現代編第2節/高度経済成長期の尼崎7/ドル・ショックと石油危機(山崎隆三・地域研究史料館)
ドル・ショック
昭和46年(1971)8月15日、アメリカのニクソン大統領は金・ドル交換停止を発表します。財政赤字と貿易赤字に苦しむアメリカが、ドルの裏付けである金保有量の減少を防ぐことを意図したドル防衛策でした。これにより主要各国は変動相場制に移行し、ドルに対して自国通貨を切り上げます。
この年12月にワシントンのスミソニアン博物館で開かれた10か国蔵相会議は新たな固定相場を定め、円は1ドル=308円となりますが、ドルが切り下げられてもアメリカの貿易赤字は止まらず、昭和48年までに日本を含む主要国は変動相場制に再移行します。
輸出を牽引車〔けんいんしゃ〕としてきた日本経済は、円の切り上げにより大きな曲がり角を迎えることになります。
苦境に立つ尼崎の製造業
すでに頭打ちとなりつつあった尼崎の製造業にとって、ドル・ショックは拡大から停滞・縮小への転換点となりました。下のグラフから、それまで右肩上がりだった各指標が、昭和46年には縮小ないし横ばいに転じたことがわかります。
ドル・ショックをきっかけに倒産する企業も現れました。昭和46年12月17日付の朝日新聞阪神版は、尼崎市内でドル・ショックの影響による中小企業倒産が表面化した最初の例として、日研製作所の倒産を報じています。記事によれば、従業員163人の同社は小型工作機械・精密機械部品などを輸出する、全国的に名を知られた存在でした。円高による輸出不振は、こういった中堅メーカーにも容赦なく襲いかかります。
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石油危機
さらに追い打ちをかけたのが、昭和48年10月に始まる石油危機(第一次オイル・ショック)でした。第四次中東戦争をきっかけにペルシャ湾岸6か国が原油公示価格の21%引き上げを決定。次いでアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が減産とイスラエル支持国への輸出制限を開始。さらに石油輸出国機構(OPEC)が昭和49年1月の公示価格2倍値上げを通告。これにより原油価格は、石油危機以前の1バレル=3ドル1セントから11ドル65セントへと、4倍近く値上がりすることになりました。
石油価格上昇をきっかけに、「狂乱物価」と言われる猛烈なインフレが始まります。昭和49年10月までの1年間に、消費者物価・卸売物価とも全国平均で約24%上昇。安価な石油供給のうえに成り立っていた日本経済は、大きな危機に直面します。
ふたたび前掲のグラフに目を転じると、ドル・ショック後減少した尼崎製造業の製造品出荷額等総額はいったん持ち直したものの、昭和50年にふたたび減少に転じたことがわかります。石油危機の影響が、約1年遅れでダメージとなって表れたものと考えられます。
次項に紹介した各企業の対応や経営者の述懐〔じゅっかい〕からは、石油危機があらゆる製造業分野にとって従来にない、大きな試練であったことがわかります。厳しい合理化・省エネルギー策がとられ、さらには石油危機をきっかけに生まれた新たな需要に対応していくことで、それぞれの企業はこの危機に対処していきました。
ドル・ショック、石油危機の尼崎への影響と企業の対応
住友金属工業の場合
(昭和52年発行、同社『最近十年史』より)
「(ドル・ショックによる)輸出の一時的混乱と国内需要の停滞により、鉄鋼業界の先行き見通しはさらに暗澹たるものとなった」
「生産の七〇%以上が輸出に向けられていた鋼管製造所(尼崎)では、主力の第一製管工場が四十七年一月以降二交替操業へシフトダウンして減産を余儀なくされるなど苦境に追い込まれ、全所を挙げて省力をはじめとする非常時合理化計画を推進…」
こうしてドル・ショックを乗り切った同社は、石油危機下においても減産することなく、エネルギー使用量規制や原材料費高騰を合理化と価格転嫁により克服していきます。石油危機の影響で世界的に資源開発が活発化したため、同社の製造する油井・油送用鋼管は需要が大幅に増大し、昭和50年頃まで生産は繁忙〔はんぼう〕をきわめたと言います。
