近世編第1節/幕藩体制の成立と尼崎6/百姓の家と家族 −万陀羅寺村の宗門改帳から−(横田冬彦)
- 元禄11年「万陀羅寺村宗門改帳」
- 与一兵衛の家族
- 宗門改帳とは
- 百姓の家と家族
- 万陀羅寺村の宗門改帳によって江戸時代の結婚や夫婦のあり方を見てみよう
- 譜代下人から年季奉公人へ
- 年季奉公人を出す家
- 奉公人たちのライフサイクル
- 江戸・大坂への出稼ぎ
元禄11年「万陀羅寺村宗門改帳」
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与一兵衛の家族
万陀羅寺〔まんだらじ〕村には、元禄11年(1698)の宗門改帳〔しゅうもんあらためちょう〕が残されています。その最初に記載されているのは、庄屋の与一兵衛の家で、次のように書き始められています。
与一兵衛は、18年前、31歳の時に、上食満〔かみけま〕村八右衛門の16歳の娘と結婚したのです。以下この記録を見ていくと、結婚後5年で女子こゆりが生まれたが、男子ができなかったためでしょうか、7年前に女房の実家八右衛門家から当時18歳の治右衛門を養子にもらっています。またそのほかに、播磨国三木郡から4年前に14歳で10年季〔ねんき〕で奉公に来ている藤八をはじめ下男2人、下女が3人がおり、あわせて9人が与一兵衛の戸籍に記載されています(数字は数え年齢)。
与一兵衛49 養子治右衛門25
女房34 女子こゆり14
下男―藤八18三九郎14
下女―すき18、かめ26、かや13
宗門改帳とは
宗門改帳とは、すべての住民について、彼らがキリシタンでないことを檀那〔だんな〕(旦那)寺が証明した住民登録台帳で、一人一人に寺印が押され、各村ごとに毎年3月頃に作成されました。豊臣秀吉のときにキリシタン禁令が出されましたが、一般庶民について全面禁止となったのは徳川時代に入った慶長17年(1612)で、島原の乱前後(1630年代)にキリシタン改めの強化にともなって、宗門改帳も制度化されました。
本来信仰は個人の心の問題であり、近世初期には女性が結婚しても幼少からの実家の宗派を維持して、夫婦で檀家が異なる「半檀家」になることもありましたが、この頃になると、与一兵衛女房が実家の法華宗から婚家の浄土真宗へ、「夫同宗同寺旦那」に変わったように、個人の信仰ではなく「家」単位の信仰になっています。さらにこの場合は、奉公人まで(一時的にでしょうが)、主家の檀那寺に変わったことになっており、信仰の形式化の一面をうかがわせます。
万陀羅寺村の人々は、この村にある正福寺・正善寺の2か寺のほか、近隣村にある真宗・真言宗・浄土宗・法華宗の6か寺を檀那寺としており、村の人が自村を含むその地域社会にあるどこかの寺に所属するという形が定着していました。
百姓の家と家族
この村には、47軒の家が記載されており、そのうち家持ちが36軒、11軒が借家です。家持ちのほとんどには、与一兵衛と同じく「代々所ニ罷有候」と記されていて、元禄期には百姓の家が永続し、安定化してきたことがわかります。そうでないのは、13年前に領主の許可を得て引っ越してきた医者の益庵と、ふたつの寺の僧侶くらいのものです。
家族構成を見ると、ほとんどが夫婦と子供だけの核家族です。子供数は6人という家が1軒ありますが、その他はほとんどが1〜3人で(結婚・奉公などで出て行った子供は記されていないので実際は若干増える)、いわゆる大家族ではなく、現代に近い家族構成でした。また、母を含む3世代同居になっているのは5軒(1割)にすぎず、逆に息子が既に30代なのに後家〔ごけ〕が世帯主のままという家が5軒あります。後家が夫の死後、幼少の息子への中継ぎにすぎないのではなく、一定の役割を果たしていることが推測されます。
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万陀羅寺村の宗門改帳によって江戸時代の結婚や夫婦のあり方を見てみよう
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譜代下人から年季奉公人へ
