2匹。 |
11月19日 | 朝、畑を巡視。刻みタバコ(「ミノリ」)の配給あり。 |
11月20日 | 保証人委員会で芋のサービスあり。運河で4匹を釣る。夜は朝の麦を温め、また芋を焼く。 |
11月25日 | 赤穂から荷物が届く。下着・靴下とともに素麺〔そうめん〕、アミ、大豆が少量。素麺を炊き、翌日の分も食べてしまう。 |
11月28日 | コンロで素麺1束を炊く。運河に2回行くが成果なし。夜1合〔ごう〕8勺〔しゃく〕の粥に芋2個、近藤先生にもらった小芋3個を足す。 |
闇市の出現、物資の不正受給
戦争末期の逼迫〔ひっぱく〕する食糧事情は、闇市場〔やみいちば〕の急速な拡大と闇価格の高騰〔こうとう〕を呼び、敗戦後の軍需物資放出がそれに拍車をかけました。
尼崎市内にも、各所に闇市場が出現します。そのうち規模が大きく代表的な闇市の場所は、阪神尼崎駅の南側、三和〔さんわ〕市場の西側、出屋敷駅周辺、武庫川駅の南側、国鉄尼崎駅周辺、杭瀬銀座通り付近、国鉄立花駅の北側という、計7か所であったと言われています。
配給統制のもとにおいては、闇市で物資を売ることも買うことも違法でしたが、都市部の住民はわずかな配給食糧だけで生きていけるわけもなく、法を犯してでも食糧を確保していかなければなりませんでした。存在しない家族・居住者を登録し、配給物資を受け取るということも行なわれていました。昭和21年1月24日付の神戸新聞は、不正受給が疑われる尼崎市の「幽霊人口」が1万人以上と報じています。
政府・自治体の対応
食糧危機への対処は、政府や自治体にとっても大きな課題となりました。昭和20年9月、政府は闇市場の急拡大に押されて生鮮食料品の価格・配給統制撤廃を決定、11月から実施に移します。尼崎市でも、市内の食糧事情をふまえて12月には市議会が「各種生活物資獲得資金」100万円の計上を決定。公式ルートを飛び越え、市当局者が産地で直接に買い付け市民に配給することを目論〔もくろ〕みます。
しかしながら、統制撤廃がさらなる価格高騰を招いたため、昭和21年3月には統制が復活されました。
深刻な衣料・住宅事情
生活難は衣料品や住宅の面でも深刻でした。尼崎市内では、すでに昭和20年5月から一部を除いて衣料品切符が交付されておらず、わずかに実施されていた引き揚げ者や妊産婦に対する交付も昭和21年には停止されます。22年に入ってもごくわずかな配給にとどまり、市民は新たな衣料を得ることができないばかりか、食糧を得るため衣服を手放す「タケノコ生活」を余儀なくされていきます。
住宅事情も最悪でした。戦災や家屋疎開〔そかい〕などにより市内家屋約1万8,000戸が使用不能となったうえ、疎開者の帰還や軍人・軍属・入植者らの外地からの引き揚げが重なり、住宅難は悪化の一途をたどります。
このため昭和20年10〜11月、市は戦災家屋修理用木材配給斡旋〔あっせん〕(133件)や防空壕などに仮住まいをする世帯への越冬施設用木材配給(189世帯)を実施。また厚生省による復興応急住宅400戸の割り当てを受けたほか、企業縮小により空き室になった工員寮を借り受け戦災者用アパートを開設(昭和20年中に109世帯入居)、さらには戦災者住宅斡旋所を設け、個人経営の工員寮などに67世帯の入居を斡旋します。しかし住宅不足の解消にはほど遠く、市営住宅建設の要求が高まり、昭和22年にようやく西本町〔ほんまち〕・杭瀬・潮江・西長洲〔ながす〕などに320戸が建設されました。
水害と伝染病
敗戦の年の秋には、生活難にあえぐ市民に追い打ちをかけるように台風が襲来します。9月17日から18日にかけての高潮により床上床下浸水あわせて1万5,000戸近く、10月にも台風により武庫川橋の一部が流失するなどの被害がありましたが、物資不足のため復旧もままなりません。
また、食糧難による栄養不足に加えて、戦災により衛生状態が悪化。昭和20年の市内伝染病・寄生虫病死者は1,004人にのぼりました。同年の市内死亡者数は5,071人、特に0〜4歳児の死亡は全死亡者数の3割弱にあたる1,473人という高い死亡率であり、栄養状態の悪化が幼児たちを直撃したことがわかります。翌21年には市内に発疹〔はっしん〕チフスが流行、GHQの指導によるDDT散布が徹底されました。
敗戦直後の住友金属工業プロペラ製造所
市内北難波〔なにわ〕に昭和16年に開設されたプロペラ製造所は、当時国内最大規模のプロペラ工場でした。昭和19年には年間3万2千本以上を生産しますが、20年6月15日の焼夷弾〔しょういだん〕空襲により施設の多くを焼失。生産能力の大部分を失います。戦後は賠償指定工場としてGHQの管理下に入り、昭和23年には駐留米軍が接収。プロペラ部は昭和28年に復活し、36年に住友精密工業として新発足しました。