近世編第4節/幕末動乱期の尼崎/この節を理解するために(岩城卓二)
近世日本は17世紀半ば以降、朝鮮・琉球・中国・オランダ以外の国との交渉を閉ざす鎖国政策によって、平和な社会を維持していました。しかしこの間、世界では大きな変化が起こっていました。
欧米の植民地進出
ヨーロッパでは17世紀後半の市民革命によって、議会の重視と国民の自由・権利を守ることを国王に約束させ、さらに産業革命によって工業中心の社会へと急速な変化を遂〔と〕げたイギリスが、台頭していました。18世紀末には、このイギリスからの独立を求める戦争がアメリカで起こり、アメリカ合衆国が建国されました。フランスでも国王・貴族中心の政治に対する市民・農民の不満が大きくなり、革命が起こりました。この市民革命と産業革命の波はヨーロッパ中に広がり、欧米列強は国外市場や植民地の獲得を目指して、世界中に進出するようになっていきます。
その矛先〔ほこさき〕は、アジアにも向けられました。イギリスはいち早くインド・清国に進出し、軍事力と工業力によって貿易を牛耳〔ぎゅうじ〕ろうとします。さらにロシアもシベリアへ、アメリカも太平洋へと進出していきました。
鎖国から開国へ
やがて列強の目は、日本に向けられました。最初に日本に通商を求めたのはロシアで、松平定信が寛政改革に取り組んでいた、寛政4年(1792)のことです。ロシア船は、その後もたびたび蝦夷地〔えぞち〕に姿を現すようになりました。さらにイギリス船・アメリカ船も日本近海に出没し、薪水〔しんすい〕・食料を要求するようになったため、文政8年(1825)、幕府は異国船打払令〔いこくせんうちはらいれい〕を発令し、外国船の撃退を命じました。
ところが、アヘン戦争で清国がイギリスに敗れたとの報に接した幕閣は驚愕〔きょうがく〕し、方針転換を余儀なくされました。欧米列強の軍事的優位を知ったからです。そこで幕府は天保13年(1842)、外国船に薪水・食料を与える薪水給与令を発令して対外戦争の回避に努める一方、譜代大名を中心に江戸湾警備を強化しました。天保期以降維新までに、幕府の命により全国の海岸線に築かれた砲台は千か所に及んだと言います。
しかし、差し迫る対外的危機を乗り切るための方策を十分に確立できないまま時は過ぎ、嘉永6年(1853)、アメリカ艦隊ペリーが浦賀に来航するにいたりました。ペリーは強圧的な態度で開国を迫り、翌嘉永7年日米和親条約が締結されました。ここに200年以上続いた鎖国政策は放棄されたのです。そして安政5年(1858)にはアメリカとの日米修好通商条約の締結を皮切りに、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約が締結されました。
ペリー来航は幕府の軍事的危機感を一気に高めることとなり、近世初頭以来禁止されていた大型船の建造が認められました。また江戸湾海防だけでなく、京都守衛とそれに付随する大阪湾の海防、長崎海防など全国土の海防には外様〔とざま〕大名の軍事動員も不可欠となり、参勤交代の緩和が検討されるようになりました。
幕藩体制の動揺
開国という難問に直面した幕府は、政治の世界から疎外してきた朝廷や外様大名にも重要案件を諮問〔しもん〕するようになりました。幕政は混迷を究めるようになり、大老井伊直弼〔いいなおすけ〕が開国に反対する朝廷・大名を弾圧した安政の大獄〔たいごく〕(1858年)、これに憤激した志士たちの手によって井伊直弼が暗殺された桜田門外の変(1860年)、朝廷と幕府との合体によって政局の安定化を図ろうとした老中安藤信正が襲われた坂下門外の変(1862年)、そして外様大名薩摩藩主島津久光が1,000人余りの兵を率いて上京し、勅命を背景にさらに江戸に乗り込み、公武合体〔こうぶがったい〕論の立場から幕政改革を要求する(1862年)というような、近世初頭には考えられなかったできごとが相次ぎました。幕藩体制の動揺は誰の目にもあきらかとなり、政局の行方はさらに混沌〔こんとん〕としてきました。
京都では、諸勢力が激しい主導権争いを繰り広げました。尊王攘夷〔そんのうじょうい〕を唱える長州藩グループが三条実美〔さねとみ〕ら朝廷内急進派と結びつき、これに屈した幕府が文久3年(1863)5月10日を攘夷決行の日と定め、長州藩尊王攘夷派が下関海峡を通過する外国船を砲撃した事件。これがさらに討幕にまで発展すると、今度は孝明天皇・朝廷上層部が薩摩・会津藩と結びつき、長州藩グループと朝廷内急進派を京都から追放した8月18日の政変(1863年)。京都守護職会津藩松平容保〔かたもり〕と京都所司代桑名藩松平定敬〔さだあき〕を率いる一橋慶喜〔よしのぶ〕による江戸の幕閣から自立した政権樹立(1864年初頭)。勢力回復のために長州藩が京都に攻め上るも、薩摩・会津藩に敗れた禁門〔きんもん〕の変(1864年)。
しかし薩摩藩と長州藩がともに対外戦争を経験することで、攘夷の時代は終わりを告げることになります。一つは文久3年の薩英戦争、いま一つは禁門の変直後、イギリス・フランス・オランダ・アメリカ四か国連合艦隊による長州藩下関砲台攻撃です。これにより両藩は攘夷が不可能なことを悟り、開国へと転回したのです。
禁門の変で朝敵となり第一次征長軍〔せいちょうぐん〕が組織されると、長州藩の保守派が恭順〔きょうじゅん〕の意を示しますが、すぐに高杉晋作・桂小五郎らが主導権を奪い、藩論は恭順から討幕へと転回します。さらに薩摩藩も第二次征長を契機に幕府から離れ、慶応2年(1866)正月、土佐藩出身の坂本龍馬らの仲介により、薩摩藩と長州藩は軍事同盟の密約を交わしました。
討幕派が長州藩の主導権を握ったことを知った幕府は第二次征長に踏み切り、慶応2年6月、戦いの火蓋〔ひぶた〕が切られましたが、幕府軍は各所で惨敗しました。さらに7月には将軍家茂〔いえもち〕が、12月には朝廷・幕府融合に積極的な孝明天皇が死去しました。
幕政の終えん
将軍となった慶喜は幕政再建に着手しますが、思うようにすすまないなか、薩摩・長州藩は武力討幕を決意するに至ります。そこで事態を打開すべく、慶喜は公武合体の立場をとる土佐藩の建白を受け、慶応3年10月14日、大政奉還〔たいせいほうかん〕を行ないました。しかし薩摩藩・長州藩は岩倉具視〔ともみ〕ら朝廷内革新派と結んで12月9日に政変を決行し、王政復古〔おうせいふっこ〕の大号令を発して、天皇親政の形をとる新政府を樹立します。
こうした幕末動乱期、京都・大坂は政治の中心舞台でした。にもかかわらず、これまで天保8年(1837)の大塩事件、幕末の物価高騰〔こうとう〕、大坂周辺で起こった打ちこわしなどを除けば、概説書や通史などに大坂周辺諸藩や社会の動向はほとんど叙述されていません。
本節でも、尼崎藩や民衆の動向の一端しか叙述できていませんが、尼崎藩や西摂〔せいせつ〕(摂津国西部)に生きた人々の視点から、幕末動乱期を照射したいと思います。
〔参考文献〕井上勝生『日本の歴史』18(講談社、平成14年)、宮地正人『国際政治下の近代日本』(山川出版社、昭和62年)
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