現代編第1節/戦後復興の時代2/戦後初期の尼崎市政(佐賀朝)




敗戦直後の市政

 昭和20年(1945)8月15日の敗戦以後、尼崎市の戦時行政体制に目に見える形での変更が行なわれたのは、ようやく9月12日のことでした。この日、それまで防空や兵事関係事務を担当していた防衛部が廃止され、新たに厚生部が設置されます。戦後最初の尼崎市会が開かれたのは、さらに遅く9月26日のことでした。この議会で八木林作〔りんさく〕市長が所信表明を行ない、戦災復興と連年の水害への対処を訴えます。また樫葉一議員からは、戦後経営のための委員会組織設置の提案があり、これを受けて市議会議員と市内の有識者あわせて25名からなる戦後経営事業調査委員会が設けられました。翌昭和21年にかけて数回にわたり開催されたこの委員会では、水害対策や園田村合併問題などが議論されました。
 昭和21年3月の市議会では八木市長が、社会経済秩序と生活の安定、食糧増産と戦災地復興、戦災者・遺族・傷痍〔しょうい〕軍人・帰還軍人への援護、行政合理化などの基本方針を表明。また、あらためて水害からの復旧とその防止対策が強調されたほか、戦時色を排した「自由闊達〔かったつ〕ナル教育」の再興も目標に掲げられました。
 他方で、総力戦体制下の末端組織であった町内会は、配給をはじめ地域行政の末端として機能している実態をふまえ、むしろ指導強化が図られます。ただし、昭和21年2月には町内会長がそれまでの任命制から公選となるなど、町内会もまた民主化の波にさらされます。結局昭和22年5月、GHQの指示により政令15号が出され、軍国主義の基盤と目された町内会・部落会はいったん解散させられることになりました。

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昭和天皇の尼崎行幸

 昭和21年1月1日、人間宣言によりみずからの神格性を否定した昭和天皇は、同年2月から全国を巡幸〔じゅんこう〕しました。
 昭和22年6月12日には尼崎市の三菱化成工業尼崎工場・扶桑〔ふそう〕金属工業鋼管製造所・塩野義〔しおのぎ〕製薬杭瀬工場・郡是〔ぐんぜ〕製糸塚口工場を訪れ、扶桑金属において六島市長から市勢の奏上〔そうじょう〕を受けたほか、各工場の様子についてたずね、従業員にも親しく声をかけました。

 「三工場の前で社長(塩野義三郎)が戦災の状況を申し上げれば『人は』と陛下は先づ御尋ねになつた。『十人ばかり』……申し上げれば『それは気の毒だつたね』と陛下の御顔は曇り従業員の安否に何よりも大御心をくだかれる陛下であつた」
 「女子コーラス部が奉唱する『陛下をお迎えする歌』の中を陛下は私達の列にお近づきになつた。胸がしめつけられるやうに緊張し思はず目頭が熱くなつた。その時陛下は私の前につと御歩をお止めになり、御慈愛溢るヽ御激励の言葉を賜りました。私はハツとまるで電気に打たれたやうに思はず知らず頭を下げてしまひました……私はもう胸が一杯になり、唯ハイと答えるのがせい一杯でした」
(いずれも塩野義製薬社内報より)


塩野義製薬杭瀬工場を視察する昭和天皇、写真は豊島源与氏提供

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戦災復興計画と区画整理事業

 昭和21年8月、国の戦災復興院は、敗戦と戦災をふまえた尼崎都市計画区域の都市計画変更を認可しました。変更前の昭和17年の計画と比べると、工業地域や商業地域の割合が縮小され、住宅地域が大幅に拡張されています。
 この変更を受けて昭和21年度、市は復興計画予算を編成。戦災復興土地区画整理の対象となった8地区(工区)は、いずれも市域南東部の国道2号および阪神電鉄沿線の区域でした。この事業は国策的な位置付けとなるため、戦前に多かった民間主体の組合施行や、戦後主流を占める市主体の公共団体施行とは異なり、国の命令にもとづき市長が施行する行政庁施行の形をとっていました。施行面積234.4ヘクタール、総事業費は2億7,501万円に及びました。急激なインフレがすすむなか、予算不足のため事業はなかなか進ちょくせず、結局昭和33年の完成までに13年を要しました。また事業の途中で、反対の強かった尾浜・潮江地区が除外されるという計画変更もありました。
 とは言え、この戦災復興土地区画整理事業によって阪神杭瀬駅から尼崎駅にかけての市街地整備がまがりなりにも完成したことで、商店街の復興など、戦後の市民生活の基礎が築かれていくことになりました。

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戦災復興土地区画整理事業

 戦災被害の大きかった市域南東部の8地区を対象に、工業都市にふさわしい復興をはかるべく街区を整理し、道路・公園・河川・上下水道等の整備を行ないました。
 建物疎開〔そかい〕により撤去された本町〔ほんまち〕通り跡に、浜手幹線=国道43号を建設することも大きな目的のひとつでした。



完成した阪神尼崎駅南側の駅前広場
(『尼崎戦災復興誌』−昭和35年−より)


