現代編第3節/石油危機から震災まで2コラム/尼崎を二分した市長選挙(辻川敦)
戦前来のライバル、阪本勝〔まさる〕と六島誠之助〔せいのすけ〕がふたたび戦った昭和26年(1951)の選挙、野草市政3期の後を三つどもえで争った平成2年(1990)選挙、予想を覆〔くつがえ〕して、女性としては全国最年少・尼崎初の女性市長が誕生した平成14年選挙……尼崎市長選挙においては過去幾度となく、歴史的な激戦が展開されてきました。下馬評をひっくり返す逆転勝利が目立つのも、尼崎市長選挙の特徴と言えるかもしれません。
そんな尼崎市長選の歴史のなかでもっとも熾烈〔しれつ〕な戦いであったと言われるのが、昭和53年の野草・海江田〔かいえだ〕選挙です。関係者の証言などをもとに、この選挙の様子をふりかえってみることにしましょう。
ふたりの市長候補
この選挙までの12年間、尼崎市は社会党員である篠田隆義〔しのだたかよし〕市長の革新市政下にありました。その篠田市長のもとで助役を務め、後継者として立候補したのが野草平十郎〔へいじゅうろう〕候補です。大正2年(1913)生まれでこのとき65歳。県立尼崎中学校を卒業して大庄〔おおしょう〕村役場に奉職し、合併した尼崎市の職員になったという、地元出身の叩き上げです。
対する海江田鶴造〔つるぞう〕候補は野草氏より10歳若い大正12年生まれ。東大出で兵庫県警本部長、近畿管区警察局長などを歴任したエリート官僚でした。この海江田氏を強力に推したのが、同じ東大出で警察出身の坂井時忠兵庫県知事でした。保守県政のもと、県下第二の都市尼崎が革新自治体であるというのは、坂井知事にとってはどうしても容認できないことだったのです。
ところで野草陣営の立場から、この選挙の内幕を赤裸々〔せきらら〕に綴〔つづ〕った1冊の本があります。『尼崎の春秋』と題されたその回想記の著者は池田徳誠〔とくせい〕氏。元県会議員で、市保守政界に隠然たる影響力を持った池田氏は、みずからが関わった政界の内幕を包み隠さず書き残したことでも知られています。『尼崎の春秋』(昭和63年)は野草・海江田選挙をはじめ、戦後の市長選挙裏面史を書き記した、たいへん興味深い著作です。同書によれば、坂井知事による海江田擁立の動きは篠田市長在職当時、早くも昭和50年頃からあったようです。
篠田市長3期目の終わりに近い昭和52年になると、その動きは公然化します。しかし海江田氏はそれまで尼崎にゆかりのない、いわば県からの落下傘候補でした。そのため保守革新を問わず、尼崎の地元からは強い反発がありました。野草氏も、そういう感情を持ったひとりでした。
選挙戦の開始
野草家は一族からふたりの大庄村長を出しており、かならずしも政治と無縁ではありませんでしたが、村議であった野草氏の父平左衛門氏が村長選応援の違反で検挙されたことがあり、野草氏は祖父から選挙に関わらぬよう戒められていたと言います(野草平十郎『一滴の油』−平成4年−より)。それで、篠田市長の後継として推されても乗り気でなく、「選挙には絶対に出ない」と言っていたのが、海江田氏出馬への反発から立候補を決意した……野草氏を応援したある元保守系市議からは、そんな証言を得ています。
こうして市長選挙に向けた、尼崎を二分する激しい戦いが始まりました。政党では、自民・公明・民社・新自由クラブ・社民連と5党が海江田候補を応援。ただし地元の保守政界は一枚岩ではなく、池田徳誠氏をはじめ、野草陣営につく者も少なくありませんでした。
とはいえ、当初海江田陣営の勢いは圧倒的でした。現職知事の全面的なバックアップのもと、地元政界も巻き込んで、中央や県との強いパイプを持つ市政の実現を訴えます。また鹿児島県出身であることも、海江田候補の強みのひとつでした。鹿児島県人が多く、一説には5人に1人がそうだと言われる尼崎市において、県人会票は選挙の結果を左右すると言われていました。事実、海江田候補の推せん団体には、尼崎鹿児島県人会や、関西九州人会が名をつらねていました。
革新陣営の動向
野草陣営がこれに対抗するには、社会・共産の革新政党が一体となって、野草候補を応援することが必要でした。篠田市政与党であった社会党は、もともと後継者としての野草担ぎ出しの張本人でしたが、さきの『尼崎の春秋』は、元来保守的な人材と目される野草氏を推すことについて、社会党やその強力な支援団体である総評尼崎地方評議会の内部では難色を示す声も根強かったと、振り返っています。
昭和52年秋から折衝〔せっしょう〕が続けられた結果、翌53年4月1日、篠田市長を立会人に、社会党尼崎総支部・総評尼崎地評と野草氏の間に協定書が調印されます。実はそこには基本スローガンとして「自民党政府と独占(資本)に対決し、その被害者であるすべての階級階層の権利を擁護拡充する民主革新市政」という、本来野草陣営には承認できるはずもない文言が盛り込まれていました。それを押し通して共闘を実現するには、参謀役池田徳誠氏の相当な腹芸があったようです。
共産党との共闘は、さらに難航します。その最大のネックとなったのは、同和行政をめぐる社共の政策の不一致でした。いわゆる「窓口一本化」に反対し、同和行政の転換を迫る共産党と、社会党・野草陣営との間の溝には、深いものがありました。のみならず、坂井知事が尼崎市政転換を熱望した大きな理由もまた、同じところにあったと池田徳誠氏の『尼崎の春秋』は述べています。この時期坂井県政は同和行政の見直しをすすめており、その点で尼崎革新市政とは方向性の相違があるため、海江田氏を市長に送り込んで転換を強力に推し進めようとする意図があったと言うのです。
最後の転機となったのは、市長選直前の10月29日に行なわれた県知事選挙でした。社会・共産がそれぞれ独自候補を立てたこの選挙において、社共候補の尼崎市における得票は、合計しても坂井知事の得票をわずかに下回るものだったのです。市長選の前哨戦〔ぜんしょうせん〕とも言えるこの選挙結果から、両党の共闘なくして野草当選はきわめてむずかしいことが強く印象付けられ、告示直前、ようやく共産党との協定が成立します。
予想外の選挙結果
こうして、いわば呉越同舟〔ごえつどうしゅう〕の野草陣営と、知事肝いりの海江田陣営による熾烈な選挙戦が始まりました。海江田氏有利という感触は最後まで変わらず、野草氏自身敗北を予想しますが、結果は約8千票差の勝利となりました。選挙事務所の海江田候補と坂井知事は、ともに声を震わせショックを隠しきれなかったと、当時の新聞は報じています。
ただ、これほどの選挙であったにもかかわらず、投票率は50%に達せず、両陣営とも既存政党・団体中心の選挙戦を展開し、その枠を越えて市民にアピールすることはかならずしもできませんでした。以後の市長選投票率は、いずれも30%代とさらに低迷を続けます。そこには市民の政治への無関心という、高度成長期以降の政治と地方自治をめぐる大きな問題点が表れていると言えるでしょう。