近世編第2節/成長する西摂地域3/尼崎城下の商人(岩城卓二)




風呂辻町と丹波屋

 松平家時代の尼崎城下は、辰巳町・風呂辻町・市庭〔いちにわ〕町・別所町・大物〔だいもつ〕町・中在家〔なかざいけ〕町・宮町・築地町の八町からなっていました。
 そのひとつ、風呂辻町に、丹波屋七兵衛という商人が住んでいました。丹波屋は、酒樽に巻く菰〔こも〕・縄の仲買を営み、18世紀後半には、後掲の図のA(12)の東側(文化12年に西側を買い取り合筆〔がっぴつ〕)に居住しており、表からわかるように、その後次々と同町内に屋敷地を購入していきました。
 下の証文はこの丹波屋が寛政11年(1799)に、図のB(20)の西側を購入したときの証文です。東側は寛政4年にすでに手に入れ、納屋として利用していましたが、今回その西側を購入したのです。元の所有者は江戸屋文蔵、購入額は銀400匁〔もんめ〕で、広島屋善左衛門など五人組が同意したうえで、売買が完了しています。個人の所持地であっても、売買には五人組や町の同意が必要でした。
 通りに面した部分が表口=間口〔まぐち〕で、店先・玄関口になります。図を見ると間口がまちまちなのは、売買の際に合筆されたり、切り売りされるためです。また、間口よりも裏行きが長いのは、間口を基準にさまざまな負担を課されたからで、丹波屋が納屋と今回の購入地を合筆した結果、B(20)は間口5間〔けん〕1尺2寸・裏行8間半と1尺となり、役負担は5間役となりました。1間役の屋敷地の5倍の負担を課されることになります。屋敷地所持者は、他に地子米〔じしまい〕・役米〔やくまい〕を負担し、その米高は屋敷地ごとに決まっていました。
 売買額は場所によって違いがあり、土蔵として利用したHは高額であったことがわかります。海側に位置し、倉庫として便利なため、高額となったのでしょう。また角地も高額で売買されました。
 一屋敷地内にひとつの家屋敷が建てられている場合もあれば、裏地に小さな借家が建てられていることも少なくありません。文化12年(1815)、丹波屋は居宅A(12)の西側を購入して合筆していますが、一部は借家が建てられていたようで、この賃料も同家の収入となりました。なかには賃料収入だけで暮らす町人もいました。
 屋敷地の所持者は頻繁〔ひんぱん〕に入れ替わっています。文化13年の所持者のうち、幕末まで同じ家が所持し続けたのは図のうち4か所(11・12・13・20)だけです。内2か所は丹波屋で、同家が幕末まで安定した経営を続けたことがうかがえます。そして18世紀後半から風呂辻町内の各所に次々と屋敷地を購入しており、屋敷地を次第に居宅付近に集中させています。


寛政11年「売渡シ申家鋪之事」(地域研究史料館蔵、田中種子氏文書)
 丹波屋の文書は尼崎城下商人の経営を知ることのできる貴重な文書です。丹波屋と風呂辻町については、同家文書を地域研究史料館に寄贈された田中種子氏による「風呂辻町と丹波屋のこと」(『地域史研究』5−2、昭和50年10月)をご参照ください。

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丹波屋の屋敷購入

 
間口
裏行
間口役
購入年
購入銀額(匁)
備考
A
5間5分 10間2尺 5間5分
1815
300
掛屋敷、西
B
5間1尺2寸 8間半1尺 5間
1792
150
納屋、東 西
     