浜手幹線工事中の西本町、3丁目より西を望む(『尼崎戦災復興誌』−昭和35年−より)

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園田村の合併

 尼崎市は、昭和17年に大庄〔おおしょう〕・立花・武庫の3村を合併した際、すでに園田村にも合併を申し入れていました。園田村は他の合併3村と同様、大正13年(1924)に決定された尼崎都市計画区域に含まれており、広域的な都市計画のうえでも一体的な行政が望まれましたが、昭和17年段階においては尼崎市の合併申し入れは受け入れられませんでした。その理由のひとつは、当時の中村龍太郎村長が、尼崎市に加えて伊丹市や神津〔かみつ〕村・稲野村(現伊丹市)、川西町(現川西市)、長尾村(現宝塚市)などを含む大合併を念頭に置いていたことにあったと言われています。
 敗戦後園田村では、戦災で焼失した園田第一国民学校や昭和20年の水害で流出した藻〔も〕川・猪名川の三橋梁〔きょうりょう〕の復旧、阪急電鉄からの上水道買い取り、道路拡張・バス路線開設など多数の懸案を抱えており、いずれも財政難により頓挫〔とんざ〕していました。そうした状況を見た尼崎市は昭和21年当初、合併を非公式に打診し、4月27日には正式な申し入れを行ないます。
 ところがその直後に、園田村に対して伊丹市からも同様の申し入れがあり、競合することになりました。園田村では、村会議員と町内会・部落会会長の計14人からなる財政調査委員を選任し、慎重に検討をすすめることになりました。その後、尼崎・伊丹両市からの働きかけのなか村会および村内世論が分裂。9月には検討がいったん打ち切られますが、10月29日の村会に田中利右衛門議員が尼崎市との合併を推進する立場から動議を提出し、問題が再燃します。10月31日には衣笠滋蔵村長が辞任するといった一幕もありましたが、尼崎市との合併協議は進展し、11月21日には尼崎市・園田村の合併協定覚書が調印されます。ここに至るまでには、尼崎市側からの猛烈な裏面工作があったと言われています。
 協定後も村内では反対意見が根強く、戸ノ内・猪名寺・森など12大字が反対したほか、村内の工場や労働組合のなかにも伊丹市との合併を推す動きがありました。反対の背景には、古来有馬街道によって伊丹郷町〔ごうちょう〕と通じており、歴史的に見て伊丹との結びつきが強いという事情や、村会で反対派議員が表明したごとく、多大な戦災被害があり復興のおぼつかない尼崎市との合併を懸念する声もありました。さらに尼崎市会内には、園田村内の三菱電機伊丹製作所など大口納税企業が同時に公〔おおやけ〕への大口寄付者であることから、このドル箱を失うことを恐れて伊丹税務署・警察署など伊丹政官界が反対しているとの見方もありました。
 園田村内の対立と混乱は昭和22年に入っても続きますが、県参事会が尼崎市と園田村の合併を支持し、3月1日をもって正式に合併となりました。この結果、尼崎市は面積49kuとなり、ほぼ現在の市域となりました。ただしその後も旧園田村内の対立はやまず、解村式が行なわれたのは、合併から1年近くも経過した昭和23年2月13日のことでした。
 なお、尼崎市は昭和26年には西宮市との間で鳴尾村の合併を争うことになり、村民投票の結果、4月に同村は西宮市と合併することになりました。

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新市政の発足

 園田村合併を前にした昭和21年11月20日、八木林作市長が退きます。GHQの指令により軍国主義者や戦争犯罪人らを権力から排除する公職追放の範囲が徐々に拡大され、同月8日に地方公職への適用拡大を政府が発表したことによるものでした。このとき、八木市長以外に市会議員5人、吏員1人、連合町会長のほぼ全員および、町内会長の7割までもが追放の対象となりました。
 明けて昭和22年4月、翌5月の新憲法・地方自治法施行をひかえて、国会・地方議会・自治体首長選挙が行なわれます。「4月選挙」と呼ばれ、以後4年ごとに行なわれる統一地方選挙の第1回目にあたります。
 まず4月5日、全国一斉に初の公選自治体首長選挙を実施。尼崎市長には社会党の高岩進〔すすむ〕を破って六島誠之助〔せいのすけ〕が当選しました。市議会議長であった市田政次〔まさじ〕らによる、保守系候補一本化が功を奏します。尼崎の保守政界には、民主党系の六島や市田、後藤悦治〔えつじ〕らと、自由党系の吉田吉太郎〔よしたろう〕らの対立がありましたが、市長選を機に前者がイニシアティブをとった形でした。
 4月30日には地方議会の一斉選挙が行なわれます。尼崎市議会議員選挙では、40人の定員に対して141人が立候補し、当選者のうち前職はわずか3人と、議会の顔ぶれは一新されました。会派別では民主党系の民主会22人、社会党系の新政会12人、保守系無所属6人となり、議長・副議長に加えて4委員会の委員長ポストのうち三つまでを民主会が独占しました。

