近世編第2節/成長する西摂地域/この節を理解するために(岩城卓二)





歌川(五雲亭)貞秀画「西国名所之内 尼か崎大物〔だいもつ〕の湊」

市場経済の発展

 近世の農民たちは生産力向上に並々ならぬ意欲を見せました。少ない労働力でより大きな収益を上げるために農具の改良を重ね、米だけでなく、特産品の生産にも精を出しました。とくに大坂周辺の農民は、庶民衣料の原料として需要が高まった綿や、灯油の原料となる菜種の生産に積極的に乗り出し、生産性を高めるために干鰯〔ほしか〕や油粕〔あぶらかす〕など金銭で購入した肥料を田畑に投下しました。
 農民をこのような方向へと駆り立てたのは、市場の拡大でした。流通網の整備により米や特産品は江戸・大坂といった大都市に運ばれ、販売されるようになりました。これを支えたのが東廻〔まわ〕り航路・西廻り航路に代表される舟運です。また五街道をはじめ陸上交通も整備され、日本全国がひとつにつながりました。
 江戸は幕府の所在地として繁栄し、人口百万人を越える世界的大都市に成長していきました。大坂の陣で焼失した大坂も、幕府による大坂城再建と城下町の大拡張によって、「天下の台所」と呼ばれるまでに復興します。大坂は海難事故の危険性が少ない瀬戸内海に面するという地の利もあって、高い生産力をほこる中国・四国・九州などから多くの米や特産品が運ばれてきました。西廻り航路の整備によって、北前〔きたまえ〕船も山陰や東北の日本海側、さらには蝦夷地〔えぞち〕からさまざまな特産品を大坂にもたらしました。大坂はこれらの特産品を高い技術力で加工し、江戸や全国に出荷しました。
 本書の古代編・中世編に叙述されているように、大阪湾に面し、西日本と京都を結ぶ神崎川と猪名川の合流点から河口に位置する現尼崎市域は、ときどきの権力から政治的・経済的要地として重視され、めざましい経済的発展を遂〔と〕げてきました。
 近世の市域も中央市場である巨大都市大坂に近接するという地理的条件を活かして大いに発展することになります。農村では綿・菜種生産だけでなく、伊丹・池田、18世紀半ばからは灘で活発となる酒造業の需要を賄〔まかな〕うために米も商品として生産されました。
 こうした商品生産を展開した西摂〔せいせつ〕(摂津国西部)農村では、他地域のように所持地を小作に出して小作料を得る経営ではなく、みずから労働力を雇用して利潤を追求する富農〔ふのう〕経営という形態が広く展開したことがよく知られています。
 また、中国・四国・九州・東北から大坂に向けて運ばれる商品を途中で買い取り、他地域に出荷するようなことも行ないました。その代表が菜種で、六甲山脈から流れ出る河川沿いに設けた水車を利用して油に加工し、江戸や東海地方の需要に応〔こた〕えました。

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経済的発展にともなう矛盾

 西摂に限らずこうした経済的発展は全国的規模で展開しましたが、その一方で、さまざまな矛盾も表出し始めました。17世紀後半には幕府財政は窮迫〔きゅうはく〕し、5代将軍綱吉時代には勘定機構改革、幕府領代官の刷新、貨幣改鋳等がすすめられましたが、財政再建はかないませんでした。
 18世紀初頭、8代将軍吉宗の時代には、耕地の拡大がもたらした米の増産によって米価低落が顕著になりました。一方で諸物価は高騰〔こうとう〕したため、年貢米を販売して貨幣を得る諸藩財政は深刻な影響を受けました。また、金銀貸借をめぐる訴訟の激増、都市への下層民の流入などさまざまな社会問題への対処が幕府に求められるようになりました。
 吉宗の享保改革は新田開発を奨励し、年貢徴収方法を改変することで年貢増収をはかるとともに、倹約令によって出費抑制が目論〔もくろ〕まれました。また、幕府・諸藩では足高〔たしだか〕制によって人材登用がはかられ、格式が低くても能力があれば重職に就きやすくなりました。
 この人材登用の流れのなかで出世したのが、田沼意次〔おきつぐ〕です。吉宗の世子家重の小姓から頭角を現し、宝暦元年(1751)以降、幕政を主導するようになり、大名に取り立てられました。意次は年貢増徴だけでは限界があると考え、財政基盤強化のために商業政策に力を入れました。冥加〔みょうが〕金の上納と引き替えに株仲間による流通の独占を公認し、東国の金遣〔きんづか〕い、西国の銀遣いという二元的な通貨体制の統一を目指しました。
 田沼政権下、大坂では株仲間の公認がすすみ、大坂市場を脅〔おびや〕かすようになった周辺農村での経済活動の抑制がはかられました。とくに西摂地域はその元凶とされ、明和6年(1769)、尼崎藩領の海岸線の村々は上知(あげち・じょうち)され、幕府領とされました。尼崎藩領のままでは経済政策の遂行に限界があると、幕府が判断したからです。西摂地域は田沼政権が全国規模で展開した経済政策によって、大きな影響を受けた地域と言えます。
 しかし享保の改革や田沼政権による経済政策、続く松平定信の寛政の改革でも抜本的な解決は実現せず、社会の矛盾は拡大し、各地で大規模な百姓一揆や打ちこわしが起こるようになりました。大坂周辺では大坂株仲間による肥料・木綿〔もめん〕・油流通独占に異を唱え、自由な売買を要求する国訴(こくそ・くにそ)が闘われました。国訴は領主の違いを越えて村々が結集し、代表が大坂町奉行所に合法的な訴願を行なうという点でも、また農民が利潤追求のために立ち上がったという点でも、画期的な民衆運動でした。


上=『文通大全』(地域研究史料館蔵、堀江家旧蔵本)、下=『金銭相場早割便覧』(地域研究史料館蔵、岸岡茂氏文書)


『続浪華郷友録』(地域研究史料館蔵、堀江家旧蔵本) 大坂の文化人一覧
大坂は著名な医家、 芸術家、職人、文人等が住む文化の拠点でした。


〔参考文献〕
竹内誠『大系日本の歴史』10(小学館、平成元年)
吉田伸之『日本の歴史』17(講談社、平成14年)
藤田覚編『幕藩制改革の展開』(山川出版社、平成13年)
同『近世の三大改革』(山川出版社、平成14年)


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