現代編第1節/戦後復興の時代1コラム/三和に行ったらなんでも揃う−まちの戦後を見つめ続けた商店街−(井上眞理子)

 出屋敷界隈〔かいわい〕は、尼崎のなかでもことに飾らない庶民の町で、作家の田辺聖子さんが「阪神電車の踏切がひっきりなしに鳴って、そこから東へかけ闇市〔やみいち〕あがりの商店街がクモの巣のように四通八達」していると、エッセイにも書いています(『歳月切符』Vわが街の歳月)。にぎわいの中心はなんといってもその商店街にあって、「三和〔さんわ〕に行ったらなんでも揃〔そろ〕う」と言われたものでした。

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ルーツは闇市

 人々が「三和」と呼ぶのは、「新三和商店街」「三和本通り」「三和市場」あたりのことで、それぞれに異なった生い立ちを持っています。一番の古株は、戦前にできた三和市場(公設市場)で、あとのふたつは、戦後まもなく玄番〔げんば〕北之町付近に生まれた闇市がそのルーツと言えます。
 なかでも新三和商店街は、衣料品や雑貨を扱う店々を中心に親しまれてきました。阪神出屋敷駅に近く、商店街北側には国道電車が通るなど利便性がよく、また周辺には南部の工場で働く人々の住宅があって、昭和20年代から40年代の頃まで、市内はもとより近隣市からも買い物客が押し寄せました。
 新三和商店街が広がる玄番北之町の一角には、闇で鮮魚の卸売りを始めた池田清一〔せいいち〕が建立したという、天龍神社があります。もともとこの地を守っていた白龍(白い巳〔みい〕さん)のお告げによって祀〔まつ〕られたと言われ、以後この商店街の守り神となっています。またかつての魚の闇市の面影をしのばせる石畳も、商店街の通路からは裏通りにあたる、倉庫となっている一角に今も残っています。

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商店街の「顔役」

 池田清一は、明治41年(1908)に大阪で生まれ、18歳のとき四貫島〔しかんじま〕で食料品を商う店を始めました。昭和11年(1936)に尼崎の杭瀬に移り、戦後出屋敷へとたどり着きます。池田の店は、地元のやくざ・高木組が沼地を埋め立てて造った市場のなかにありました。この付近では敗戦直後から米や砂糖などの食料品を売る人があり、その多くは戦災者や引き揚げ者であったと言われています。高木組はそういった人々からショバ代を集める一方で、にらみをきかし、それなりの治安を保っていました。
 統制経済下にあった当時、生鮮食料品は手に入りにくく、鮮魚の配給も、尼崎にその割り当てが来ることはほとんどありません。そんななか池田は仲間とともに四国や明石などで魚を買い付け、夜中に中在家〔なかざいけ〕や東浜から陸揚げして小売業者に売りさばきました。市内はもちろん阪神間各地、遠くは京都からも、買い手が集まって来たと言います。その繁盛〔はんじょう〕ぶりは当時を知る人々の語り草となっていて、公務員の初任給が数千円であった昭和23、4年頃、池田の店の売り上げは1日10万円を下らなかったという証言さえあります。
 また彼は、警察や高木組などともうまく折り合いをつけ、界隈で大きな力を持つようになっていきました。

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ドブ川の上でまで商売

 バラック建ての市場は、池田の店を中心に、果物屋、昆布屋、雑貨屋、飯屋、寿司屋など百軒近い店がひしめきあい、木組みのアーケードも作られました。市場のまわりにも露店が増え、ことに玄番北之町を流れるドブ川の上には、板を渡して米・雑穀などの食料品や日用雑貨、古着などを広げる店がひしめきあっていました。商人といっても戦災で焼け出された人など素人がほとんどで、丹波や篠山〔ささやま〕あたりまで買い出しに行く人や、闇物資のブローカーから買い入れる人など、仕入れ方法もさまざまでした。
 闇市場の真ん中を通っていたというドブ川は、かつては田畑が広がる農村であった西難波〔なにわ〕・東難波の間を通って、三和本通、玄番北之町を横切り、貴布禰〔きふね〕神社横の玄番堀へと流れ込んでいた用水路でした。闇商人たちが店を広げたあたりは、闇市となる以前は水はけが悪く、葦〔あし〕のはえる湿地であったといいます。
 やがて、昭和21年暮れの大売出しを機に新三和商業協同組合が誕生し、一帯は「新三和市場」の名で親しまれるようになりました。池田は協同組合の理事長となり、昭和32年4月には市内の商業者をたばねる尼崎商店連盟の会長に就任。以後長らく、尼崎の商工界の顔として知られました。

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近代的な商店街へ

 統制経済が解かれ、公設市場に食料品が並びだすと、商人たちは新しい時代へと対応していきます。昭和28年12月には出屋敷線沿いの出屋敷商店街に市内初の鉄骨シルバーアーケードが完成、続いて三和・新三和にもアーケードが造られます。同じ頃、三和本通りにすずらんの形の街灯が点灯。一方、市は水路の下水管化工事をすすめ、水路の上を占有していた商人たちに土地が払い下げられました。
 こうして、民家の軒先を借りて商売をしていた店も含めた付近一帯の闇市は、近代的な商店街へと生まれ変わっていきました。

〔参考文献〕『甦る夾竹桃─必死に生きた尼崎市民の戦後 一〇年─』(尼崎市民の戦後体験編集委員会、平成9年)

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ヤミ市復元MAP

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