ヤンマーディーゼルの場合
(昭和58年発行、『燃料報国−ヤンマー70年のあゆみ』より)
「昭和48年の石油危機は、ディーゼルの燃料費低減の重要性をふたたび見直させる契機になった。
これより先の四〇年、当社が開発した特殊渦流室は、従来の予燃焼室の概念と理論的にまったく異なるもので、燃料消費、性能ともにいちだんとすぐれ、始動もきわめて容易な特長をもったものであり、小形横形水冷ディーゼルエンジンF型シリーズをはじめ小形立形エンジンに全面的に採用した」
同社は石油危機以前からの研究開発をもとに、さまざまなタイプの低燃費・高出力エンジンを開発供給していきます。また景気悪化にともなう公共事業縮小により小規模工事の比率が増したことで、需要が伸びた小型建設機械の分野に活路を見出すなど、石油危機後の経済動向を逆に新たなチャンスととらえる積極的な経営戦略を展開していきます。
大森基一・神鋼鋼線工業(株)取締役会長
(尼崎商工会議所会頭、『尼崎経協』第133号−尼崎経営者協会、昭和53年11月−より)
「石油ショック以来世界の様相が全く変わり、どの国もインフレに悩まされ混乱の渦中から脱しきれない状態が現在です。わが国も例に漏れず、繊維〔せんい〕、造船、鉄鋼界も大変です。今では高成長時代を夢見る経営者は全くおりませんが、わが国は外国と違って終身雇用制であり、情も重なり簡単に人員整理も出来ません。従って経営者は辛抱に辛抱して、景気の回復を待ち、堪え忍んでいる方々が多いんです」
久保田鉄工の場合
(平成2年発行、『クボタ100年』より)
石油危機による物不足・物価上昇への対処として、同社は原材料安定調達のため資材部門を強化、営業部門においては納期再検討や販売価格引き上げを行ない、さらには全社的な省エネルギー・省資源対策を実施していきます。
「鉄管・鋳物〔いもの〕の主原料である銑鉄やスクラップなど量的な安定確保と原価低減の重要性が増してきたので、自動車などの大型スクラップを使用できるキュポラの大型化(集中熔解)の検討を進めた。その結果、(昭和)五一年船橋工場に八〇トン、翌五二年武庫川製造所に六五トンの大型キュポラが完成し、主原料の安定的・経済的調達を可能にした」
さらに製造部門の集約化や不採算部門の廃止といった合理化をすすめ、その一方で主力の農機・鉄管に次ぐ新規分野の開拓(住宅建材、合成管、ポンプ事業など)により経営の強化がはかられました。
(注:キュポラとは、材料を溶融〔ようゆう〕して底部から鋳物地金〔いものじがね〕を抽出する溶銑炉〔ようせんろ〕のこと。キューポラとも言う)
藤縄重男・日興商会取締役社長
(尼崎経営者協会常務理事、前掲『尼崎経協』第133号より)
「大企業の下請事業や零細企業の多い尼崎は、その(ドル・ショック、石油危機の)影響は一層深刻で工場街の火は次第に小さくなり企業の事業縮小や閉鎖停止など零細企業は青息吐息の状態。従って市の人口も(昭和)四五年の五五万余人から五三年の今日では五三万七千人と漸減」
新聞が報じたトイレットペーパー騒ぎ
ダイエー三和店(神田中通六丁目)には(二日)午前七時ごろから主婦が並びはじめ、午前十時の開店時には三百人の列ができた。(中略)トイレットペーパーは一パック四個入り九十八円という格安さだったが二百五十二個しかなく、一人一個ずつに制限したにもかかわらず五十人近くがあぶれるしまつ。(中略)ニチイ尼崎店(神田北通五丁目)にも約三百人の行列ができたが、売り出し数量は百八十人分。「どうしてもっと売らないの」「そんなに品不足なの」と詰め寄る主婦たちに係員は「また明日並んでください」と汗をかきながら応対…
(昭和48年11月3日付サンケイ新聞尼崎版より)
また、11月4日付の毎日新聞尼崎・伊丹版は、2日の騒動でけが人が出た灘神戸生協園田店が、3日のトイレットペーパー販売を中止したと報じました。