1799
400
C
2間5寸 8間半7寸 2間
1801
150
 
D
2間半 7間2尺6寸  
 
E
2間半6寸 東4間半/西6間半3尺 2間5分
1809
250
 
F
2間3尺1寸 6間5寸  
1809
160
 
G
6間半2尺5寸 東5間5寸/西3間1尺7寸 2間3分68
1813
300
一部か
H
3間半7寸 2間3尺 1間1分26
1791
500
土蔵

地域研究史料館蔵、田中種子氏文書により作成。A〜Hの位置については、後掲の図中に示した。

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丹波屋所持屋敷の変遷



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荒物仲間

 丹波屋は酒樽用の菰・莚〔むしろ〕・縄を集荷し、酒造業地帯として発展した灘目〔なだめ〕(莵原〔うはら〕・武庫両郡の沿海地帯)の村々に販売する仲買業者でした。菰などはもとは米・麦を干すための干し莚として農家で生産されていたようですが、酒造業の発展とともに樽巻〔たるまき〕用となり、重要な農間余業となりました。明治2年(1869)の史料によると、後掲図のように田能〔たの〕村をはじめ園田・小田地区の村々(紫色の村名)で盛んだったことがわかります。
 農家で生産された樽巻菰・莚は村役人、生産者の代表、村の仲買によって近くの伊丹・今津・西宮の酒造業者に売られましたが、、灘目や遠隔地向けは尼崎の仲買業者が集荷しました。
 尼崎城下ではこの仲買たちが藩に冥加〔みょうが〕銀を納めることで「荒物〔あらもの〕仲間」を結成し、集荷を独占していました。いつ結成されたかはわかりませんが、文政7年(1824)には17軒が加わっています。その後酒造高の減少もあって、次第に仲間の人数は減り、幕末には5、6軒になっていますが、丹波屋は競争に打ち勝ち荒物問屋を続けました。

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米仲買

 丹波屋は米の仲買業も営んでいました。文化4年からは、「米京積渡世〔とせい〕」、つまり京都向けの米販売に関わっていました。
 後掲の図のように、丹波屋は文化8年3月から翌9年12月までの間に、1,200石余りの米を売買しました。このうち約730石が兵庫の米屋重兵衛から買い付けられています。産地は津軽から加賀といった東北・北陸、九州地方です。兵庫は物資の集散地として栄え、やがて大坂を脅〔おびや〕かす程にまでなりました。丹波屋はその兵庫で荷揚げされた米を同地の米屋から買い取り、それを神崎川舟運を利用して京都に移出していたのです。
 丹波屋は尼崎城下で消費される飯米の取引にも関わっていました。城下の飯米の多くは大坂から供給されていたと言われていますが、丹波屋は神戸村と岩屋村(現神戸市)から約480石の飯米を仕入れているほか、兵庫からも仕入れていました。丹波屋は樽巻菰を灘目で販売し、灘目からは白米を移入することで利益を上げていたことがわかります。灘目には多くの河川が流れ、各所に水車が設けられていたので、その米水車で精白された米が城下の食の一部を支えたのでしょう。
 尼崎城下は海に面し、神崎川・淀川を通じて京都とつながるという地の利を生かし、丹波屋のように隔地間流通に関わる商人が多く居住していました。

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丹波屋の米・荒物売買



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よみがえる中在家町

 城下の西方に位置する中在家町には、幕末の屋敷地配置の様子がわかる絵図が残されています。同絵図は市民・神戸大学・地域研究史料館の協力によりデジタル化され、史料館で公開されています。風呂辻町と比較すると、同じ城下であってもさまざまな町の姿があったことがわかります。
 この中在家町には城下有数の富商である泉屋利兵衛が住んでいました。古くは古手〔ふるて〕物売買を営んでいたようですが、享保5年(1720)からは尼崎藩の蔵物代銀を扱う掛屋〔かけや〕を務め、両替商として富を蓄えていきました。安永6年(1777)発行の藩札の札元にもなっています。19世紀初頭には、宮町・築地町のほかに、大坂市中にも営業拠点を持っていました。詳しくは、作道洋太郎「泉屋利兵衛の系譜と創業」(『地域史研究』3−3、昭和49年2月)をご参照ください。同町の住人である肥料商梶屋の史料も地域研究史料館・文化財収蔵庫に保存されています。
 また中在家町は浜筋に魚市場があり、近海や西国各地から生魚が入荷し、生魚問屋や漁民が住む町でもありました。生魚は尼崎で食されるだけでなく、大坂・京都にも出荷されました。いつからかはわかりませんが、京都御所の魚御用も尼崎の上積問屋が務めていました。地域研究史料館では、こうした生魚問屋の史料も所蔵しています。
 なお、中在家町については『地域史研究』31−2(平成13年12月)に町並み絵図、梶家文書の概略が記されています。

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