現代編第1節/戦後復興の時代5コラム/復興を担ったふたりの市長−六島誠之助と阪本勝−(辻川敦)
尼崎が戦後復興という困難な課題に直面した昭和20年代、六島誠之助〔せいのすけ〕・阪本勝〔まさる〕という個性的な政治家ふたりが、相次いで市長の重責を担います。このふたりが市長でなければ、戦後尼崎市のあゆみは多少なりとも違ったものになっていたかもしれません。
六島誠之助
六島誠之助は、明治27年(1894)12月7日、旧城郭〔じょうかく〕内に生まれました。父清三は尼崎城の濠〔ほり〕跡を埋め立てて住宅地(六島新田)を開発、経営した事業家でした。誠之助は県立伊丹中学校を経て早稲田大学に進み、政治科を大正9年(1920)に卒業。同年尼崎に戻り尼崎市政批判会(翌年公声会と改称)を結成し、当時の市政に対する保守系批判派の立場から、政治の世界へと入っていきます。大正11年には兵庫県会議員となり、以後二度の落選をはさんで4期を務めました。昭和6年(1931)に民政党に入党し、13年には同党尼崎支部長となっています。
戦後は、昭和21年4月の衆院選に出馬し落選、翌22年4月の公選制初の市長選に当選し、1期を務めます。戦後の商店街復興やジェーン台風被害からの復興、国・県の反対を押し切って閘門〔こうもん〕式防潮堤〔ぼうちょうてい〕建設に筋道を付けたことなどが、その功績としてあげられます。
阪本 勝
一方、阪本勝は明治32年10月15日、大物〔だいもつ〕町に生まれました。生家は藩の儒学者を務めた名家で、父準平は高名な眼科医でした。北野中学・仙台二高時代は和漢の古典や英独文学に親しみ、東京帝大経済学部に進んでは、民本主義の指導者・吉野作造らの講義を熱心に聴講します。卒業後大阪毎日新聞記者となりますが、労働問題や水平運動に関わり退社、昭和2年に日本労農党から県会に出馬し当選、以後無産党系の県議、衆院議員として活躍し、文筆家としても知られました。昭和26年4月、六島を破って尼崎市長に当選。のちに兵庫県知事2期を務めます。六島の後を引き継ぎ防潮堤を完成させたのに加えて、みずからの発案により逼迫〔ひっぱく〕する市財政の貴重な財源となる競艇場を誘致。労働省が設置する関西労災病院の誘致や、衛生問題としての蝿・蚊の撲滅〔ぼくめつ〕などに尽力しました。
戻る交錯する人生
ふたりは政治的ライバルであるのみならず、さまざまな意味で因縁深い間柄でした。大学時代には西摂塾〔せいせつじゅく〕という同じ寮に起居〔ききょ〕した先輩後輩であり、親しく散歩をともにすることもあったと言います。
選挙戦においては二度対決し、二度とも阪本が勝利しています。昭和10年9月の県会議員選挙では、前職の六島を、神戸市選挙区から転じた阪本が破る結果となりました。『評伝六島誠之助』はこのときの事情を、六島の厳しい県政・市政批判を嫌った上村盛治〔せいじ〕(市議、元市長)ら市会多数派が、対抗馬として政治的立場の異なる阪本を神戸から尼崎に迎え応援したとしています。当選した阪本が選挙違反(利益誘導)に問われ、昭和12年に失職するというおまけまでつきました。
二度目は昭和26年の尼崎市長選挙。しぶる阪本をかつぎだしたのは社会党でしたが、保守・革新を問わず人気の高い阪本は、現職六島有利の下馬評をくつがえし、7万票対5万6千票という意外な大差で当選します。阪本は3年後の県知事選においても、劣勢と言われながら現職の岸田幸雄知事を2倍以上の大差で破るという離れ業を演じています。長い政治生活において、選挙での敗北は県知事引退後の昭和38年東京都知事選のみという、選挙不敗神話を誇っていました。
共通点
政敵と見られたふたりでしたが、相通ずる部分も多くありました。みずからの政治的信念にもとづき行動する政治家であるということ、常に弱い者、貧しい者の味方であるという点でも共通していました。
六島の場合、そのことが、個人より法人市民税負担比率を多く求め、国・県が推進する公安条例にも反対、防潮堤建設の財源は地盤沈下の原因者である企業・工場に求めるといった、保守らしからぬ政策となって表れます。『評伝』には、戦前の労働争議の際、六島が経営していた劇場平和館を無料で労組〔ろうそ〕の演説会場として貸した、というエピソードが紹介されています。
