現代編第1節/戦後復興の時代8/戦後復興期における地域の特徴と変化(佐賀朝)
戦前期尼崎市域の地域構成を要約すると、市街化・工業地帯化がすすんだ南部に対して、鉄道沿線に工場や住宅地が広がり始めているものの多くは農村部が占める北部、と対比することができます。それが戦後復興期を経てどう変化したのか、人口・住居・産業といった視点から、具体的に見ていくこととしましょう。
表1 尼崎の地区別人口(昭和21〜35年)
表2 尼崎市域の地区別人口・住居・産業の状況(昭和30年頃)
人口構成と住居
昭和18年(1943)に戦前最大の33万5千人を記録した尼崎市の人口は、敗戦の年・昭和20年には16万9千人にまで落ち込みましたが、その後は増加に転じます(園田村人口を除く)。
昭和21〜35年の人口の推移を市内6地区にわけて示した表1を見ると、(1)本庁地区(当時の呼称、現中央地区)・小田地区の人口増加率は昭和20年代後半以降減少、(2)大庄〔おおしょう〕・武庫・立花の3地区は昭和20年代後半に増加率がやや鈍るが、30年代前半にはふたたび上昇(特に立花地区)、(3)園田地区は昭和20年代後半以降高い伸び率を示す、ということがわかります。つまり、戦後復興から高度経済成長初期に工業化や住宅地化がすすみ人口が増加するなか、南部の本庁地区・小田地区は昭和20年代前半をピークにやや飽和状態に近づき、かわって北部3地区に人口増の重心が移動します。大庄地区は、両者の中間的な性格を有していると考えてよいでしょう。
こういった人口増加を支えたのは、自然増(出生数と死亡数の差)に加えて、市外からの転入人口でした。昭和20年代から30年代半ばにかけての転入人口においては、鹿児島県・福岡県を中心とする九州からの転入が年間5千人規模から1万人規模に増加しており、中国・四国からもそれぞれ3千〜4千人規模の転入が続いています。その多くは尼崎の製造業や商業などに職を求めて流入した労働人口であったと考えられます。尼崎市においては、こういった流入人口も含めて製造業への就業比率が高く、全就業者に対する比率は戦後復興期を通じて常に40%以上を占めていました。
次に住居については、表2から、人口が多く密度も相対的に高い南部において借家・間借り率が高く、北部は借家・間借り率と持ち家率がほぼ等しいという特徴が読み取れます。また、大規模工場が多く立地する大庄地区と、比較的人口の少ない農村部に大規模工場が進出した園田地区においては、工場とともに立地した社宅の比率が高くなっています。
産業構成の特徴
人口の増大、住宅地化の進展は、それだけ農地・農家人口の減少を意味していました。表2から、昭和35年の段階におけるその進展の度合いを読み取ることができます。もっとも早い時期から都市化がすすんだ本庁地区にはすでに統計上は農家が存在せず、小田地区・大庄地区においては一定の農家人口があるものの、対人口比は2%台にとどまります。これに対して市内農家人口の約75%が分布する北部では対人口比が高く、特に武庫地区は対人口比20%以上と農村地帯としての性格が濃いことがわかります。
次に表2と後掲の「市内工場分布(昭和28年)」図から、市域の経済的性格を特徴付ける工業化の状況について、地区別にまとめてみることとします。
本庁地区
小田地区とともに市内でもっとも早く工場 立地が始まった地区だけに、従業員数が市内6地区中最大、工場数も小田に次いで2位となっています。業種構成は幅広く、従業員数では軽工業の食料品と木材、重工業の化学(旭硝子など)、第一次金属(鉄鋼等、住友金属鋼管製造所など)、機械(特に電気機械)が多くなっています。
小田地区
工場数・密度が市内6地区中1位であり従業員数も多いが、中小零細工場=町工場が高密度に展開しているため1工場あたり従業員数は5位と低い。業種構成は本庁地区同様幅広く、従業員数では紡織(大日本繊維など)、製紙業(神崎製紙など)、化学工業(塩野義〔しおのぎ〕製薬・大日本セルロイドなど)、金属製品(日本スピンドルなど)、機械(棚橋工作所など)、運送用機械(ヤンマーディーゼル神崎工場など)といった分野において6地区中1位を占めるほか、金属や機械製造分野の中小規模工場の分布が濃密であるという特徴があります。
大庄地区
工場数は北部の立花地区・園田地区とほぼ同数ながら、従業員数は1万人を越え6地区中3位、1工場あたり従業員数は第1位と、大規模工場が多く立地していることがわかります。業種別では、第一次金属(尼崎製鋼・尼崎製鉄・尼崎製鈑〔せいはん〕・久保田鉄工所武庫川鉄管工場・神鋼〔しんこう〕鋼線鋼索・日亜〔にちあ〕製鋼・日亜鋼業・古河電気工業など)の従業員数が6地区中1位で、大庄地区全従業員数の8割近くを第一次金属が占めています。このほか化学業(日本油脂など)、金属製品(尼崎製鋸・金井重要工業など)、機械(久保田鉄工所武庫川機械工場など)といった分野の従業員数が比較的多く、鉄鋼を中心に、従業員400人以上の重化学工業大規模工場に特化した地域となっています。
立花地区
各指標において明確な特徴がない地区です。 衣服等(郡是〔ぐんぜ〕製糸塚口工場など)の従業員数が6地区中1位であるほか、化学・第一次金属・金属製品・機械などの業種構成となっています。
武庫地区
工業の指標はすべて6地区中最下位です。従業員300人規模の栄工業(メリヤス)を除いて、少数の零細町工場の立地にとどまっています。
園田地区
