現代編第2節/高度経済成長期の尼崎3/市政の展開、都市基盤の整備(山崎隆三・地域研究史料館)




山積する行政課題と市財政

 防潮堤建設の経費負担をきっかけとして、高度経済成長の開始とともに財政再建団体となった尼崎市でしたが、昭和35年度(1960)には財政再建を果たします。同年度末の施政方針表明において、薄井一哉〔かずや〕市長は予算編成上の重点項目として、教育施設整備、地盤沈下対策、交通・水道などの基盤整備、青少年問題、地域組織等の活動支援・育成、清掃・衛生関係などをあげました。財政再建期間中の緊縮財政による各分野の施策の遅れに加えて、市域人口の増大、都市化の急速な進展などにより、取り組むべき行政課題は山積していました。
 その一方で、経済の活況を反映して、市税収入を中心に市の歳入は大きく増大、財政規模は急速に巨大化していきます(下のグラフ参照)。昭和30年度と45年度を比較すると、歳入決算規模で24億5,200万円から299億5,200万円と、15年間で12倍以上、この間の消費者物価指数の伸びを考慮に入れても、実質6.5倍に近い伸びを示しています。
 こうして右肩上がり経済のなか、各分野の施策が旺盛に展開される時代が始まりました。これらのうち、教育・文化と公害対策についてはそれぞれ本節4本説6においてくわしくふれますので、ここではそれ以外の分野について、具体的に見ていくこととしましょう。


 歳出については前半期と後半期で費目構成が変わっており、また同スケールでは前半期の内訳を表示しがたいため便宜上別グラフとした。歳出規模全体は歳入とほぼ同じ割合で急上昇している。


 上のグラフを見ると、1955年度と比較して1960年度以降、特に歳出のなかで金額・内訳比率とも大きく増大したのが土木費と教育費であったことがわかります。人口や産業の集中、都市化の進展などにより必要となった学校施設の増設や、都市基盤・公共施設の整備には多額の経費を要しました。
 その貴重な財源となったのが、市独自財源である競艇場収入でした。1955年度には7億7千万円、1960年度には13億1千万円であった競艇場事業費歳入は、1970年度には330億6千万円となり、一般会計への繰出額および同歳入に占める比率も1960年度の1億5千万円、2.8%から1970年度は54億2千万円、18.1%へと大きく増大します。なお1955年度は一般会計には繰り入れておらず、特別会計大庄湿地帯事業費に対して6千万円を繰り入れています。円グラフは、1970年度の普通建設事業費の財源内訳です。競艇場事業費を中心とする収益事業収入が市にとって、いかに大きな意味を持っていたかがわかります。

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工業用水道・下水道の整備

 さきの薄井市長による施政方針にもあるように、この時期もっとも重点的に実施された分野のひとつが、地盤沈下対策でした。
 具体的には、まず工業用水道の整備があげられます。昭和31年制定の工業用水法適用第1号に指定された尼崎市は、第1期事業として武庫川を水源とする南配水場を建設し、32年11月には、予定区域の一部に対する配水を開始します。翌33年5月に工事が完成し、日量6万立方メートルの給水が可能となりました。昭和39年6月には第2期事業(北配水場)、43年7月には第3期事業(園田配水場)が完成、給水能力は日量47万4千立方メートルとなります。工業用水の供給により、市内の工場は地下水を汲〔く〕み上げて使用する必要がなくなり、戦前来尼崎市を悩ませてきた地盤沈下はこれにより収束することとなりました。
 同時に市は、地盤沈下の結果頻発〔ひんぱつ〕した浸水被害の防止と、工場排水・生活排水による河川水質汚染防止を目的として、昭和28年に下水道整備に着手し、37年10月には供用を開始。これ以降、市域全域の下水道整備が、市の長期にわたる重点施策課題となりました。

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市街地の整備

 尼崎市域では大正期以来、耕地整理・土地区画整理の手法による市街地整備がすすめられてきました。高度成長期は、こういった戦前来の事業や、戦後国策として実施された戦災復興土地区画整理に引き続き、市域各所で区画整理が行なわれました。
 この時期の区画整理事業は、高度成長にともなう急激な人口や産業の集中による、市街地の無秩序な開発=スプロール化を防ぐことを大きな目的としており、戦前に主流であった組合施行─住民が主体となって組合を作り、みずからの負担のもと市街地を計画的に造成する─よりも、むしろ市施行が主流となった点に特徴があります。また市域南部の区画整理の多くが戦前や戦災復興期に施行されたのに対して、高度成長期においては東海道線以北への施行が多くなっています。
 こういった区画整理の実施により、従来農地が広がっていた市域北部にも住宅地が造成され、道路・公園などの施設が整備されていきました。とりわけ、急速に増大する自動車交通に対処するための道路整備はこの期のもっとも重要な都市計画課題であり、区画整理もしばしば道路整備を主たる目的のひとつとして実施されました。具体的には、第二阪神国道(国道43号)建設を目的として行政庁(市長)により施行された浜手土地区画整理(武庫川町〜南城内の109.2ヘクタール、昭和31〜38年施行)や、名神高速尼崎インターチェンジ設置にともなう周辺整備を目的とする市施行の尾浜土地区画整理(152.4ヘクタール、昭和34〜46年施行)などがあります。なお、浜手土地区画整理の事業手法である行政庁施行というのは、組合施行や市施行(公共団体施行)とは異なり国の命令により市長が実施するもので、戦災復興や基幹道路建設といった国策的事業に際してとられる手法です。

