現代編第1節/戦後復興の時代7コラム/ 戦後尼崎の労働運動−尼鋼争議の場合−(辻川敦)




 戦前から労働者のまちであった尼崎では、敗戦後の民主化のなか、ふたたび労働運動の炎が燃え上がります。ここではその様子を、悲劇的結末を遂〔と〕げた尼鋼争議を例にとって、見てみることにしましょう。

戦後の労働組合 −尼崎製鋼の場合−

 市内で唯一、高炉〔こうろ〕の製鉄設備を備える尼崎製鉄から戦後分離し、同社とともに「鉄のまち」尼崎を牽引〔けんいん〕する鉄鋼メーカーとなった尼崎製鋼。その労働組合は、昭和20年代後半には兵庫県下最強の戦闘的組合と言われていました。労使ともに、尼崎を代表する存在だったわけです。
 尼鋼労組〔ろうそ〕が結成されたのは昭和20年(1945)12月。社長以外は組合員という、企業と一体的な組合でした。その後も管理職が組合長という体制が続きますが、産別会議、次いで尼崎全労協に加盟し闘争経験を重ねるなか、徐々に脱皮していきます。現場の声を汲〔く〕み上げた定員確保闘争や、夏季一時金(お盆帰省手当)獲得といった職場に根ざした活動を積み重ね、それが「平岡イズム」と言われた平岡富治社長の温情主義、高能率高賃金方針と相まって、業界でも指折りの高賃金や、会社の経営・人事に対する組合の発言権を大幅に認める労働協約の締結が実現していました。

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経営の悪化

 昭和25〜26年の朝鮮戦争特需〔とくじゅ〕のもと、多様な鋼材生産設備の稼働〔かどう〕を需要に応じて調整し、人員を移動させながら対応する「機動生産」方式により、尼鋼は経営規模を拡大していきます。しかしながら特需後の不況のなか、設備投資と合理化をすすめる大手に対して規模と資本力で劣る尼鋼は生産コスト面で対抗できず、華僑〔かきょう〕資本導入の失敗など経営上の不手際もあって、昭和28年には業績が急速に悪化します。
 こうしたなか尼鋼は、戦前の尼鋼創業者である井上長太夫尼崎製鉄社長を会長に迎えて、三和銀行・神戸銀行の支援のもと経営再建に乗り出します。井上会長は、まず手始めとして、労組に有利な労働協約を改訂(昭和29年3月6日締結)。その際、当面馘首〔かくしゅ〕や賃下げはしないと説明していたにもかかわらず、29年4月7日には賃下げを盛り込んだ経営再建策を提示します。

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長期ストライキへ

 組合側はこの再建策を受け入れず、4月11日には部分ストに入ります。尼鋼労組が所属する鉄鋼労連や総評尼崎地評が闘争を全面的に支援し、4月22日には全面スト・工場占拠へと移行します。会社側は人員整理を含むさらに厳しい再建策を提示し、同月27日に組合との団体交渉を実施。井上会長が倒れる翌朝まで18時間にわたって、労働者が会社幹部をつるし上げるという事態となりました。
 18時間のつるし上げと聞くと、読者の皆さんはあまりに異常と思われるかもしれません。確かにこの団交は、通常の交渉ルールをかなり逸脱していました。しかしながら、この場に臨んだ労働者たちは、過去に支援した他企業の争議において、無抵抗のピケットラインに角材で殴りかかる工場側工員や、ときには会社に雇われた暴力団がふりかざす日本刀と向き合ってきた経験を共有していました。労使双方が、ときにむき出しの暴力性をもって対峙〔たいじ〕する、そんな戦前来の雰囲気を引きずっていたのが、この時代だったのです。
 この団交を機に経営側は社屋から姿を消し、5月4日には組合員381人ほかの指名解雇を通告します。ストが長期化するなか、5月末には不渡り手形が発生。尼鋼はついに、銀行からも見放されたのです。

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争議終結

 「尼鋼はつぶれない」と組合指導部が説明してきただけに、不渡りという事態は労働者たちに大きな動揺を与えました。もともと、労働側に不利な協約改訂を指導部が一般組合員に諮〔はか〕らず承認して以来、指導部と現場の間には闘争方針をめぐって微妙な食い違いがありました。その後の闘争の盛り上がりのなか見えなくなっていた亀裂〔きれつ〕が、会社存続の危機という事態に直面してふたたび吹き出します。管理職からの切り崩し工作もあって、不満の矛先〔ほこさき〕は、徐々に会社から指名解雇を拒否する労働者や先鋭的な組合メンバーへと向かいます。被通告者が職場や社宅で解雇を受け入れるよう難詰〔なんきつ〕され、最も戦闘的な青年行動隊メンバーらは組合員から浮き上がってしまい、職場に足を踏み入れることすらためらわれる状況に陥〔おちい〕ってしまいます。
 その背景には、民主主義の名のもと声の大きい者の主張が通り、労働条件を守るための争議が資本を打倒する階級闘争であるかのごとき政治性を帯び始めるという流れに対して、逆にそのことが会社をつぶし、自分たちの首を絞めることになるのではないかという、穏健な立場からの潜在的な不満があったと言います。
 6月27日、組合は全員大会において指名解雇を承認し、闘争を終結します。しかしすでに尼鋼は銀行の管理下に入っており、経営陣に実質的経営権はなく、倒産・全員解雇という結果となりました。同時に系列の尼崎製鉄も神戸製鋼に経営権を譲渡します。翌昭和30年4月、神戸製鋼傘下に尼崎製鋼が再発足しますが、そのとき再雇用されたのは、約1,800人の旧従業員のうちわずか400人余りにすぎませんでした。

