現代編第3節/石油危機から震災まで6/阪神・淡路大震災がもたらしたもの(辻川敦)
- 阪神地域の歴史上の地震災害
- 地震発生のメカニズム
- 阪神・淡路大震災の発生
- 尼崎市域における阪神・淡路大震災の爪痕
- 復興に向けて
- 築地地区の震災被害と復興の取り組み
- ドキュメント「阪神・淡路大震災」
- 阪神・淡路大震災の記録
- 震災後の市民社会の変化
- 不況の深刻化と市政の転換
阪神地域の歴史上の地震災害
阪神地域は、歴史上いくども大きな地震に見舞われてきた地域です。尼崎においても、宝永4年(1707)と嘉永7年(1854)に地震被害があり、尼崎城や城下の家屋などに被害が及んだことが記録されています。この2回の地震は、いずれも東海から近畿をはじめ列島の広範囲に被害が広がった大地震であり、南海トラフのプレート境界地震であったと考えられています。
一方、内陸直下型のプレート内地震は、過去数百年間にわたって阪神・淡路地域での発生が記録されておらず、周期から考えると、マグニチュード7クラスの大地震がいつ起きても不思議ではない状況でした。
地震発生のメカニズム
地球表面を覆う岩盤〔がんばん〕の板をプレートと呼びます。日本列島周辺では、ユーラシアプレートと北米プレートに向かってフィリピン海プレートと太平洋プレートが沈み込んでおり、そのひずみにより地震が発生します。プレート境界に発生する地震とプレート内地震に大別され、西南日本においては約100年に1回の周期で起こると言われている南海トラフの地震が、前者にあたります。
内陸直下型地震である阪神・淡路大震災は、プレート内地震です。プレート沈み込みのひずみが、内陸部地下の岩盤を破壊して地震をおこすもので、これにより岩盤や地層に生じたずれのことを、断層と呼びます。
断層のうち、最近の地質時代(第四紀=約200万年前以降、あるいは数十万年前以降)に入って活動を繰り返しているものが活断層です。淡路島から六甲南東山麓〔さんろく〕部にかけては大規模活断層が密集しており、マグニチュード7クラスの地震が数百年に1回の周期で発生すると言われています。
阪神・淡路大震災の発生
平成7年(1995)1月17日に発生した阪神・淡路大震災は、被災地全域にわたって建造物の倒壊や火災などの甚大な被害を引き起こします。死者・行方不明6,437人をはじめ、関東大震災以来という大規模地震災害となりました。
激甚〔げきじん〕被害地域の東端に位置する尼崎市域においても、大きな被害がありました。中島川堤防の漏水〔ろうすい〕により市域南部浸水の危険が生じたため、1月20日には宮田良雄市長みずから警察車両を駆って県庁におもむき、県知事に緊急対応を要請するという緊迫した事態も生じましたが、電気・ガス・水道・交通等のライフラインは比較的早期に復旧し、2月13日には応急仮設住宅への入居も始まります。
尼崎市域における阪神・淡路大震災の爪痕
〔阪神・淡路大震災〕発生日時 平成7年1月17日(火)午前5時46分
震源地 北緯34度36分、東経135度02分(淡路島北部)、深さ16km
マグニチュード7.3 被災地の最大震度(神戸市・芦屋市・西宮市・宝塚市・淡路島の一部)7
〔尼崎市域〕推定震度6
死者49人(男性29人、女性20人) 負傷者7,145人(重傷1,009人、軽傷6,136人)
全壊5,688棟・1万1,034世帯 半壊3万6,002棟・5万1,540世帯
〔被災地全域の被害〕死者・行方不明6,437人 負傷者4万3,792人(重傷1万683人、軽傷3万3,109人)
全壊10万4,906棟・18万6,175世帯 半壊14万4,274棟・27万4,181世帯)
戻る
復興に向けて
