近世編第1節/幕藩体制の成立と尼崎5コラム/村役人の仕事(岩城卓二)
村単位に賦課された年貢
近世の村には、庄屋・年寄・百姓代と呼ばれる村役人が置かれ、村政に携わりましたが、その中心は庄屋でした。庄屋の家が村の役所であり、多くの文書が作られ保管されていました。
文政4年(1821)、旗本佐藤氏の所領である武庫郡守部〔もりべ〕村で庄屋が交代しました。そこで村政に必要な文書や道具類は、新庄屋が引き継ぐことになりました。
文書は22点引き継がれましたが、下図のように土地や年貢に関する文書が多く見られます。
年貢は、検地で確定した村高に対して5割、あるいは4割というように賦課されました。領主は「免状〔めんじょう〕」(免定)とよばれる文書により年貢の総高だけを村に通達し、後は村の責任で村民に割り付け、納入しなければなりませんでした。年貢が個人や家ではなく、村を単位に賦課〔ふか〕されたことが近世の特徴です。村は「免状」を受け取ると、村内に持っている土地の石高〔こくだか〕に応じて個人の納入高を決めました。たとえば5石所持している者は、10石所持している者の半分ということになります。
検地帳や名寄〔なよせ〕帳は、年貢を納入するときに、土地の状況や個人の所持高を調べるのに用いられました。検地帳は村の土地がすべて記載された村にとってもっとも重要な文書でした。また、名寄帳は、年貢納入者ごとに所持高が集計されているので、個人に年貢を割り付けるときに用いられました。村入用をはじめ個人の負担は所持高を基準に決められることが多かったため、名寄帳は検地帳とともに、村の基本台帳として大切に保管されていました。
年貢納入高が決まると、土地所持者は何回かに分けて納入しました。小作地を持つ者に割り付けられた年貢は、小作人が直接納入することもありました。いろいろな理由で年貢が免除されたり、年貢以外の負担で差し引きされる者もいました。庄屋は、こうした年貢勘定を免割帳に記載し、納入状況を管理しました。
納入された年貢は村の蔵に保管されましたが、守部村では、その鍵や納入時に用いた諸道具も庄屋が管理していたことがわかります。穀物を精選して籾殻〔もみがら〕・塵〔ちり〕などを除去する唐箕〔とうみ〕は、よく見かける昔の農具ですが、村で所持していたというのは興味深いことです。
割り付けから納入までの間、庄屋は忙しい毎日を送ることになります。不正や間違いがないよう要所要所で村民が監査しました。領主も、年貢勘定を公正に行なうことを厳命しています。
村請制
年貢勘定からわかるように、近世の領主は村を単位に百姓を支配しました。法令を徹底し、遵守させることは村の責任で、違反者が出ると、村役人・五人組も責任を問われました。
人別管理も村の責任でした。キリシタンは厳しい取り締まり対象であり、すべての人々の宗門が調査され、町・村ごとに帳簿に記載されました。これが宗門改〔あらため〕帳で、家ごとに家族構成・名前・年齢・宗門・檀那〔だんな〕寺などが記載されました。毎年作成され、出生・死亡・転入居など人の移動が村ごとに管理されていました。これも庄屋の仕事で、そのほか裁判や土地の売買にも、庄屋の証明が必要でした。
このように村が支配の単位となる仕組みを、村請制と言います。村請制〔むらうけせい〕は、近世領主支配の特徴で、これが維持されるうえで村役人、とくに庄屋の役割は重要でした。たくさんの文書を読み、会計を管理しなければならない庄屋になるには、読み書き・算盤〔そろばん〕にたけている必要がありました。
生産・生活単位としての村
村は支配の単位だけでなく、村民の生産・生活の単位でもありました。
農業にとって水は不可欠でしたが、この管理は村を単位に行なわれました。守部村は武庫川の用水樋〔ひ〕から取水していましたが、下流の大嶋樋から取水する村々と争論になったことがありました。取替証文はそれに関わる文書で、新庄屋に引き継がれています。
用水施設、氏神、道・橋の普請〔ふしん〕や掃除などは村民が共同で行ないました。村民はこうした労働に出る義務があり、庄屋は日役帳を作成して、誰が、いつ、どの労働に出たかを記載し、村民が平等に負担するよう管理しました。