高度成長期における都市計画の進ちょく状況
  昭和31年度末 昭和50年度末
区画整理(換地処分済面積)
1,400.4ha
1,996.0ha
公園整備面積
34.17ha
130.28ha
同上人口1人あたり
1.02m2
2.40m2
道路整備総延長
677,245m
877,962m

〔備考〕『尼崎市統計書』、市作成区画整理資料より
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道路整備・立体交差の実現

 こうして、国道43号は昭和38年1月に兵庫県下のうち18.2qが開通、45年3月には大阪市内を含む全線開通。また名神高速道路は昭和38年7月に栗東〔りっとう〕(滋賀県)・尼崎間が開通、39年9月には尼崎・西宮間が開通します。
 こういった基幹道路に加えて、東西南北の幹線から生活道路にいたるまで市内の道路が整備され、さらにはこれら道路交通の円滑化をはかるための立体交差化がすすめられます。昭和39年9月には阪神尼崎駅立体化工事が完成、さらに45年9月には武庫川・尼崎センタープール前駅間が高架化されました。また昭和40年5月に県道五合橋〔ごごうばし〕線と東海道線、45年3月には同線と阪急神戸線の立体交差が実現。45年10月には国鉄立花駅の高架化工事が完成し、西に隣接する市道道意〔どい〕線も翌46年2月には東海道線上を立体交差するようになります。道意線の水堂〔みずどう〕踏切は「開かずの踏切」と呼ばれ、近隣住民の往来にとって大きな障害となっていましたが、これによりようやく南北をスムーズに行き来することができるようになりました。
 なお、市は都市計画について外部委員に諮問することを定めた尼崎市都市計画審議会条例を、昭和44年10月に制定しています。これにより、以降は計画策定・立案が、学識経験者・市議会議員などからなる審議会の審議に委ねられることになりました。

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広域行政、市町合併計画

 このほか、高度成長期には従来顕在化していなかった行政上の諸課題が噴出し、市はそれらへの対応を迫られていくことになりました。
 そういった諸課題のひとつに広域行政・市町合併があります。交通、ごみ・下尿〔しにょう〕処理、公害といった阪神各市町に共通する課題に対処すべく、自治体の連携な いし合併が検討されたもので、その具体案のひとつが尼崎市・伊丹市・川西市・猪名川町の3市1町合併案でした。昭和32年2月に発足した3市連絡協議会に、翌33年2月猪名川町が加わり3市1町連絡協議会が発足。41年6月には合併調査協議会と改称し、合併問題に関する調査検討が行なわれます。昭和37年から38年にかけては、宝塚・西宮・芦屋の3市を加えた広域市構想も提唱されますが、結局各市町間の利害対立などから、いずれのプランも実現しませんでした。

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社会福祉施策

 社会福祉の分野の施策が拡充されたのも、この時期の特徴のひとつです。老人福祉・心身障害者福祉・母子福祉・保育など、各分野にわたる社会福祉施設の多くが、この時期に設置を見ています。また社会保障の分野では、全国に先駆けて条例による社会保障審議会を昭和31年1月に設置。障害者、児童・青少年、高齢者など各分野における社会保障について、審議会から建議を得て施策を実施しました。

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同和対策事業

 差別や貧困の問題、とりわけ部落差別の解決は、この時期重要な行政課題となりました。高度成長初期には、各地区の生活環境改善などの施策は未だほとんど実施されておらず、住民は結婚差別・就職差別などのさまざまな差別に加えて、きわめて劣悪な居住環境・生活条件のもとにおかれていました。
 昭和23年に市内各同和地区代表者が結成し、行政への要望活動などを行なっていた五月会〔さつきかい〕が同和事業協会へと改組した昭和28年、市は地区改善事業費をはじめて予算計上します。こののち、昭和30年代から40年代にかけて市内各地区において部落解放運動の組織が作られ、行政への訴えかけを強めていきます。
 昭和40年、国の同和対策審議会答申が出され、44年には同和対策事業特別措置法が施行。それに対応して市は42年4月に地区改善対策審議会を設置、翌43年には地区改善対策室を設けるなど事業を本格化します。昭和45年、地区改善対策審議会は同和問題に対する行政の責任を明確にし、環境整備・福祉保健・産業労働・教育の分野における施策の推進を答申します。これを受けて市は同審議会を同和対策審議会へと改組し、さらに翌46年以降各地区に総合センターを設置するなど施策拡充強化、差別解消に努めました。

