現代編第3節/石油危機から震災まで4コラム/国道線・尼崎港線の廃止−尼崎市内から消えた鉄道を探して−(森口誠之)
平成9年(1997)のJR東西線(京橋〜尼崎)開業は、尼崎駅を大きく変貌させる転換点となりました。新快速や特急も停車するようになり、4方向を結ぶ乗換駅としてホームは終日ごった返しています。1990年と2000年の乗客数を比べると、1.9万人から3.0万人と急増しています。
その一方で、業績不振で廃止された鉄道もあります。阪神国道を走る路面電車だった阪神国道線(大阪野田〜尼崎玉江橋〜東神戸)、 そして国鉄福知山線の支線となる通称尼崎港線(塚口〜尼崎港)です。このコラムでは、尼崎市内の地図から消えた二つの鉄道を紹介してみましょう。
阪神国道線と金魚鉢電車
路面電車が阪神国道(国道2号)を走り出したのは、昭和2年(1927)7月のことです。阪神電気鉄道の子会社である阪神国道電軌が特許を受け、野田〜尼崎玉江橋〜東神戸間で営業を開始。翌昭和3年には阪神の直営となります。
開通当時、国道線の沿線は農村的雰囲気が漂っていましたが、大庄〔おおしょう〕村や小田村などで耕地整理が行なわれて急速に住宅化がすすんだこともあり、昭和10年代には利用者が大幅に増加していきます。戦争をはさんで、昭和20年代半ばにピークを記録しています。
この時期、国道線の主力となったのは昭和12年製の阪神71型でした。屋根まで届くような縦長の窓が連なっているのが特徴で、流線型の開放的なガラス張りのデザインから「金魚鉢」との愛称で親しまれました。新時代の到来を予期させる、先進的な路面電車でした。
ところが、高度経済成長期に入るとともに、利用者数は減少に転じます。自動車の普及によって道路混雑が激しくなり、定時運行がままならなくなったのです。市内で一番利用者が多かったのは難波〔なにわ〕停留所でしたが、昭和27年に1日4,691人いた乗客数が、昭和37年には2,211人と半減。やがて、国道2号や周辺道路が渋滞する原因として、国道線がやり玉にあげられるようになります。累積赤字の負担に耐えかねていた阪神電鉄はもちろん、兵庫県や尼崎市も、廃止やむなしという方向へと流れていきました。昭和49年3月に上甲子園〜東神戸間が廃止され、残っていた野田〜上甲子園間も、昭和50年に営業を取りやめました。最終営業日の5月5日は、名残を惜しむ市民で終日ごった返しました。なお、金魚鉢こと71型電車は、市内の水明〔すいめい〕公園と蓬川〔よもがわ〕公園に保存されています。
〔参考文献〕
『輸送奉仕の五十年』(阪神電気鉄道、昭和30年)
『阪神電気鉄道八十年史』(阪神電気鉄道、昭和60年)
国鉄尼崎港線と尼崎港駅
福知山線の原型とも言える尼ヶ崎(後の尼崎港駅)〜伊丹間が、川辺馬車鉄道として開業したのは、明治24年(1891)のことです。伊丹の酒や、周辺でとれた農産物を載せた貨車が、馬に引っ張られ行き来していました。明治25年には摂津鉄道となっています。
その後、大阪と舞鶴〔まいづる〕を結ぶ鉄道を企画していた阪鶴〔はんかく〕鉄道が施設を譲り受け、大阪駅まで乗り入れを始めますが、メインルートからはずれた尼ヶ崎〜塚口間は遊休化します。そこで、神崎駅(現在のJR尼崎駅)での官設鉄道線との平面交差を解消すべく、同線を跨〔また〕ぐ築堤を造ることになりました。「土手の神崎駅」→「どてかん」と親しまれる土手は明治38年頃に完成したと思われます。さらに明治40年に国有化されると、阪鶴線(後の福知山線)の支線として官営鉄道のネットワークに組み入れられます。
当初、尼ヶ崎駅があった旧城郭〔じょうかく〕内には、市役所や警察署、映画館を中心とした、官庁街・繁華街〔はんかがい〕が広がっていました。ところが、明治38年に阪神電気鉄道が開業して以降、市街地の中心は、尼ヶ崎駅周辺から阪神尼崎駅周辺へと徐々に北上します。
昭和9年から東海道本線で電車の運行が始まると、神崎駅の乗客数は倍増しますが、尼ヶ崎駅の乗客数は1日500人程度と伸び悩みます。やがて昭和24年、尼ヶ崎駅は尼崎港駅と改称し、神崎駅が尼崎駅と名乗るようになりました。これ以降名実ともに、現尼崎駅が尼崎市民の玄関口へと整備されることになります。一方、尼崎港駅の利用は1日10人程度にまで落ち込み、旅客列車は朝夕2往復に削減されます。鉄道貨物の不振により貨物取扱量も減少。列車の走らない線路敷は、いつしか子供たちの遊び場になっていました。
尼崎港線における旅客列車の運行は、国鉄合理化の先駆けとして昭和56年3月31日限りで終了し、その翌日から大阪〜尼崎〜宝塚間で電車の運行が始まります。片福連絡線、現JR東西線の工事が着手されたのもこの年です。昭和59年には1月末をもって貨物列車の取扱いも中止され、尼崎港線は廃線となります。
その後、線路敷は住宅地や公園に転用され、尼崎港駅の跡地は日本通運の基地として使われています。阪神・淡路大震災の後には、復興仮設住宅の用地としても利用されました。
紀行作家の宮脇俊三は、全国の国鉄線を踏破する旅の途中で昭和51年6月に当地を訪問し、尼崎港線についての印象をこう語っています。
大阪に近いのに田舎の駅のような塚口に着いて、一五分ほど待っていると、ディーゼル機関車に牽かれた二両連結の客車列車が入ってきた。私が乗った前の車両には、客は一人もいなかった。連結器の衝撃が前後にがっくんがっくんときて、至極緩慢に走り出すと、まもなく東海道本線上を高々とまたぎ、土手の上のごみ捨て場のような無人駅に停車する。ホームの柵はこわれ、駅名標は傾きペンキも剥げているが、「尼崎」と書いてある。
ちゃんとした尼崎駅は東方約三〇〇メートルの位置にあり、ここから見下ろせるが、こちらも粗末ながら尼崎であって、西尼崎でも尼崎土手でもない。
土手の尼崎駅から本格的な尼崎駅へ行くにはどうするのか、車窓から見た限りではわからないが、おそらく一般道路を歩くのだろう。しかし、土手を降りる時は危っかしい階段しかないから、足を踏みはずさないよう注意しなければなるまい。
降りる客も乗る客もいない尼崎を発車すると、線路は地平に下って、建て混んだ家並みのなかでまた停まる。これも無人駅の金楽寺駅で、近くにそういう名の寺がある。駅前広場などまったくないから、路地裏で臨時停車しているような感じがする。
国道二号線と阪神電鉄の下をくぐり、右へ急カーブしながら、きいきいと車輪を軋ませて16時52分、終点尼崎港に着いた。
宮脇俊三著『時刻表二万キロ』(河出書房新社、昭和53年)第8章より
(金楽寺という寺があるというのは筆者の誤解)