新庄屋には村民の生産・生活を守るために必要な道具類も多く引き継がれています。揚水〔ようすい〕器具である龍骨車〔りゅうこつしゃ〕、普請に用いる杭・莚〔むしろ〕等々、村が多様な共有道具を持っていたことがわかります。とくに綿打道具を村が所持していることは注目されます。収穫した綿が綿布になるにはいくつかの工程をふみますが、とくに綿打弓で綿を打ってやわらかくする綿打ちはむずかしい作業でした。この道具を村で所持しているということは、守部村では共同作業していたのでしょうか。
引き継がれている道具類からは、村が生産・生活の単位であったことがよくわかります。こうした活動時、庄屋は中心的な役割を果たさなければなりませんでした。また他村と争論になったときなどは、村の代表として交渉し、裁判を闘わねばなりませんでした。
庄屋の家
ふつう庄屋には、村のなかでも有数の資産家の当主が就きました。わずかな庄屋給はありましたが、文書・道具を管理し、村政に携わるには家の経営が安定していなければ、とうてい務まらなかったからです。また諸費用は年末に決算されることが多いため、それまでのあいだ庄屋が立て替えなければなりませんでした。庄屋には一定の資産も求められたのです。
こうした庄屋は、ふつう世襲されましたが、庄屋の務め方に疑義や不満を持った村民が交代を求めることもありました。村の代表としての役割を果たさなかったとき、あるいは村の会計である村入用や年貢勘定に不正があったとき。理由はさまざまでしたが、惣百姓から糾弾され、罷免〔ひめん〕される庄屋も少なくありませんでした。こうした争いを村方騒動〔むらかたそうどう〕と言い、とくに19世紀になると多くなりました。
訴えられた庄屋
享保10年(1725)、武庫郡西大島村(大庄〔おおしょう〕地区)の庄屋九兵衛が又兵衛等30名の村民から尼崎藩に訴えられました(史料は『尼崎市史』第6巻、579頁)。
又兵衛たちの訴状によると、「九兵衛は長年、村入用や年貢勘定を村人に公開しなかったが、昨年調査したところ不正が発覚し、詫〔わ〕びを入れた。その後、庄屋が交代したため『村中立合勘定』したところ、『取込』が露顕したため返済を求めたが、いまだに『久々御役儀相勤罷有候時分之権威』を振りかざし、返済に応じない。そのうえ他にも不正が発覚したので、このうえは九兵衛を召し出され、『惣百姓立合候て御勘定』するよう命じてほしい」と言うのです。又兵衛たちの言い分だけでは事の真偽はわかりません。ただ庄屋九兵衛が「久々御役儀相勤罷有候時分之権威」を振りかざして又兵衛たちの主張に耳を傾けないこと、非公開であった村入用や年貢勘定を「村中立合」「惣百姓立合」にしてほしいという要求から、村役人の権威や、どのような村政運営が求められていたのかがわかります。
庄屋の専断は厳しく追及し、村入用や年貢勘定は「惣百姓立合」のうえ行なうという村政運営は多くの近世村で求められたもので、そのため、ときにこうした村方騒動〔むらかたそうどう〕が発生しました。
又兵衛たちは、不正に気付かなかったのは「百姓共文盲成者」であったからだと言っています。読み書き、算盤ができなければ専断的な村政が行なわなれても気付くことができません。村民たちもそうした能力を習得し、厳しい眼を持つことで、開かれた村政運営が可能となったのです。
大庄屋
数か村を束ねる大庄屋が置かれることもありました。尼崎藩では17世紀以降、数か村から20か村を統轄する大庄屋組が置かれていました。当初は「郡右衛門」と呼ばれ、次第に大庄屋と呼称されるようになりました。明和の上知(あげち・じょうち)までは、川辺郡3組、武庫・莵原〔うはら〕郡各2組、八部〔やたべ〕郡1組に編成され、大庄屋が居住している村の名をとって、たとえば長洲〔ながす〕組などと呼ばれました。
近世の村の理解を深めるには
近世農村史研究は膨大な蓄積があります。また歴史学だけでなく、法学・経済学・地理学・民俗学等々さまざまな分野で研究されてきました。
自治体史類は各地域の村に即して叙述されていますので、まずはそれを読むとよいでしょう。さらに専門的な研究に接したい方には、水本邦彦『近世の村社会と国家』(東京大学出版会、昭和62年)がわかりやすいでしょう。尼崎藩の大庄屋については、岸添和義「尼崎藩の大庄屋制度について」(『地域史研究』35−2、平成18年3月)をご参照ください。