現代編第1節/戦後復興の時代6/講和後の社会状況と市財政再建(佐賀朝)




講和条約・安保条約の締結

 昭和26年(1951)9月8日、日本と旧連合国のうち48か国の間にサンフランシスコ平和条約(講和条約)が調印され、日本は独立を回復しました。同時に日本とアメリカの間には日米安全保障条約が締結され、それまで占領軍であった米軍の駐留〔ちゅうりゅう〕が継続することになります。
 昭和27年2月には、米軍の駐留条件を取り決める日米行政協定が結ばれます。米軍への基地区域・施設の無償提供、軍人・家族への治外法権などが定められ、こののち米軍施設をめぐる紛争が全国各地で発生する原因となりました。後掲のように、尼崎においても米軍駐留への反対運動が起こりました。

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教育委員会制度の発足と変遷

 昭和23年7月公布の教育委員会法は、戦前教育における強力な国家統制を是正すべく、各自治体の公選制教育委員会設置による教育行政の自治的・民主的運営を定めていました。経過措置として5大市を除く市町村教育委員会設置義務化は昭和25年11月以降と定められ、その後猶予期間が27年11月まで延長されたため、多くの市町村教育委員会が発足するのは講和後のことになります。
 尼崎市では昭和27年10月、県教育委員選挙とあわせて最初の市教育委員選挙が実施され、4人の公選委員と市議会互選委員1人が選ばれました。公選委員4人のうち2人は、兵庫県教職員組合尼崎支部(尼崎市教職員組合、略称尼教組)推せんの小学校教員でした。教育行政執行機関として一般行政から独立した市教育委員会は、教育計画立案・機構改革に着手します。
 このようにして、戦後改革の一貫として発足した教育委員会制度でしたが、民主化政策見直しのなか、昭和29年12月に成立した民主党・鳩山内閣は公選制廃止を打ち出します。これに対して、全国都道府県教育委員会委員協議会や、日本教職員組合などが、反対運動を展開します。尼崎市では市教委を中心に尼教組や総評尼地評も加わり、教育委員制度改悪反対対策委員会尼崎支部が昭和31年4月18日に結成されています。しかしながら、保守合同により誕生した自由民主党を与党とする第三次鳩山内閣のもと、昭和31年6月には教育委員会法が廃止され、新たに成立した「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」の定めにより、自治体の教育委員会は任命制に移行しました。

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教育行政上の課題

 この時期、教育行政が直面したふたつの大きな課題がありました。ひとつは不就学児童・生徒の問題、もうひとつは勤務評定の実施です。
 戦後復興期には、貧困のため児童・生徒が働かざるを得ないケースも多く、義務教育不就学の克服が大きな課題でした。昭和25年度以降市内中学校に夜間学級が設置され、27年度には5校に実現、昼間通えない生徒を受け入れました。ただ、夜間学級は教員の善意とPTAの負担により成り立っているのが実情でした。さらに市は個別の就学督促〔とくそく〕を行ない、昭和25年以降の朝鮮戦争特需〔とくじゅ〕により景気が上向くと、昭和30年代にかけて不就学は徐々に解消されていきました。
 もう一方の問題である勤務評定は、昭和32年に文部省が教員への実施方針をあきらかにすると、教育の反動化・民主教育の否定であるとする日本教職員組合を中心に全国的な反対闘争が起こります。こうしたなか、兵庫県下でもっとも戦闘的なのが尼教組と兵庫県高等学校教職員組合阪神支部でした。このため尼崎市内の学校教員の勤務評定は、県教委が示した提出期限である昭和34年3月末より遅れ、4月9日にようやく提出されます。さらに、勤評闘争における入試事務拒否から教員の処分、生徒をも巻き込んだ処分撤回闘争へと発展した市立城内高校では、市教委側の入校を阻止する組合のピケ排除のため機動隊が出動するなど、同年10月まで半年間にわたって紛争が続きました。

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薄井市長の登場と財政再建

 昭和29年、兵庫県の吉川覚副知事が県の不正経理などを告発し、解職処分を受けるという事件が発生します。県職員ら百数十人が取り調べを受け、司法上は県公房長〔こうぼうちょう〕の起訴猶予にとどまりますが、岸田幸雄知事は責任をとって辞職し、吉川前副知事との間で知事選を争うことになります。
 この保守県政の混乱を革新知事誕生の好機と見た社会党は、必勝を期して左右両派そろって阪本勝〔まさる〕尼崎市長を担ぎ出します。防潮堤〔ぼうちょうてい〕建設を終えたばかりで、続いて工業用水道の建設など市政の課題を見据え、2期目に意欲を見せていた阪本でしたが、懇請〔こんせい〕に折れた形で出馬を決意し、任期5か月を残して市長の職を辞します。かくして12月12日に行なわれた知事選に阪本は大差で当選。また同日の尼崎市長選挙においては、阪本後継者として左右社会党の推せんにより立候補した前助役の薄井一哉〔かずや〕が、保守系各派の話し合いにより立った自由党の吉田吉太郎〔よしたろう〕を破って当選しました。
 第3代の公選市長に就任した薄井が直面したのは、膨大な財政赤字の解消という難題でした。折しも朝鮮戦争特需後の反動不況のなか、全国的に自治体財政が悪化する傾向にあり、これを解決するための地方財政再建促進特別措置法が、昭和30年12月に成立します。財政再建債の発行を認める一方で、自治体に厳しい事業縮小・経費節減を迫る同法の適用を受けることを選択した薄井市長は、市議会の同意を得て昭和31年度からの5か年を財政再建期間とし、教育費・土木費の圧縮などを実施していきます。このため薄井市政の第1期においては、いまだ不足していた学校施設の拡充や、道路をはじめとする都市基盤整備の課題が、少なからず先送りされることになりました。

戦後尼崎市の財政状況(一般会計)
(単位:万円)
年度 歳入総額 市税収入 歳出総額 歳入出差額
昭和21 3,382 868 3,278 104
22 11,090 4,055 11,053 37
23 37,961 19,897 36,225 1,736
24 57,626 32,243 60,007 △2,381
25 127,158 64,308 130,775 △3,617
26 166,149 105,914 206,496 △40,347
27 194,345 126,674 261,266 △66,921
28 223,270 142,692 297,258 △73,988
29 241,586 143,074 296,424 △54,838
30 245,209 140,261 298,056 △52,847

昭和24〜30年度の歳入は「翌年度歳入繰上充当金」を含まない数値。
『尼崎市史』第9巻より。

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地元住民、米軍駐留に反対

 賠償指定工場であった北難波〔なにわ〕の住友金属プロペラ製造所跡には、昭和25年に占領軍の特殊車両整備工場が設置されます。その後さらに、駐留米軍神戸補給廠〔ほきゅうしょう〕の兵力・施設が神戸港から移転します。これにともない、隣接する市民グラウンドの一部提供を米軍が希望したことから、地元住民による反対運動が起こります。


 昭和28年撮影の航空写真(上が北)。西側が住友プロペラ跡、東側が市民グラウンドで、当初は野球場南側の敷地提供が検討されていました。これに反対する金楽寺・大物〔だいもつ〕などの地元住民団体は、昭和27年8月5日、「駐留軍キャンプ設置反対促進協議会」を結成します。


 声明書は反対理由として、グラウンドが市民施設・避難場所として必要であること、駐留により特殊飲食街(売春街)ができるなど風紀・教育上の懸念があることなどをあげています。こうした反対運動に加えて市議会の反発もあり、結局米軍への提供区画は市民グラウンドの東側に変更。昭和30年1年間の資材集積場としての利用にとどまりました。
(地域研究史料館蔵)

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