現代編第2節/高度経済成長期の尼崎5コラム/出郷者の町−同郷者集団と地域社会−(山口覚)




労働人口の流入

 工業都市として発達してきた尼崎市は、故郷を離れた多数の出郷者〔しゅっきょうしゃ〕を迎え入れてきました。尼崎市内の近代工場の先駆けとなった尼崎紡績が、明治39年(1906)に鹿児島県知覧〔ちらん〕町から15人の若年女性労働者を受け入れた話は、「知覧から来た乙女」として今も語り継がれています。こういった人口流入は、大正期から昭和戦前期、さらには高度経済成長期を通じて、ますます激しくなっていきました。
 図1は、各都道府県から尼崎市に転入した人々と、尼崎市からそれぞれの都道府県へ転出した人々の差、つまり転入超過数を示しています。高度成長期の昭和36年(1961)と45年には、九州・四国・中国地方からの流入が多かった様子が読み取れます。工都尼崎は、「出郷者の町」でもあったのです。


図1 各都道府県から尼崎市への転入超過数
注:1)1961年(昭和36)については沖縄(県)のデータがない。2)兵庫県の数字は、他市町村から尼崎市への転入超過数合計を示す。
資料:『尼崎市の人口』昭和37年版、『尼崎市統計書』昭和46年版、51年版

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尼崎の同郷者集団

 ところで、見ず知らずの異郷へ向かうとき、何のあてもなく出郷する人はほとんどいないと言われています。地縁・血縁関係者などのつてを頼る「連鎖〔れんさ〕移住」、紡績会社などによる特定地域での周旋〔しゅうせん〕活動による移動、あるいは高度成長期に中卒・高卒労働者を対象に実施された「集団就職」も含め、多くの人々は故郷と目的地を結ぶ何らかのネットワークや制度を通じて出郷したはずです。そうであれば、行き先で同郷者を見出すこともさほどむずかしくはなかったでしょう。故郷での人間関係から切り離された出郷者は、同じような境遇に置かれた同郷者とともに、互いに助け合うための様々な結びつきを作り出し、時にはそれが会員制や会則などを持つ「同郷者集団」として制度化されます。尼崎市においては、おもに西日本各県の出身者による県人会や、出身市町村や出身学区といったより狭い範囲を単位とする「郷友会〔きょうゆうかい〕」あるいは「同郷団体」と呼ばれる集団が多数確認されます。
 特に県人会については、市の指導のもと「尼崎各県人会連絡会」(昭和45年設立、59年に連合会と改称)が21県人会によって組織されています。この連合組織に所属する県人会の推移を示したものが図2です。平成16年(2004)に廃止された産業郷土会館(大物〔だいもつ〕公園内、現社協会館)は、もともと「県人会館」として計画され昭和45年に開館したものでした。


図2 尼崎各県人会連合会に所属する県人会
注:連合会への所属期間は、各県人会の活動期間とはかならずしも一致しない
資料:『産業郷土会館まつり』各年版。

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出郷者の都市生活

 都市に出て働く出郷者たちの生活はたいへん多忙であり、また高度成長期は現在のように電話も普及していませんでした。尼崎市内における家庭の電話普及率は、昭和45年でようやく50%を越えたような状況でした。こうしたことから、同じ尼崎に住む同郷者と日常的に会ったり話したりすることは、むずかしかったものと思われます。鹿児島県の離島のひとつ、甑島〔こしきじま〕の出身者は、郷友会の発行する『江石〔えいし〕会新聞』第21号(昭和63年)に「出郷者の大半が、極く限られた方以外は、ただ風の便りに噂を聞くしかありませんでした」と回想を寄せています。
 高度成長期の新聞記事のなかには、尼崎市を「孤独の街」と表現したものもあります(『毎日新聞』尼崎・伊丹版、昭和45年6月22日付)。同郷者集団の多くは、こういった個々人の孤立状況を解決するために設立されたものであり、そのおもな活動は、年に数回の各種会合や運動会といった親睦〔しんぼく〕行事でした。

兵庫県立尼崎勤労青少年福祉寮(『尼崎1964市勢要覧』より)

 上の写真は、福利厚生施設に恵まれない職場に働く地方出身青少年のための施設として、昭和38年4月に栗山前田町(現栗山町2丁目)に開設された兵庫県立尼崎勤労青少年福祉寮です。鉄筋コンクリート4階建て、収容人員は約500人でした。
 この寮の管理は県から尼崎市に委託されており、対象者は阪神間の中小企業に勤める25歳以下の男子で、入寮申し込み書は雇用主から提出することになっていました。
 昭和43年5月発行の『月刊あまがさき』によれば、このときの入寮者508人の出身地方別内訳は九州178人、四国69人、近畿15人、その他の地方19人。また寮生1人の負担月額は寮費2,200円、食費4,050円(朝・夕2食)でした。
 工都尼崎を象徴する施設のひとつでしたが、平成10年度を最後に廃止されました。

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政治・選挙

 親睦行事はあらゆる同郷者集団で重視されますが、それ以外にも故郷への寄付などさまざまな活動があり、政治への関わりもそのひとつでした。
 一般に、政治家になるためには地盤=票田や知名度が必要です。出郷者が自らの名誉心などから移住先で政治家になろうとした場合、おそらくは地盤や知名度の確立という点で地元出身者よりも不利なはずです。ところが尼崎市では、同郷者集団を背景に尼崎市議会や兵庫県議会の議員になる出郷者が、少なからず見受けられました。同郷者のネットワークを使って、あるいはネットワークをみずから作り出して、政治家になる出郷者がいたのです。尼崎市に活動拠点を持つ県人会の多くは「尼崎○○県人会」を名乗ります。まさに選挙区としての尼崎市を意識し、市内に限定して会員募集したために「尼崎」を冠することになった県人会の例もありました。同郷者集団の設立年が、選挙年と重なるケースも珍しくありません。
 こうしたことの象徴的な事例が、昭和53年の尼崎市長選挙で見られました。落選した海江田鶴造〔かいえだつるぞう〕候補が鹿児島県出身者であり、尼崎鹿児島県人会がその支援に回ったことが、選挙戦をより激しいものとしたと言われています。真偽のほどは定かではありませんが、同県人会は「10万人とも15万人とも言われる」会員を有していたとされており、尼崎市内でも有数の勢力を誇る政治・社会集団でもあったのです。

〔参考文献〕
山口覚〔さとし〕「都市における県人会の設立と活動−尼崎高知県人会を中心に−」(『地理科学』54−1、平成11年1月)
同「都市人と郷友会−高度成長期における出郷者の都市生活−」(「郷土」研究会編『郷土−表象と実践−』嵯峨野書院、平成15年)

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