現代編第3節/石油危機から震災まで5/「公害」から「環境」へ(辻川敦)




 高度経済成長期後半に徐々にすすめられつつあった国の環境行政に対して、石油危機による日本経済の減速は逆風となって立ち現れます。道路公害対策・排出ガス規制がこれからすすめられようとしていた時期であっただけに、大気汚染被害に悩む尼崎市に対しても、このことは少なからぬ影響を与えました。

石油危機以降の市環境行政

 昭和48年(1973)、尼崎市は「尼崎市民の環境をまもる条例」を公布・施行します。同条例には市民が健康かつ快適な生活環境を享受〔きょうじゅ〕する権利が謳〔うた〕われ、事業者はこれを侵してはならず、市はその実現のためあらゆる施策を講ずる義務を有することが基本理念として定められます。同年、市は生活環境局に既設の公害部に加えて環境部を設置し、担当課も増設するなど体制を強化します。
 施策の面では、まず昭和44年、47年と二次にわたって結んできた公害防止協定(44年は大気汚染防止協定)を拡充し、昭和50年3月に兵庫県とともに市内62社67工場、2企業団地を対象とした第三次協定を締結します。従来の協定における硫黄〔いおう〕酸化物の削減に加えて、窒素〔ちっそ〕酸化物、水質汚濁〔おだく〕、騒音・振動、産業廃棄物対策をも含む総合的な内容で、ことに窒素酸化物については、工場ごとの排出量を昭和52年度には対48年度比で36%削減するという、総量規制の考え方をいち早く導入した画期的なものでした。その背景には、昭和45〜47年に多発した光化学〔こうかがく〕スモッグ被害を機に窒素酸化物規制の必要性がクローズアップされたこと、その具体化としての国の大気汚染物質に関する環境基準改正(昭和48年)、硫黄酸化物の環境基準を達成してもなお増え続ける尼崎市の公害病認定患者数、といった現実がありました。
 また水質汚濁については、瀬戸内汚染を解決すべく昭和48年に定められた瀬戸内海環境保全臨時措置法をふまえて、COD(化学的酸素要求量)・BOD(生物化学的酸素要求量)・SS(浮遊物質量)の負荷量を昭和50年末には昭和47年の2分の1とするという総量規制が定められました。
 第三次協定は、工場側の多大な設備投資をともなう協力もあって、窒素酸化物・水質汚濁負荷量とも一定の削減効果をあげました。市内河川水質の改善にあたっては、昭和54年以降市の重点施策としてすすめられた下水道整備も大きな力を発揮しました。一方、その後国はさらに環境基準を改正。それをふまえて、昭和58年には52社56工場との間に、さらに厳しい協定数値を設定した第四次協定が締結されました。
 昭和40年代後半以降、深刻さを増す道路公害問題への対処も重要な課題でした。阪神高速神戸西宮線の全路線が開通した昭和45年、尼崎市は西宮市・芦屋市とともに国道43号公害対策3市連絡協議会を設置。同協議会は公害被害の実態を調査し、国に対して交通量削減や排出ガス・騒音・振動等の規制、被害者救済制度の確立、緩衝〔かんしょう〕緑地帯設置等の要請を続けました。

COD(化学的酸素要求量)=有機物酸化剤分解時に消費される酸化剤量を消費酸素量に換算したもの。海域・湖沼の有機汚濁を測る指標。
BOD(生物化学的酸素要求量)=水中有機物の微生物分解時に消費される酸素量。河川の有機汚濁を測る指標。
SS(浮遊物質量)=水中に浮遊する粘土やプランクトン、有機物、金属など直径2ミリ以下の粒子状物質量。

戻る

大気汚染地域指定解除と公害裁判

 