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尼鋼争議の評価をめぐって

 尼鋼争議は日本製鋼室蘭〔むろらん〕争議とともに、この時期の企業合理化反対闘争の典型例と言われています。そして、尼鋼の倒産・全員解雇という結末は、過激な労組が会社をつぶしたと資本の側から非難されたのみならず、労働運動内部にも展望のない長期ストを避けるという消極的な教訓を残すなど、これ以降の労使関係に大きな影響を残しました。
 では尼鋼の悲劇は、ストだけが原因だったのでしょうか。この点について、尼鋼労組初代組合長で争議当時は会社常務であった市田左右一〔そういち〕が『文藝春秋』昭和29年9月号に「会社はストライキで潰された!」と題する文章を寄せ、無謀で過度に政治的な組合活動を批判しつつ、経営合理化・労働問題など全般にわたっての経営側の計画性・実行力の欠如を指摘しています。温情主義・高賃金が企業内にある種のよどみを生む一方で、抜本的な設備投資もなく老朽化〔ろうきゅうか〕した工場においては、自慢の高能率も有名無実化していました。日本鉄鋼業が高度成長に向かって国際的なコスト競争に対抗していくうえで、生産機能と労務管理の両面から、尼鋼は淘汰再編されるべき存在となっていたのです。
 その意味では争議の有無に関わらず、日本鉄鋼業の大きな流れのなかでは、尼鋼の悲劇は避けられないものだったのかもしれません。同時にそれは、尼崎の中小鉄鋼各社がたどる、系列化・縮小・消滅という共通した道筋を象徴するできごとだったと言えるでしょう。

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尼鋼争議の風景

有田吉平氏撮影写真より。有田氏は争議当時、労組書記局において「情宣」(情報宣伝活動)を担当しながら、争議の様子を撮影していました。


 尼鋼争議 構内を駆けめぐるデモの隊列


 昭和29年4月27日の18時間団交において交渉する尼鋼の組合執行部。正面が佐藤俊夫組合長。向かって右隣で腕組みするのが、総評尼崎地評議長で市議会議員の山本寅雄副組合長。戦前すでに労働運動の経験のある山本を別にすれば、多くはまだ若く経験の浅いメンバーが、指導部として空前の大争議を闘いました。


 尼崎競艇場前で街頭カンパ活動を行なう、菜っ葉服姿の組合員と主婦の会メンバー(昭和29年5月16日)。
 尼鋼争議では従業員家族による「主婦の会」が結成され、積極的に闘いに参加しました。闘争資金獲得のため行商隊やカンパ隊が組織され、地域に出て主張を訴えます。争議支援の声は、他労組や商業者、農協といった各界諸団体にまで広がっていきました。
 その闘争スタイルは、当時の総評中央・高野実事務局長が提唱する「高野路線」「地域ぐるみ闘争」の典型例と評されました。

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灼熱の鉄鋼現場


 昭和30年頃の尼崎製鉄工場内
(『市民とともに 尼崎市警察史』より)

 上の写真は、尼鋼の姉妹会社である尼崎製鉄の、昭和30年頃の様子を写したものです。尼鋼労組の活動家で、昭和25年のレッド・パージにより職場を追われた鈴木栄一は、著書『尼鋼の職場闘争』(本音を語る会、昭和61年)のなかで、次のように語っています。

「私の配置された加熱炉は炉内の温度は常に七、八百度(中略)塩分が限度を越えて体からぬけると、頭髪がチリチリ焼ける場所で労働していても汗が引き寒くなり足がフラフラしてくる。そうすると盛ってある塩を頬ばって水で流しこむ。たちまち全身がカーッと熱くなって(後略)」

 そんな現場で労働者たちは、灼熱〔しゃくねつ〕の鋼材を鉄鋏〔てつばさみ〕で持ち上げ、鉄棒で転がし、汗みどろになって働きました。


〔参考文献〕
 尼鋼争議については、『兵庫県労働運動史』戦後2(昭和59年)のほか、数多くの回想記や記録が発行されています。その多くを、地域研究史料館において閲覧することができます。


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