こうしたなか、3月9日、市は震災復興基本計画策定委員会を設置し、4月27日には震災復興基本計画を、また6月30日には基本計画を具体化した災害復興計画を策定します。両計画は目標年次を平成17年と定め、復興の推進とともに、災害に強く安全性の高い都市構造の実現を謳〔うた〕います。こうして、復興住宅の供給、被害集中地域の面的整備、公共施設復旧工事などの復興事業が開始されました。
これらの事業のうち、復興まちづくりのモデルケースとして、尼崎のみならず被災地全域から注目されたのが、築地地区の復興事業です。
築地地区の震災被害と復興の取り組み
築地地区は、近世初頭に尼崎城の南の葭島〔よしじま〕を整地して、新たに造成された町です。碁盤目状の街割や古い町家に、城下町時代の雰囲気を残していましたが、震災により地盤が液状化現象を起こし、地区全域にわたって大きな被害が生じました。もともと沖積層〔ちゅうせきそう〕に覆〔おお〕われた低地であったことに加えて、工場の地下水汲〔く〕み上げによる地盤沈下により全域が海抜ゼロメートル以下となり、地下水位が高かったことが原因でした。震災時の約1,100世帯のうち10戸が全壊、292戸が半壊し、不等沈下による傾斜は家屋全体の約80%に及びました。
築地では、震災直後から社会福祉協議会などが中心となって、被害の復旧に取り組むとともに、復興に向けた地元組織づくりを開始し、2月26日には築地地区復興委員会を発足させます。
この当時、被災市街地復興特別措置法(2月17日閣議決定、26日公布・施行)による復興推進地域指定および、復興都市計画決定の期限は3月17日とされていました。建築基準法においては、復興計画実施以前に無秩序な家屋建て直しが始まるのを防ぐための建築制限期間が、災害発生から2か月間と定められており(第84条)、この時点までに計画決定を行ない都市計画による建築制限に移行しないと、秩序ある復興都市計画が困難になる、というのがその理由でした。
そこで、築地においても復興委員会発足準備段階の2月20日、市が地元住民に対して復興推進地域指定受け入れを申し入れます。しかし住民側は拙速〔せっそく〕な復興計画決定は受け入れられないとし、市もその意向を汲んで県と折衝〔せっしょう〕した結果、時間をかけて復興計画を策定することで合意しました。こうして築地は、阪神・淡路の被災地で唯一、3月17日以降に復興推進地域指定を受け、都市計画決定を行なった地域となりました。
発足した築地地区復興委員会は、復興まちづくり案の検討を開始します。市も復興委員会に歩調をあわせた結果、地区内13.7ヘクタールに対する復興推進地域指定および土地区画整理事業の計画決定が8月8日、住宅地区改良事業の地区指定が9月14日となりました。土地区画整理を施行した場合、しばしば賃貸住宅の減少や建て直しにともなう賃料アップにより、区域内の借家人がそのまま住み続けることが困難となります。一方住宅地区改良事業は、区域の全面買収と公営集合住宅建設が通例であるため、施行区域は団地となり、従前とはおもむきがまったく変わってしまいます。築地の場合、住宅地区改良事業による公営集合住宅に借家人が住み続けられる仕組みを作り、なおかつ区域内に戸建ても含めた民間住宅が建てられるよう土地利用用途を指定するという手法がとられました。
この決定を受けて、築地地区復興委員会は10月18日に復興まちづくり案を市に提出します。そこには、安全で安心な住みよいまちづくり、築地らしい歴史を活かしたまちづくりがうたわれており、住民たちが数か月をかけて学習・検討した内容がこめられていました。これを受けて市は、復興事業を開始します。地区全域にわたって平均1.5mの土地のかさ上げを行ない、住宅地と工場の分離や歴史的景観に配慮したまちづくりがすすめられ、借家人層の転出も比較的少なくおさえることができました(平成19年度換地処分予定)。
震災2か月後の3月17日までの計画決定が原因のひとつとなって、住民と行政、あるいは住民同士の対立がしばしば生まれた被災地のなかで、地域の合意づくりと住民参加型のまちづくりの成功例として、築地地区の復興事業は高く評価されています。
