現代編第3節/石油危機から震災まで5コラム/公害反対運動と公害裁判−国道43号線道路公害訴訟と尼崎大気汚染公害訴訟−(辻川敦)
ふたつの公害裁判
尼崎や阪神地域における道路公害ならびに、道路と工場から排出される大気汚染の被害が受認しがたいとして、高度成長期以来公害反対運動を続けてきたふたつの流れがついに裁判へと踏み切ったのが、国道43号線道路公害訴訟と尼崎大気汚染公害訴訟でした。前者は武庫川町の阪神高速道路工事現場で座り込み闘争を始めた国道43号線対策尼崎連合会が、同西宮連合会をはじめ阪神地域の沿線住民とともに原告団(152人、うち尼崎市在住57人)を結成し、昭和51年(1976)8月に提訴したもの。後者は尼崎公害患者・家族の会が呼びかけて、第一次提訴483人という大規模原告団を結成し(第二次は15人)、昭和63年12月に提訴しました。
ふたつの裁判は、訴訟経緯、被告、争点と判決内容など、さまざまな点で類似する部分がありました。いずれも道路管理者である国と阪神高速道路公団が被告となっており、大気汚染公害訴訟の場合はさらに排出企業9社が加わります。そして原告が求めたのは、(1)騒音・大気汚染などの公害被害について被告の責任の認定、(2)被害差し止め(道路の場合は一定以上の被害をおよぼす道路供用の差し止め)、(3)損害賠償でした。
これらについて、43号線訴訟の場合は、平成4年(1992)2月の大阪高裁控訴審判決が(1)を認定、(2)は棄却しますが(3)は条件付きで認め、この判決が最高裁の控訴棄却により平成7年に確定します。もう一方の大気汚染訴訟は、平成11年に解決金支払い・今後の公害防止対策などを条件に被告企業と和解、国・公団については平成12年の神戸地裁判決が一定条件で(1)〜(3)を認め、控訴審における大阪高裁の勧告により平成12年12月8日に和解が成立します。和解にあたって原告団は、今後国と公団が排出ガス削減・大型車交通規制等の施策を検討し、実施に努めることなどを条件に、損害賠償・差し止め請求の両方を放棄します。
公害史上の大きな意義
これらの裁判は、尼崎大気汚染公害訴訟とほぼ同じ被告を相手とする西淀川公害訴訟とともに、阪神地域における代表的な大規模公害訴訟でした。そして、これらの訴訟において原告の主張を大幅に認めた判決が出され、あるいは和解が実現したことは、環境庁による窒素〔ちっそ〕酸化物規制の緩和(昭和53年)や公害病患者新規認定廃止(昭和63年3月)に象徴される石油危機以降の環境行政の後退のなか、全国的にも大きな意味を持ちました。とりわけ、尼崎大気汚染公害訴訟において、日本の大気汚染公害史上はじめて差し止め請求が認められたことや、被告企業の支払う和解金の一部を地域再生にあてることが和解条項に盛り込まれたことは注目に値します。
これらの裁判と平行して、国道43号においては車線削減、植樹帯・遮音壁〔しゃおんへき〕設置などが実施されますが、自動車排出ガス削減・大型車規制等の抜本的措置はかならずしも講じられず、43号線訴訟の二次提訴(平成8年)や大気汚染訴訟原告団による公害等調整委員会への斡旋〔あっせん〕申請(平成14年、委員会は原告団の主張を認める斡旋案を提示)といった事態が続きます。
こういった現状に鑑〔かんが〕みれば、裁判で問われた深刻な公害問題はいまだ解決していないと言えるでしょう。
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阪神高速建設反対の座り込み闘争
(本編第2節6より続く)