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深刻な市財政

 こうして戦後復興に乗り出した六島新市政でしたが、インフレと財政赤字により、当初からその舵取りは困難をきわめました。
 新憲法と地方自治法は本格的な地方自治の枠組みを定めてはいましたが、それに見あった財政措置が十分ではなく、むしろ国が補助金や交付金を通じて地方行政に強い統制を加える仕組みになっていました。昭和22年度の一般会計歳入決算を見ると、歳入の57%は国・県補助金や市債などの依存財源であり、これら補助金交付や市債許可の遅延が歳入の不調を招きます。しかもインフレが国民生活を圧迫するなか、市税負担の増加にともない納付率は低下の一途をたどります。
 この状況下、市税の負担を一般市民と事業者のいずれに求めるかをめぐって、六島市長と市財界の対立が生まれます。昭和22年10月の税制改革以降、尼崎市における個人と法人の市民税負担はおよそ3対7の比率となっており、近隣市と比較して法人市民税負担が過重〔かじゅう〕でした。このため尼崎工業経営者協会が負担率の低減を求め、昭和24年11月には3.5対6.5への修正が市議会で可決されますが、それ以上の譲歩を求める財界と市民生活の苦境を理由に拒否する六島市長との間には深刻な対立が生じました。
同時に、激しいインフレのため、たとえば昭和23年度には7回の予算追加更正が行なわれるなど、予算編成自体が困難な状況でした。

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戦後教育改革の実施

 学校教育の分野では、勤労動員や疎開〔そかい〕により事実上停止していた学校の再開が、当面の急務でした。昭和20年9月には市内中等学校生徒が勤労動員先から学校に戻りますが、集団疎開児童の引き揚げは大幅に遅れ、11月になってようやく子供たちは尼崎に戻ってくることができました。
 一方GHQは、民主化政策の一貫として、教育現場からの軍国主義の一掃、自由主義教育の徹底を政府に指示します。昭和21年3月にはアメリカから教育使節団が来日調査のうえ報告書を提出。初等・中等・高等教育機関の整備改善について、具体的に勧告します。
 それを受けて、昭和22年3月には教育基本法と学校教育法が公布され、同年4月、6・3・3・4制や公選教育委員・教科書採択制度などからなる新教育制度が実現します。尼崎市内においては、国民学校21校のうち18校が小学校という名称に復し3校が廃校、新制中学校7校が発足します。翌23年度には新制高等学校が発足し、市内では県立3校、市立6校、私立4校が開校、ほどなく男女共学化も実施されました。
 こうして、日本国憲法と相まって、基本的人権尊重の原則に立ち、「真理と平和を希求する人間の育成」「個性ゆたかな文化の創造」(いずれも教育基本法前文)をめざす戦後教育がスタートします。

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整わぬ中学校校舎

 しかしながら中学校7校のうち独立校舎なのは小田中学校だけで、他は小学校などの間借りであり、学級定員も50人を上回っていました。
 このような学校現場の状況を改善するためには、早急に学校施設の不足分を建設する必要がありましたが、その財政的な裏付けはまったく不十分でした。市は昭和22年度中に中学校4校の校舎建設を計画し、その財源を国庫補助と起債に求めますが、認可された額は市予算の4割にも及びませんでした。そればかりか日常的な教育経費にさえこと欠き、当初は育友会がその大半を負担するような状態でした。
 国に頼れないと判断した市は昭和23年1月、新制中学校建設基本要項を作成し、建設費不足を寄付金と市民からの借り入れによってまかなう方針を表明します。市民からの借り入れとは、具体的には小・中学校の児童・生徒が毎月積み立てる教育貯金と、育友会を母体に結成された新制中学校建設助成会が市民を1軒1軒を訪れ徴収する借入金を意味していました。六島市長みずから市内をまわって募金を呼びかけますが、インフレのなか市民生活そのものが苦しい時期だけに募金集めは難航。昭和24年末の達成状況は目標額の45%程度という状況でしたが、引き続き財源確保の努力が続けられた結果、昭和25年度までに全中学校の独立校舎をほぼ完成させることができました。

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今日から共学

 昭和23年7月、新制高等学校の男女共学化のため、県立尼崎高校(旧尼崎中学)の男子生徒の一部と、市立尼崎高校(旧尼崎高等女学校)の女子生徒の一部が、それぞれ相手校に移ることになりました
 そのときのエピソードが『わたしのノスタルジック尼崎』(井上眞理子著・発行、平成16年)に紹介されています。

「先頭が近づいてきたので、みんなで拍手で迎えました。そしたら、どんどん走り出して…」と原田光子さん(当時二年)。「照れやったんやと思います。とにかく全員が勝手をしらない女子校の玄関めがけて走りこみました」と長町守康さん(当時一年)。
(中略)顔を真っ赤にして、半分ふてくされながら、拍手の中を駆け抜けた男子生徒たちも、いつしか打ち解け合ったということです。

(イラストも同書より、井上眞理子氏描く)

市内の新制中学校・高等学校(昭和22〜25年、私立を除く)

『尼崎市戦後教育史』ほかにより作成、( )内は発足または変更年月

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