 さまざまな対策がとられたとはいえ、窒素酸化物・浮遊粒子状物質等を原因とする大気汚染状況はかならずしも改善されず、市域におけるぜん息などの公害病認定患者数は昭和50年代を通して5千人以上という高い水準を保ち続けました。(コラム「公害反対運動と公害裁判」掲載のグラフ参照)。また全国的には、公害病認定患者数はむしろ増加の一途をたどります。
 こういった実情にもかかわらず、石油危機以降、国は公害健康被害補償制度見直しを進めます。昭和62年1月、環境庁が大気汚染地域指定51自治体に行なった指定解除の照会に対して、市は他の20自治体とともに解除反対の意見書を提出。しかしながら国の方針が見直されることはなく、昭和63年3月1日をもって全国の大気汚染地域指定はすべて解除され、認定済み患者を除いて新たな補償は行なわれないことになりました。制度見直しには、経済の停滞のなか、患者急増による補償費負担増大をきらう財界の意向が強く働いていたことなど、いくつかの背景要因がありました。これにより、市域の約3分の2が対象地域であった尼崎市においても、新規認定は打ち切られます。
 これを受けて昭和63年12月、尼崎の認定患者・遺族らが国・阪神高速道路公団・企業を相手に、尼崎大気汚染公害訴訟をおこします。阪神地域では、すでに昭和51年に尼崎・西宮・芦屋・神戸市の住民による国道43号線道路公害訴訟、同53年には大阪市西淀川区の住民による西淀川公害訴訟(被告には尼崎市内企業6社を含む)が提訴されており、大気汚染関係では3件目となる大規模訴訟でした。いずれにおいても共通して国と道路公団が訴えられており、それだけ道路公害の問題が深刻であったことがわかります。

戻る  

「公害」から「環境」へ

 

 こうしたなか、昭和62年、市は毎年発行する環境白書の表題を『公害の現状と対策』から『尼崎の環境』へと変更します。昭和50年代後半以降同書は、臨海部工場群など製造業に起因する公害が減少する一方、道路公害・生活排水などの都市・生活型公害の比率が高まっており、また生活水準の向上や価値観の多様化から、より快適な生活環境を求める市民ニーズにこたえる施策展開が必要という現状認識を打ち出していました。さらに昭和60年代に入ると、国際的な地球環境問題への関心が高まり、国の施策もこれに対応して国際化・総合化をめざします。市の白書の「公害」から「環境」へという改題は、こういった環境行政の変化を象徴するものでした。
 その施策面での具体化として、公園の設置、緑化の推進、尼崎市都市美形成条例(昭和59年公布)による美的・歴史的景観の保全と創出、水環境をはじめ自然とふれあえる環境づくりなどの施策がすすめられます。その結果1990年代には、旧城下の寺町や、久々知広済寺〔くくちこうさいじ〕・近松記念館周辺の「近松の里」などの景観整備、庄下〔しょうげ〕川浄化・修景整備などの成果が表れます。
 平成5年(1993)、尼崎市は(財)都市緑化基金ほか主催の第13回「緑の都市賞」を受賞します。市域全域が市街化されており、緑化がすすめにくいなか、公園・緑地・緑道の設置、街路・学校・工場緑化の推進など、市民・事業者の協力を得てきめ細かい施策を推進してきた実績を評価されてのことでした。

戻る

公園の整備、緑化の推進

 市域では高度成長期以来、環境改善のため公園・緑地の設置・整備がすすめられてきました。昭和45年には131か所101.52ヘクタールであった公園が、平成16年には310か所179.9ヘクタールと、34年間で約1.8倍の面積にまで増加しました。
 左の写真は、市域南部の工場グラウンド跡地などを利用して設置された3.7ヘクタールの元浜緑地です。全国初の大気汚染対策緑地として昭和63年に計画決定され平成元年着工、12年に完成しました。園内にはアスレチック広場や芝生広場、子供たちが水遊びできる「わんぱく池」や自然を復元した修景池などが作られており、市民の憩いの場となっています。


元浜緑地(平成17年、尼崎市撮影)

戻る

猪名川自然林の保存

 昭和44年、市域北東部と豊中市の市境沿いの猪名川蛇行〔だこう〕部分ショートカット工事(利倉捷水路〔とくらしょうすいろ〕)が完成し、旧河道〔かどう〕沿いに残る自然林をどうするかが問題となりました。保存を求める住民たちは昭和46年に猪名川の自然と文化を守る会を結成。行政に働きかけるとともに、47年には猪名川の子ども会を組織し、動植物調査や遺跡学習会といった、猪名川の自然・歴史・文化を学ぶ活動を続けます。
 都市に残る貴重な自然を守るべく、行政側も区画整理計画を変更。尼崎市・豊中市に加えて地権者の協力のもと、旧河畔林〔かはんりん〕の約70%、11ヘクタールが保存されることになりました。昭和58年には第1回朝日森林文化賞(朝日新聞主催)を受賞するなど、都市部における自然保護の先駆的取り組みとして評価されています。


猪名川自然林(平成2年、尼崎市撮影)


〔参考文献〕
『後の世の子らも遊べや 猪名川自然林保存運動30周年』猪名川の自然と文化を守る会・猪名川の子ども会、平成9年


戻る