現代の家族との大きな違いは、下人(下男・下女)という非血縁家族の存在です。万陀羅寺村で下人を持つ家は家持ち36軒中14軒で、庄屋・年寄・組頭という村役人8軒のうち7軒が持っており、下人の有無は経営の大小、村内階層に対応すると考えられます。
下人総数は39人で、そのうちに譜代〔ふだい〕の下女が3人います。うち2人は「摂州有馬郡岸村(貴志村・現三田市)七兵衛娘、譜代ニもらい」と姉妹が別々の家に譲渡されたもので、あとの1人は「私方ニて出生、譜代ニて召仕」と主家で出生しています。 そのほかにもう1人、主家の借家に居住する65歳の「代々下男」がいますが、女房を持って世帯を別にしており、奴隷的境遇からの一定の自立を認められたものでしょう。
*譜代=譜代下人とも言う。一生涯また親子代々にわたって主家に仕えた奴隷的身分の奉公人。
近世社会は、豊臣秀吉の太閤検地政策以後、年季を10年以下に制限することによって、譜代という全人格・全生涯を譲渡する人身売買を法的に禁止しています。岸村の七兵衛の2人の娘の場合は、家の破産など特別な事由があったと思われ、元禄時代ともなると、こうした譜代の下人は例外的なものになり、ほとんどが年季奉公人へと変わっていきます。
戻る年季奉公人を出す家
残り35人の年季奉公人は、10年季(18人)、4〜7年(3人)、1年ないし半季(14人)になります。10年という長年季奉公人はほとんどが、10〜13歳頃に奉公を始めており、摂津国有馬郡や播磨国・丹波国など比較的遠隔地からの者が多いのが特徴です。これに対して1年以内の奉公人は、年季ごとに簡単に主家を変えることができ、いわゆる雇用労働に近くなり、20代・30代の者などいろいろです。これらのうち自村出身は5人で、村内の借家層を含む下層の4家から出ています。
戻る奉公人たちのライフサイクル
こうした下人(奉公人)は村全体の人口234人の約16%を占めています。人口ピラミッドを作ってみると、10代から20代にかけて集中しており、逆にこの世代の村民が少なくなっており、他村へ流出していることがうかがわれます。すなわち、下人を出す下層の家では、10〜20代になると長年季も含めた奉公に出ることで口減らしをするとともに、年季があけて帰村し、家の労働力として一人前になると家を継いだり、結婚したりし、さらに凶作などで経営が苦しくなる場合や家を持って自立できない場合には、1年季などの短期奉公を繰り返すことになるというライフサイクルを描いてみることができるのです。
夫婦の結婚年齢を見てみると、夫では上層の20代後半に対し下層では30代前半に、妻では上層の10代後半〜20代前半に対し、下層では20代後半にピークがずれることが、そのようなライフサイクルの存在を傍証しているように思われます。
江戸・大坂への出稼ぎ
万陀羅寺村の宗門改帳は村から出て行った者については記載していませんが、別の村の史料によれば、奉公先は近村・近郡のみならず、はるか江戸まで広がっていることがわかります。摂津の一農村である万陀羅寺村が吸引できた労働力は周辺か丹波・播磨あたりまでしか及ばないのに対し、江戸や大坂は全国から労働力を吸引する巨大都市になっていたのです。
下人=奉公人が10〜20歳台に多いのは、それが労働人口として存在していることを示しています。住民の年齢構成で20歳台が特に少ないのは、他村・他領へ奉公人として出ているからでしょう
下の地図と併せて見ると、妻や養子をもらう範囲=親戚関係のネットワークが、自村・自郡の周辺に濃密に広がっているのに対し、譜代や年季奉公人を雇い入れる範囲=雇用関係のネットワークの方がはるかに広域的で、摂津有馬・能勢郡や播磨・丹波などの後背地農村から来ているのがわかります。特に丹波国多紀郡西野々村から6人も年季奉公人が来ているのは、伝〔つて〕を頼ってきたか、何らかの斡旋〔あっせん〕業者の存在を推測させます。
〔参考文献〕 いずれも尼崎藩の上瓦林村などを取り上げています。
八木哲浩『近世の商品流通』(塙書房、昭和37年)
藤井勝『家と同族の歴史社会学』(刀水書房、平成9年)
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