なお市域ではこのほか、震災被害が集中した戸ノ内、東園田町8丁目東部、JR尼崎駅北部、昭和通・西大物〔だいもつ〕の各地区において、住宅地区改良事業や密集住宅市街地整備促進事業、市街地再開発事業といった、各種の手法を用いた復興都市計画事業がすすめられました。
ドキュメント「阪神・淡路大震災」
平成7年(1995)1月17日(火曜日)
5時46分 淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の地震発生。尼崎市域は推定震度6の烈震。
6時10分 市災害対策本部設置、防災指令を発令し職員非常招集開始。
6時50分 宮田良雄市長(当時)登庁。
7時00分 市役所にて第1回災害対策本部員会議。
午前9時までに職員2,940人が配備につき被害調査等を開始。混乱のなか終日緊急対応に追われた。
15時30分 応急給水の開始(〜2月15日)。
18時30分 避難所へパン・牛乳を配布。
この日の避難者数は23時現在で7,855人。市域の約2分の1が断水し、ガスも一部停止。
1月18日(水曜日)
8時00分 救援物資が到着し始める。
9時00分 危険建築物の調査を実施(〜24日)。
11時21分 市議会会派代表者会議開催。
17時30分
大阪府災害備蓄センターより毛布受領。その後も各地から物資到着。
○阪神(甲子園以東)、JR神戸線(尼崎以東)、同宝塚線(尼崎〜塚口間)、阪急(西宮北口以東)が運行再開。○民間業者の支援を得て水道復旧、断水区域は市内の約3分の1に縮小。○被災にともなう火葬場使用料10割減免実施(市外より受入の場合を含む)。
1月19日(木曜日)
5時30分 自衛隊給水車到着、市北部断水地域への給水開始(〜27日)。
○県公安委員会、国道2号線(尼崎市〜明石市)の一般車両通行止めを発表。○一部を除き学校園授業再開。○JR神戸線尼崎〜甲子園口間も運行再開。○災害援護資金受付開始(〜5月1日)。
1月20日(金曜日)○災害対策本部ビラ第1号を避難所等に掲示。4月19日までに28回発行。○防水シートの斡旋〔あっせん〕開始。○中島川漏水〔ろうすい〕応急対策について市長が直接県庁に赴〔おもむ〕き貝原知事に要請。県の緊急工事により2月4日漏水停止。○第一次応急仮設住宅(小田南公園、250戸)の建設発注。
1月21日(土曜日)○JR宝塚線塚口〜宝塚間も運行再開。
1月23日(月曜日)○全市対象に本格的な被害状況調査開始。○災害義援金〔ぎえんきん〕の銀行口座開設。○避難所に簡易トイレを順次設置。
1月24日(火曜日)○激甚〔げきじん〕災害の指定を受ける。
1月25日(水曜日)○共同住宅・長屋住宅の応急危険度判定調査開始(〜2月15日)。○兵庫県南部地震災害義援金募集委員会が設置される。○市のボランティア窓口設置。○避難所にストーブ設置。
1月26日(木曜日)○応急仮設入居者第一次募集開始(〜31日)。○本興寺など寺町6か寺被害状況調査開始。○武庫川ファミリーパークで倒壊家屋がれき受入開始。
1月28日(土曜日)○倒壊家屋解体費用の全額公費負担が決定される。
1月30日(月曜日)○倒壊家屋解体申請受付開始(〜6月30日)。
1月31日(火曜日)○22時現在避難所85か所、避難者数5,226人。
2月2日 すべての学校で授業再開。
3日 尼崎市災害復興本部(本部長=市長)設置。
5日 金楽寺に住宅復旧ボランティアセンターが開設される(全国からボランティアが集まり、平成8年3月末までに1,600件の住宅補修を実施)。
7日 応急仮設住宅入居者第一次抽選結果発表。
10日 自衛隊による倒壊家屋解体作業開始(〜4月15日)。武庫川ファミリーパークで廃木材野焼開始。
13日 応急仮設住宅(小田南公園B、100戸)入居開始。避難者数減少により避難所を体育館から特別教室に移す学校が増える。義援金第一次申請受付開始。