阪本は「ツバメと市民は、いつでもお入り下さい」と宣言し、市長室のドアを取り払って暖簾〔のれん〕をぶら下げたことで知られています。戦前来の無産運動家であり、公舎新築を嫌って立花商店街の一角に住むなど、常に庶民とともにある政治家でした。うっかりすると、街で見かけた貧しい人に着物を渡してしまい、下着姿で帰ってくるような人だったと言います。その一方で、施策実現にあっては代議士時代に培〔つちか〕った中央政界とのパイプを駆使し、ことに政治の師と仰ぐ保守政界の大物・湯沢三千男〔ゆざわみちお〕(元兵庫県知事・内務大臣・参院議員)にはことあるごとに助力を仰ぎ、ともに奔走〔ほんそう〕するといった、革新らしからぬ政治家でもありました。
政治家としての信念と苦渋
市長選敗北後、六島は捲土重来〔けんどちょうらい〕を期しますが、昭和29年5月、病を得て59歳の若さで急逝〔きゅうせい〕します。政治家・文筆家として圧倒的人気を誇る阪本と対決せねばならなかったところに、政治家六島誠之助の不幸があったと言えるでしょうか。みずからの政治的信念を貫いた、その保守らしからぬ政策が、尼崎の保守政界・財界の不支持を呼び、市長選の敗因となったとも言われています。
そんな六島と対決せねばならぬのは「たがいに不幸なことであった……二回とも私は後味のわるい悔恨〔かいこん〕とざんきの思いに責められた」と、阪本は自身が発案した『評伝六島誠之助』の序文に吐露〔とろ〕しています。
阪本は、阪東妻三郎主演の映画となった戯曲『落陽飢ゆ』を若くして書き、晩年には北野中学同窓の画家佐伯祐三の伝記を著すなど、本来は文学・芸術の世界にこそ生きる人でした。そんな阪本にとって、政治の世界の権謀術数や、官僚組織の煩瑣〔はんさ〕な形式主義ほど嫌悪すべきことはなく、政治家としての人生そのものが苦渋に満ちたものでした。尼崎市長選、兵庫県知事選、東京都知事選のいずれもみずから望んだことではなく、周囲の懇請〔こんせい〕に折れての出馬であったと言います。そんな阪本を支えたのは、若き日に河上丈太郎・賀川豊彦という無産運動の先輩の薫陶〔くんとう〕を受けて立てた、社会改革の実践に身を置くという志だったのでしょう。
ともにみずからの政治的信念にしたがい、みずから考え行動する政治家、六島誠之助と阪本勝。防潮堤の建設をはじめ戦後復興という困難な課題を乗り越え、高度成長期の基礎を築き得たのは、このふたりの市長ゆえになし得たことだったのではないでしょうか。
そういう意味で、六島と阪本は時代が求め、時代が生んだ市長であり、政治家であったと言えるでしょう。
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エピソードに見る功績と手腕
六島誠之助─中央商店街
商店繁華街は単に経営者の利得にかヽるものではなく、市民生活の潤いであり、まして戦後虚脱荒廃の市民に対する都市行政上最も急を要するものであった。現在の中央商店街建設計画の当時には、同地点は既に都市計画上大緑地帯として予定されていた。六島氏は繁華街は絶対に都心に置かるべきで、本計画は最も適当とし既定事実の変更を決意し独特の政治力を以て県に奔走、遂に都市計画を改めしめ本商店街建設の決定を見たのである。更に率先してこれが顧問に就任せられ、格別の尽力を注いで今日の隆昌を見るに至らしめられたのであった。
(『評伝六島誠之助』掲載の三好治平氏の文章より)
阪本勝─関西労災病院
(大阪市に内定していた全国3番目の労災病院を、医療施設の不足する尼崎市に誘致しようと、阪本は所管する労働省への工作をはじめる。大臣の)保利(茂)君は戦時中衆議院議員として私と同会派に属していた人物で、いわばきさまおれの仲だし、(労働次官の)寺本君は湯沢三千男氏が内務大臣のときの秘書官で、湯沢氏と特別の関係にある私とは毎日顔を合わせていた懇友である。友達というものはありがたいものである。単身労働大臣室に乗りこんで、保利君と一時間にわたり最初の交渉をしたとき、この問題は決して政治問題化してはならない、あくまで事務的な事柄として進めなければならない、という方針を私に教えてくれた。(その後、社会党の山下栄二衆議院議員、自由党の吉田吉太郎前衆議院議員・根塚繁夫市議らの保革を越えた協力のもと、誘致に成功する。阪本勝著『市長の手帖』より)
〔参考文献〕
『評伝六島誠之助』(六島誠之助伝記編纂会、昭和30年)
『阪本勝著作集』第1〜5巻(阪本勝刊行委員会、昭和54〜平成5年)
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