現代編第2節/高度経済成長期の尼崎4/教育・文化施策の展開(末方鐵郎)
人口増加と学校施設の整備
戦後の経済復興とともに増加した尼崎市の人口は、昭和30年(1955)には戦前の最高水準を越えて33万5千人に達しました。これにより学齢人口も急増。特に南部地域では教室が不足し、多くの小学校で二部授業が行なわれます。昭和31年度から35年度にかけて市は財政再建団体となりますが、その間も小中学校の新設に努め、36年には二部授業を解消することができました。
財政再建後も引き続き、経済成長にともない増大する税収や、独自財源である競艇場収入などを活用して、市は幼稚園、小・中・高等学校などの整備を推進していきます。木造・老朽〔ろうきゅう〕校舎の鉄筋化も順次実施され、昭和46年度には施工率84%に達しています。
昭和40年代に入ると市域北部の人口が急増。それにより北部の学校が大規模化し、 学校規模適正化・過密校の解消が新たな課題となりました。これらに応じて市立校の新設整備に加え、県立高等学校や私立の学校園が順次開設されていきました。
高度経済成長期における市域の学校開設状況(昭和50年末現在)
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学校教育の近現代化
昭和33年、文部省は科学技術教育振興・最低授業時間数制定・系統学習重視等の方向で「学習指導要領」を全面改訂。これ以降、国の指導のもと、教科教育・授業の科学的研究が推進されます。その一方で、高校・大学への進学率が上昇するなか、受験戦争が激化していきます。昭和40年代に入ると「落ちこぼれ」や「テスト・乱塾に追われる子」が社会問題となり、子供がわかる授業・楽しい授業の創造への取り組みも課題となります。
尼崎市でも、この時期大学研究機関が海外の教育学理論を導入して開始した授業科学化の研究を採り入れ、授業分析─T(教師)C(子供)の発言記録の作成と分析など─を通じて授業の客観化を追求するなど、学校教育の近現代化に向けた取り組みがすすめられました。
多様な教育活動
高度成長期には、人権教育、障害児教育など多様な教育が推進されていきます。
昭和40年代、差別・人権問題の解消が教育分野においても大きな課題でした。市教育委員会は昭和41年の「指導の方針」の冒頭に「教育と人権尊重の精神を基盤にすえ、望ましい人格の完成をめざす」という教育理念を掲げます。さらに同和対策事業特別措置法(昭和44年施行)や県の施策、市地区改善対策審議会の答申(昭和45年)をふまえ、昭和45年4月に同和教育指導室を設置し「同和教育の基本方針」を策定。そこにおいては、学校教育・社会教育などすべての教育の場において同和教育を徹底していくことが謳〔うた〕われ、具体的には推進指導教員の配置や研究団体・研究会助成、手引き書作成などが実施されます。また同和地区児童・生徒の格差解消策として、学力促進学級の設置や高校進学指導なども実現していきました。
障害児教育の分野では、高度成長期を通じて肢体〔したい〕不自由児や知的障害児のための障害児学級・養護学校整備、在宅訪問指導員・介助職員配置などの施策が推進されます。昭和33年4月、肢体不自由児のための尼崎市立養護学校が水堂〔みずどう〕小学校内に開設され、35年7月に田近野〔たじかの〕に新築移転。昭和40年5月には知的障害児のための第二養護学校が金楽寺小学校内に開設され、43年4月に田近野に新築移転しています。なお第二養護学校は昭和47年4月に他市と共同の組合立阪神養護学校となり、50年1月に県立となりました。
このほか市固有の事業として、教育分野における公害対策があります。昭和46年度以降、夏休みに公害病認定児童・生徒の希望者を募り、奥猪名の健康施設に宿泊する「みどりの健康学舎」事業を実施。また同じく昭和46年度以降、大気汚染区域の学校への空気清浄機設置や特別検診を実施し、特に汚染のひどい5校には養護教諭2名を配置(城内小・杭瀬小=49年度、浜小・浦風小・常光寺小=50年度)、児童・生徒の健康管理を強化していきました。