国道43号上に阪神高速道路が建設されるのを阻止しようと、武庫川町の工事現場で昭和47年8月3日から始まった座り込み闘争。ほこりと排気ガスまみれの現場におかれたマイクロバスには、地元尼崎の支援者や近隣の公害反対運動などからカンパや炊き出しなどの支援が寄せられ、マスコミも注目します。その様子を、連合会代表である森島千代子さんの伝記『コスモスの甦る日まで』(麻生節子著、夏の書房、昭和56年)は、次のように綴〔つづ〕っています。
暑い夏の日、氷水を黙って差し入れてくれた人。寒い日に『なにか暖かい物を召し上がってください』とカンパを置き名前も告げずに立ち去っていった人。バスの中に笑顔を向けて通り過ぎて行った人。それらがどんなに大きな励ましになったことか。そういうものが合わさって座り込みを続けることができた。
闘いのシンボル的存在だったのが、連合会代表の森島千代子さんでした。明治40年(1907)生まれで座り込み開始当時65歳。午前中失対労働者として働き、午後は座り込むという生活を続けます。わけへだてない人柄と、何ものにも臆することなく生活者の言葉で訴える「森島節」の迫力が、多くの人をひきつけ運動を強くたくましいものとしていました。
下の写真に写っているもうひとりは前山美代子さん。連合会事務局長の光伸浩〔ひかりのぶひろ〕さんとともに、森島さんがもっとも信頼し頼りにしたひとりでした。誠実な人柄で誰よりも頻繁〔ひんぱん〕に座り込み、どこへ行くにも、「排気ガスが出るでしょ」と言って絶対に車には乗らなかったと言います。
7年間にわたる座り込みは、結局市の斡旋を受け入れ昭和54年8月3日に幕を閉じます。大学ノートの「座り込み日誌」は7冊目になっていました。その最後の日の頁には、前山さんの文字で次のように書かれています。
8月3日(金)2556日目 座込者 上田、前山、森島、南條、原田、畠山、青木、宮崎、中村 今日も記者、テレビ攻め。どう思われますかと言われても、まだ座っている間は明日はないという実感がわかない。落ちつけば、しばらく仕事を取られたみたいに調子がくるうだろう。早く会を持って、みんなとお話をしたい
公害病患者の苦しみ
以下に紹介するのは、尼崎公害患者・家族の会副会長、大気汚染公害訴訟原告団副団長を務めたのち、平成13年に公害病のため亡くなった岡田竹蔵さんの証言です。大正2年(1913)、東本町〔ほんまち〕に生まれた岡田さんは樽製造業に従事し、昭和30年代以降は東大阪の製釘会社に勤めました(卜部建〔うらべけん〕・横山澄男両氏による平成11年の聞き取り記録より抜粋編集)。
(東本町の)私の家の南西には、関西電力をはじめ住
友金属、日本硝子、旭硝子などの大きな工場があって、昭和30年代頃にはその煙で空気は汚れ空さえ満足に見えない状態だった。午前中は東の風が多く煙が来ないけど、午後からは「マゼ」といって西南の方からの風で、洗濯物は真っ黒になった。北100mのところに43号線と阪神高速道路が走っており、北風の時には粉塵〔じん〕が飛んでくる。(昭和49年に)会社をやめる前からぼちぼちぜん息が出ていた。当時は公害病の認定制度のことも全く知らず、まして自分のぜん息が「公害病」という意識はなかった(その後公害病に認定)。発作が起きると喉がヒューヒューと鳴り、息ができなくなる。懸命に息をしようとするがわずかの呼吸しかできない。本当に死ぬ思いだった。夜は(発作が起きやすいので)上を向いて寝ることができず、いったん発作が起きると体を起こして前屈みになって背中を丸くし、腹式呼吸をして治るのを待つ。(やがて)半日ほど耐えないと治まらないようになった。少し動くと息が荒くなったり、発作や咳き込みの症状が出るようになり、外出もできなくなってきた。この東本町でも10年ほど前、公害病で苦しんでカレンダーの裏に「会長様、苦しい苦しい」と血染めの遺書を残して死んだ女の人もいる。