工場数が立花地区と同数ながら、1工場あたり従業員数・工場密度はいずれも高く、従業員数の対人口比は21.4%と市内最大であり、人口の少ない農村部に大規模工場が進出した地区としての特徴が表れています。食料品(森永製菓塚口工場)、電気機械(三菱電機伊丹製作所など)の従業員数が6地区中1位となっています。
このように、引き続き南部の工場立地が顕著であり、北部においては立花地区・園田地区の東海道線・福知山線沿線に工業が展開していることがわかります。
また、商業について地区別に比較してみると、商店数は人口分布以上に南部、とくに本庁地区と小田地区に集中しています。商店の規模と経営状況をあらわす1商店あたり年間販売額も本庁が飛び抜けて高く、小田・立花がこれに次いでいます。これらの地区には阪神尼崎・出屋敷・杭瀬、東海道線尼崎・立花、阪急塚口といった鉄道ターミナルと、周辺の大規模商店街が立地しており、そこにおいて活発な商業活動が展開されている様子がうかがわれます。
市内工場分布(昭和28年)
市発行『製造事業所名鑑』掲載の407工場を、業種別に表示しています。工場分布が臨海部から南東部、北部の福知山線沿いなどに集中していること、臨海部が大規模工場で占められるのと対照的に、本庁地区北部から小田地区にかけて中小工場の高密度立地が見られることなどがわかります。
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商店街の復興と繁栄
戦後いち早く復興し、市民の生活を支えた商店街。ここでは本節1コラムで紹介した三和〔さんわ〕・新三和以外の様子について、『尼崎商工会議所々報』の記事から紹介します。
尼崎中央商店街
神田〔かんだ〕中通 昭和二十一年設立、阪神本線尼崎電停と阪神国道との中間地帯にあり、戦前は遊興街として栄えた地帯であつたが戦災に依り烏有に帰し附近一帯は焼野原となつた。この附近は尼崎市の商業の中心地であるに鑑み市内商業人の有力者三好(治平)、白髪(信次郎)、清水、坂口、栄田、碇の諸氏が発起し(中略)建設した。この商店街の本通は神戸元町通附近に類似したジユラルミン街で、復興商店街としては阪神間に類のない立派なものである。此附近一帯の店舗は約一五〇、中心地の本通は約五〇店舗で、大部分は東、西両本町の老舗である有力商人の集まりであり、業種別に別れば日用品関係五、衣料品関係一六、食料品関係五、修理加工業関係一〇、娯楽品関係五、機械器具関係四、飲食関係五の店舗がある。(後略、昭和24年9月、第9号)
立花市場
水堂〔みずどう〕加茂 尼崎市中部を東西に走る省線立花駅の北方に在り、昭和八年頃立花駅が開設され附近が郊外住宅地として発展するに伴い昭和十三年設立せられたものである。顧客は附近の住宅街のサラリーマンでその数は一日約一万人、落とす金高は約三十万円と目されている。店舗は三二店舗あり、その内訳は左の通りである。食料品二〇(青果塩干物五、魚類三、肉類二、漬物佃煮三、飲料菓子三、精粉精米麺類加工二、其他二)日用品六(荒物二、文房具二、履物一、化粧品一)繊維製品二、其の他五 幹部 会長加藤新三郎 副会長西田竹太郎 会計谷春三(後略、昭和25年2月、第14号)
杭瀬市場
杭瀬 杭瀬市場は昭和二年阪神杭瀬停留所北部に設立せられたもので、二階建の阪神間有数の公認市場であつて安い市場として阪神間に名声あり顧客は阪神沿線各地から集まつたもので附近には歓楽地があり日夜共に賑盛を極めたものである。昭和二十年六月戦災に依り全焼したのであるが地元の有力者吉田(吉太郎)、小川、志染、伊藤等諸氏の尽力に依り一番早く復興し現在に至つて昔日の様に栄えているのである。本市場は近くに杭瀬本町商店街、昭和会、杭瀬復興市場等あり、商店数約五百軒にして一日当たりの顧客約二万と云はれてその落とす金額も相当な額に達している。現在の復興した杭瀬市場は昭和二十一年七月に設立されたもので店舗五四軒、敷地約五百坪で食料品関係一五軒、日用品関係一四軒、衣料品関係七軒、履物四軒、飲食関係六軒、其の他が八軒である。(後略、昭和24年7月、第7号)
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都市の暗部 −特飲街の移転−
昭和20年代、尼崎市内に数か所の売春街が出現します。いわいる「アオセン」と呼ばれる非公認の営業であり、表向きは飲食店を装っていたことから「特殊飲食街」(通称特飲街〔とくいんがい〕)と呼ばれていました。昭和26年10月14日付の神戸新聞阪神版は、市内には難波〔なにわ〕新天地・難波新地・パーク街(神田南通)・浮世小路(竹谷〔たけや〕町)といった特飲街があり、千人もの女性が売春を行なっていると報じています。
これらは市内中心部で住宅地や学校にも近いことから問題となり、市は昭和27年2月に売春防止条例を施行、警察による取り締まりも強化されます。
こうしたなか、地元とのあつれきを避けるための郊外移転案が浮上し、昭和30年に多くの業者が初島新地と神崎新地(戸ノ内)に移転しますが、元の場所で営業を続ける業者もありました。2か所の新地は昭和33年の売春防止法施行後も営業を続け、これら特飲街の解消にはなお年月を要しました。
ちょうどこの頃、尼崎の特飲街について『アサヒグラフ』昭和31年6月24日号が報じており、「われわれは完備した施設をもったモデル特飲街をここに実現させてみせる」という開発業者の言葉を紹介しています。