現代編第2節/高度経済成長期の尼崎4コラム/荻原一青―尼崎が生んだ城郭画家―(下中俊明)
失われた尼崎城を求めて
明治維新からすでに140年近くが過ぎようとしている今日、阪神間で唯一の近世城郭〔じょうかく〕であった尼崎城の遺構は、ほとんど何も残っていません。明治6年(1873)のいわゆる廃城令以後、天守や御殿などの建物も取り払われ、大正の末頃には内濠〔ぼり〕や石垣もすっかり姿を消してしまいました。現在、本丸跡と二ノ丸跡には旧城内中学校と明城〔めいじょう〕小学校が建っています。城跡をしのばせるものは、中学校校門付近に建つ「尼崎城天守閣遺構」碑と、小学校の南側側道沿いに「尼崎城址」碑があるくらいです。
尼崎出身の城郭画家・荻原一青〔おぎはらいっせい〕(本名・信一)は明治41年10月4日、築地丸島町に生まれました。尼崎城址に建つ第一尋常小学校(現明城小)を卒業後、大阪に出て天下茶屋の蛭川芳雲画塾で友禅の下絵描きを修行し、「一青」の号をもらいます。昭和6年(1931)尼崎に戻ると、石垣がなくなり濠は埋められ、往事の城跡の面影は失われていました。これを見て悲しんだ一青は、尼崎城の研究と復元をこころざします。
二度の挫折
こうして一青は、尼崎城をはじめ各地の城郭を描き始めます。回想によれば和歌山城天守閣が最初の作品らしく、以後、露天商のかたわら全国の城跡をめぐり、資料を求めて描いた城郭画は、昭和20年までに150点にのぼっていたと言います。しかし同年6月1日の空襲により妻子が犠牲となり、家財・作品・収集城郭資料もすべて失ってしまいます。
戦後、昭和22年頃よりふたたび製作を開始しますが、25年のジェーン台風によりまたしても全作品を失います。生活にも窮〔きゅう〕し、日雇い労働者となった一青は、昼は労働、夜は絵筆をとる生活を続けます。
城郭復元画の第一人者として
昭和33年「どろんこ展」(於西宮市)、「労働者生活展」(於神戸市)に出品して認められ、以後全国各地の百貨店などで個展を開催。次第に世間の注目を浴びていきます。昭和35年、東京池袋の丸物百貨店で開かれた日本名城展に出品し、ここで城郭研究者の鳥羽正雄と知り合います。鳥羽の指導を得ることで、一青の作品は城郭風景画から史料にもとづいた復元図へと進歩を遂〔と〕げました。尼崎城についても、櫻井神社や市立図書館が所蔵する城絵図などをもとに、考証と復元作業に取り組みます。
こうして一青は、城郭復元画の第一人者と評価されるようになっていきます。尼崎市内においても「日本名城画展」と題して、昭和36年11月には旧市立図書館(昭和通2丁目)で、また43年1月には労働福祉会館で個展を開催。会場には、熱心に作品を解説する一青のベレー帽姿がありました。昭和43年11月には、尼崎市民芸術奨励賞を受賞しています。
昭和50年7月7日逝去〔せいきょ〕。残された作品の多くは観光施設・熱海〔あたみ〕城(静岡県)に所蔵・展示されることになります。尼崎に一青の作品があまり残っていないのはいかにも残念です。“平成のお城ブーム”と言われる今日、尼崎出身の城郭画家・荻原一青にふたたび注目するのは、意義あることなのではないでしょうか。
ここに紹介しているのは、いずれも荻原一青の代表作を集めた『日本名城画集成』(小学館、昭和53年)に掲載された、尼崎城復元図です。
一青が描いた尼崎城の鳥瞰〔ちょうかん〕図や立面図は三十数点を数えると思われ、そのうち鳥瞰図は制作年の違う4点が知られています。上の鳥瞰図は、そのうちもっとも後年に制作されたと考えられる昭和36年のもの。後になるほど内容が精緻〔せいち〕になり、櫓〔やぐら〕の棟の方向や破風〔はふ〕の形などが正確になっているところに、研鑽〔けんさん〕をいとわない一青の仕事ぶりがうかがわれます。
なお一青の画集にはもう一冊、地元尼崎の後援者たちの手により出版された『城郭画集成』(同書出版世話人会、昭和43年)があります。
日本城郭協会が昭和34年7月に発行した『城郭』第1巻第3号に、一青は「古城を描いて二十五年」と題して次のように回想しています。
「呪われた戦火は全国大半の国宝城を炎上させた。其れをしのんで私は亡き名城を絵に残す事を決心した」
「仕事の合間に闇市の古道具屋から城に関する本を根気よくあさった。夜はゆらぐローソクの灯のもとで集めた本をたよりに思い出し乍ら城の絵を描き始めた。生活苦に私の此の仕事はたどたどしいものだ。昼は力仕事、夜は子供達が寝静まってから夜の更ける頃まで……」
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