14日 第一次家屋被害状況調査実施(〜23日)。
17日 避難所における避難市民の実態調査まとまる。
20日 市議会災害復興促進特別委員会開催。応急仮設住宅(小田南公園A、150戸)入居開始。
21日 災害派遣等従事車両証明書発行開始(〜3月10日)。
22日 阪神・淡路大震災復興基本法成立。
26日 築地地区復興委員会発足。
27日 応急仮設入居者第二次募集開始(〜28日)。
28日 22時現在避難所75か所、避難者数2,831人。
3月1日 第一次義援金、県援護金の交付開始。
5日 兵庫県南部地震尼崎市犠牲者合同慰霊祭開催。
9日 市震災復興基本計画策定委員会設置。
10日 市震災復興基本計画への市民提言募集。応急仮設住宅第二次入居開始、以後竣工に応じて順次入居。
22日 水堂〔みずどう〕小学校に10か所の避難所代表、世話人が集まり、尼崎被災者連絡会を結成。
27日 市震災復興産業関係者会議設置。
31日 野積み可燃ゴミの他都市処理場への搬出終了。22時現在避難所65か所、避難者数1,496人。
4月1日 阪神・淡路大震災復興基金が設立される。
2日 尼崎被災者連絡会が水堂小において被災者交流会開催。仮設入居者同士の部屋交換の仲介を開始。
6日 避難所集約化にかかる避難者意向調査実施。
10日 第二次家屋被害状況調査実施(〜30日)。
25日 尼崎被災者連絡会の仮設住宅交換仲介を受けて、市も仮設住宅住替制度を発足。
27日 市震災復興基本計画策定。
28日 第二次避難所への移動開始。
5月10日 第一次避難所すべて閉鎖。
16日 ケア付き応急仮設住宅入居開始。
22日 義援金第二次申請受付開始。
31日 武庫川ファミリーパークでの野焼中止。20時現在避難所10か所、避難者数176人。
6月15日 第二次避難所閉鎖。
30日 市震災復興計画を策定。市のボランティア業務終了。
7月
100戸以上の大規模応急仮設住宅4か所に、ふれあいセンター設置。
20日 応急仮設住宅計50か所、2,218戸がすべて完成。
31日 すべての応急仮設住宅入居完了。
8月7日 震災復興市民のつどい開催。市震災復興推進本部設置、災害廃棄物対策室設置。
8日 築地地区を被災市街地復興推進地域指定。
20日 尼崎被災者連絡会が解散し、替わって仮設住宅の世話人等による生活再建住民会議が結成される。
10月3日 災害復興公営住宅(大物〔だいもつ〕団地、友行西カイチ団地)建設着工。
18日 築地地区復興まちづくり案を市長に提出。
平成8年
3月1日 50〜100戸の中規模応急仮設住宅7か所に、ふれあいセンター開設。
31日 平成7年度末現在、応急仮設住宅50か所、入居戸数2,074戸。
平成9年
12月31日 平成9年末現在、応急仮設住宅47か所、入居戸数2,144戸。
平成11年
3月19日 最後の応急仮設住宅を撤去し、完全解消。
阪神・淡路大震災の記録
阪神・淡路大震災においては、震災の経験と教訓を伝える記録類が、過去の災害において例がないほど多く作られ、保存されました。こういった震災記録は、過酷な災害に直面した人々の営みの貴重な証しであり、今後の災害対応や防災対策、さらにはまちづくりや福祉、地域社会のあり方全般を考えていくうえで、またとない貴重な財産であると言えます。(以下に紹介する震災記録は、いずれも地域研究史料館蔵)
戻る
震災後の市民社会の変化
震災は、被害と復興にともなう都市の変貌〔へんぼう〕に加えて、時代を象徴するいくつかの変化をもたらしました。ひとつは震災ボランティアをきっかけとした市民の社会への参加意識の高まり、市民活動の活発化です。尼崎市内においても震災時、社会福祉協議会のボランティアセンターに登録して活動する各種グループ・個人など既存のボランティアに加えて、新たに多くの市民ボランティアが生まれ、それぞれの立場から被災者支援・被害復旧の活動に取り組みました。震災後もその流れが引き継がれ、市民によるまちづくり団体やNPO法人なども生まれました。
