近世編第3節/人々の暮らしと文化/この節を理解するために(岩城卓二)
イエ社会としての近世
近世は武士であれば家中〔かちゅう〕、百姓・町人は村・町〔ちょう〕というように、集団に組織された社会であり、その集団は家を単位に成り立っていました。家族の共同生活を支え、家屋敷・土地などの家産〔かさん〕を所持するこの家を基礎的単位とするという点で、近世はイエ社会と言えます。
近世においては、武士の家、町人の家と、百姓の家、それぞれに多様であり、身分差・階層差・地域差がありました。本節では尼崎藩主松平家、尼崎藩家臣である片岡家、武庫郡東富松〔とまつ〕村の有力百姓家などを例に、家に拘束され生きる個人、家継承のための努力、近世のなかで何度も訪れる家の危機等々、家という側面から人々の暮らしに迫ってみたいと思います。
家の成立と継承
さて、家は近世以前に公家や武家に成立し、さまざまな変容を遂〔と〕げながら近世に至りますが、近世の特徴は、庶民にも家が成立したことです。その契機となったのが太閤検地でした。太閤検地によって、多くの百姓身分の小農民経営が生まれました。有力農民の従属から脱した小農民経営は、夫婦とその子供からなる単婚小家族が中心で、耕地・家屋敷などの家産を所持する家を形成するようになりました。東北地方には異世代同居の大家族が多く見られましたが、西摂(摂津国西部)ではこの単婚小家族が基本でした。
しかし、こうした小農民の家産はなかなかわかりません。そこで本節では「分散〔ぶんさん〕」から、小農民の家産を垣間見〔かいまみ〕ることにしました。分散とは、債務者の家産を競売にかけ、売上金を債権者に配当する債務弁済方法です。競売にかけられた家産という限定はありますが、小農民の家も農具をはじめ多くの家産を所持していたことを、知ることができます。
家の継承には養子が不可欠でした。近世には相続すべき家督・家産もない下層においても、ときには養子を迎えてでも家が継承されました。本節で取り上げる藩主、武士、有力百姓、そして中下層の百姓と、あらゆる身分・階層で養子を迎えることで家が継承されていたことがわかります。
また、冠婚葬祭は家にとって重要な儀式でした。本節では、有力百姓の婚姻を中心に叙述しています。親族や村など家を取り巻くさまざまな社会集団が、婚姻に関わっていたことを知ることができます。また、彼らの豪華な婚礼道具からは、小農民の家産との違いもわかります。
近世の女性たち
本節では尼崎藩主松平忠告〔ただつぐ〕の側室澤田すめをはじめ、何人かの女性を取りあげています。女性の地位は身分、階層、時代によって異なりますが、近世は古代・中世よりも女性の生き様が見える時代です。男性と比べると制約を受けてはいましたが、女性のことがさまざまな史料から垣間見えるということは、それだけ近世イエ社会における女性の役割が大きかったからだと言えるかも知れません。
暮らしとライフサイクルの変化
本節では十分に取りあげることができていませんが、人々の暮らしは少しずつ豊かなものになり、節句や村祭りなどの年中行事や、俳諧〔はいかい〕・旅行・芝居見物などの娯楽を楽しむようになりました。しかしこうした行為はときに行き過ぎた華美なものとなったため、近世の領主はたびたび倹約令を出しています。また村や郡単位でも倹約を申し合わせた定〔さだめ〕を作成しています。人々の暮らしは家だけでなく、領主、村、村を越えた地域からも制約を受けたのです。
こうした娯楽を楽しむ一方で、人々は知の習得にも努めました。子供たちは一定年齢になると、寺子屋に通い、読み、書き、計算を習得しました。それは人々が生きていくうえで、こうした能力が重要になったからです。しかし多くの子供たちは寺子屋を終えると、奉公人として働き、家計を助けねばなりませんでした。15歳前後から10年程度、奉公人として働くというのが多くの庶民のライフサイクルでした。一方、同じ百姓身分でも富裕な家に生まれた子供は、寺子屋に続いて私塾に通うこともありました。
平和な時代が続き、豊かになったとは言うものの、等しく人生のチャンスがあったわけではなく、身分・階層・性別によって、ライフサイクルは大きく異なりました。
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