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薄井保守市政から篠田革新市政へ

 最後に、この時期の市長の交替について、ふれておきたいと思います。
 高度成長前半期の市政を担ったのは、薄井一哉市長でした。明治30年(1897)生まれ。大正15年(1926)に市職員となり経済部長、助役などを歴任。昭和29年、県知事選に出馬した阪本勝〔まさる〕市長の後継者として左右両派社会党の推せんを受け当選。同年12月から41年12月まで3期を務めますが、2期目以降は社会党と決別、保守市政の立場をとりました。
 昭和37年、3期目の選挙に際して薄井市長に対抗したのが、篠田隆義〔しのだたかよし〕前助役でした。明治31年生まれ。大正13年に市職員となり、薄井市政を助役として支えますが、昭和37年4月に退任し社会党に入党、革新市長候補として12月の選挙に出馬します。このときは現職の薄井市長に敗れますが、4年後の昭和41年、薄井市長が引退した選挙にふたたび立候補し当選。同年12月より53年12月まで3期を務めました。
 市長が交替した昭和41年は市制50周年の年であり、市制記念日(10月8日)の記念式典において、尼崎の今後の発展に向けた市民ひとりひとりの心構えを謳〔うた〕った「尼崎市民憲章」が発表されます。篠田市長にかわった12月には尼崎市名誉市民条例が公布され、薄井元市長がその第1号を受賞することになりました。

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高度経済成長期に設置されたおもな公共施設

昭和30年 12月14日

 昭和通2丁目の日本木管跡地に市文化会館開館。1,500人収容のホールや展示室・会議室・結婚式場などを備える。翌31年10月31日には西本町〔ほんまち〕より同敷地内への琴秋閣〔きんしゅうかく〕(旧秋岡邸)移転工事竣工。昭和12年、素封家〔そほうか〕・秋岡家より市に寄贈された琴秋閣は、枯山水〔かれさんすい〕の石庭と大小の和室を備え、文化会館附属施設として結婚披露宴などに利用された。


市文化会館(市広報課写真アルバムより)


琴秋閣(『市制50周年記念誌あまがさき’66』より)

昭和31年 8月1日

 最初の公民館分館として、今北分館を東今北地区に開設。翌32年11月3日には塚口に宮ノ前分館開設。各地区における社会教育・同和事業推進の拠点となった。


 狭い路地に家屋が密集する東今北地区。同和地区の住環境整備が、この時期の大きな課題となった。(昭和44年、市史編修室撮影)


昭和31年8月竣工当時の公民館今北分館(市広報課写真アルバムより)

昭和32年 7月1日

 上ノ島〔かみのしま〕に市立総合隣保館竣工。県内3番目の同和地区改善施設。その後昭和40年代にかけて、市内各同和地区に総合センターが設置されていった。

昭和34年 6月17日

 城内より昭和通2丁目に市立図書館が移転開館。

昭和35年 5月15日

 大高洲〔たかす〕町に建設された市清掃工場が操業開始。ごみと下尿を処理して堆肥〔たいひ〕化する施設。当時東洋一の規模であったと言う。

昭和37年 10月8日

 東七松〔ななまつ〕町1番地(現東七松町1丁目)に新築された市庁舎の落成式開催。城内の旧尼崎尋常高等小学校校舎を利用していた庁舎が手狭となり、また市の人口重心が北部に移ったことなどから、東七松町にあった池を埋め立てて建設したもの。旧大庄〔おおしょう〕村役場(現大庄公民館)と同じく村野藤吾〔とうご〕が設計した


 市庁舎外観と内部。市広報課写真アルバムより。竣工後間もない時期の撮影と考えられる。低層2階のホール状の空間(写真上)や、市民窓口を低層に集めた配置構造など、随所に村野作品らしい特徴がみられる。

昭和38年 5月25日

 久々知〔くくち〕字東川田(現下坂部〔しもさかべ〕4丁目)に市立あこや学園(精神薄弱児通園施設)開設、6月1日開校。市立の心身障害者福祉施設として最初のもの。このほか、昭和30年代から40年代にかけては各分野の福祉施設が、市立あるいは社会福祉法人として設置されていった。

昭和38年11月1日

 交通安全知識を学ぶ日本初の公園施設として、県立西武庫公園の交通公園が開園。昭和40年4月には庭園施設など西武庫公園全園が開園した。


 西武庫公園から住宅公団西武庫団地を望む。昭和41年、片岡敏男氏撮影。戦時中防空緑地となっていた西武庫区域に武庫土地区画整理事業が施行されたことにより、総面積7.2haに及ぶ広大な都市公園として整備された。

昭和41年 12月1日

 難波〔なにわ〕新町1丁目(現東難波町4丁目)の労働会館跡地に市立労働福祉会館開館。

昭和45年 7月10日

 大物〔だいもつ〕公園内に市立産業郷土会館開館。他府県出身者の文化教養・憩いの場を提供。宿泊施設も備える。

昭和45年 8月25日

 勤労者の保養施設として、浴場、宴会場、宿泊施設などを備える尼崎高原ロッジが猪名川町に開館。

昭和49年 7月13日

 南武庫之荘3丁目に市立勤労婦人センターを開設(現女性センター・トレピエ)。

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