同時に、地域コミュニティの重要性があらためて浮き彫りとなったのも、震災の経験を通じての大きな教訓でした。激甚災害時の対応、あるいは日常の安全安心のまちづくりや支え合う地域福祉も地域コミュニティなくしてはあり得ず、その一方で高齢化や地域社会の空洞化が一層すすんでいるだけに、コミュニティの再構築が大きな課題として浮かび上がってきました。
不況の深刻化と市政の転換
震災後のもうひとつの変化は、被災地での不況の一層の深刻化です。本節1「転換期を迎える尼崎の経済」でふれたように、1990年代半ば以降、尼崎の経済は製造業・商業とも全面的に後退していきます。構造的な問題に震災が追い打ちをかけたことは、容易に想像できます。
こうしたなか、市は平成4年に策定した総合基本計画の目標年次である平成13年を前にして、同12年に第二次総合基本計画を策定します。そこにおいては、都市経済の活力低下と行財政の逼迫〔ひっぱく〕、中堅ファミリー層を中心とした人口流出の継続といったリアルな現状認識のもと、市民・事業者との「協働」や地域資源保存活用型のまちづくり、循環型社会の形成・自然との共生、地域経済の活性化などが目標に掲げられました。また、地方分権や少子高齢化などの変化に応じた既存施策・施設の見直し・再構築、行財政改革の推進や事業評価制度の導入による効果的・効率的な行政の推進なども課題とされました。
こういった諸課題のなかでも特に深刻なのが、財政問題でした。長引く不況下における市税や競艇場収入などの減少、生活保護費をはじめとする扶助〔ふじょ〕費の増大、震災復興事業による公債費増大などがその直接的要因であり、さらには高度成長期以来の施策展開による人件費・公共施設維持管理費といった固定経費の増大が、税源収縮時の収支不均衡をもたらしました。
このため市は、総合基本計画に続いて財政計画、行財政改善計画、経営再建プログラムを策定し、自律・参画・協働の視点にもとづく地域・民間主体のまちづくり、公共サービス機能の住民・民間事業者への委譲、重点課題の選択と限られた経営資源の投入といった、行政経営の考え方に立った小さな役所づくりをめざして、従来以上に行財政改革を徹底させていきます。
こうしたなか、平成14年11月17日投票の市長選挙では、「市民の視点に立った尼崎の変革」を訴えた元市会議員の白井文〔あや〕候補が、現職の宮田良雄候補を破って当選します。平成14年は、横浜市や熊本市など各地の市長選において、現職が無党派や市民派の新人に相次いで敗れた年であり、社会への閉塞〔へいそく〕感から流れを変えたいとする市民意識の表れであると報じられました。尼崎市長選も、そういった時代を象徴するできごとのひとつとしてマスコミに大きく取り上げられ、全国的に話題を呼びました。続く平成18年11月19日の選挙においても、白井市長は国政与党の推せんを受けた対立候補を大差で破り、再選を果たしました。
こうして、初当選時42歳と女性としては全国最年少の若い市長のもと、21世紀の新たなまちづくりに踏み出した尼崎市でしたが、経済成長の負の遺産とも言うべきできごとに相次いで見舞われます。平成17年4月25日には、JR福知山線の塚口・尼崎駅間において、犠牲者107人という大規模列車脱線事故が発生。さらに同年6月29日、株式会社クボタが市内工場の石綿(アスベスト)被害をあきらかにしたことから、翌年にかけて石綿被害が全国的な問題となりました。こういった緊急事態に直面するなか、福知山線事故においては現場周辺企業や住民が率先して救助活動にあたり、石綿被害については、クボタが従業員に加えて周辺住民の患者・遺族への救済金支払いを打ち出します。市もこういった民間のすばやい対応と連携しながら、問題解決に向けて最大限の努力を惜しまず、公害や震災といった厳しい経験をくぐり抜けてきた尼崎市ならではの、官民協働の姿を示しました。