社会教育・文化施策
高度成長期は、学校教育の整備充実とともに、社会教育・文化施策が旺盛に展開された時代でもありました。
まず昭和30年12月14日、ホールや会議室、結婚式場などを備えた市文化会館が昭和通2丁目に開設され、54年に廃止されるまで市の中心的文化施設としての役割を果たしました。なお昭和50年に同じ敷地内に建設された財団運営の尼崎市総合文化センターが、文化会館の後を受け継ぐ施設となっています。
昭和34年6月17日には、国道43号建設のため城内訓盲院〔くんもういん〕跡に仮移転中だった市立図書館が、昭和通2丁目に移転開館しました。戦時疎開〔そかい〕により昭和20年に閉鎖され、戦後は城内国民学校や南城内の旧市庁舎などを利用していた図書館は、これにより鉄筋コンクリート2階建ての専用施設を備えることになりました。
図書館とともに社会教育を担ったのが公民館でした。昭和30年代から40年代にかけて市内各所に分館が開設され、45年度には16分館を数えるに至ります。なお西難波〔なにわ〕町6丁目の中央公民館は昭和45年に木造から鉄筋3階建てに改築、施設が拡充整備されました。
文化財保存の分野では昭和40〜41年に田能〔たの〕遺跡が発掘され、45年7月25日に資料館が開設されたのをはじめ、上ノ島〔かみのしま〕遺跡、若王寺〔なこうじ〕遺跡、水堂古墳、猪名寺廃寺〔はいじ〕跡といった多くの遺跡調査がすすめられます。昭和48年10月3日には、市内出土遺物の保管をはじめ文化財保護の事業を担う施設として、市立文化財収蔵庫が立花小学校の敷地の一画に開設されました。
昭和37年には市制50周年(=昭和41)記念事業として市史編さん事業開始、昭和63年までに全13巻・別冊1巻を刊行します。昭和50年には市史編修室が市立地域研究史料館となり、1月10日、文書館施設として尼崎市総合文化センター内に開設されました。
市以外の主体により設置された文化施設としては、財団運営の近松記念館があります。近松門左衛門の墓がある広済寺〔こうさいじ〕に隣接して久々知〔くくち〕に建設され、昭和50年11月22日竣工。近松ゆかりの品々を展示しており、毎年この地で近松顕彰の行事が行なわれています。
このほか、高度成長期に実現した文化関連のできごととしては、ドイツ・アウクスブルク市との姉妹都市提携があります。ドイツ発明協会ディーゼル金賞牌〔はい〕を受賞した山岡孫吉・ヤンマーディーゼル社長が、同市に日本石庭を贈呈したことが縁となって両市の友好が深まり、昭和34年に提携が実現しました。
田能遺跡の発掘
昭和40年9月、田能〔たの〕字中ノ坪の工業用水道工事現場で、弥生時代の大規模集落址が発見されます。当初は工事を遅らせる発掘調査への風当たりが強かったものの、考古学界が遺跡の重要性を訴え、大型木棺〔もっかん〕墓がマスコミに取り上げられるなど、田能は全国の注目を集めることとなります。
工事の進ちょくと競い合うような緊急調査には、全国各地から専門家や学生、市民が手弁当で参加。翌41年9月までに約4,400uが発掘され、住居祉、銅剣鋳型〔いがた〕など数々の貴重な遺物が出土しました。墓棺からは人骨とともに、碧玉製管玉〔へきぎょくせいくだたま〕や白銅製釧〔くしろ〕といった装飾品も見つかりました。
弥生全期にわたる発掘品の豊富さと学術的重要性により、田能遺跡は昭和44年に国史跡に指定され、昭和45年7月25日には田能資料館が開館。遺跡地の一部が史跡公園として整備されました。
〔参考文献〕
『尼崎市戦後教育史』(市教育委員会、昭和49年)
『続尼崎市戦後教育史』(同前、平成5年)