近世編第1節/幕藩体制の成立と尼崎3/大坂の西の守り・尼崎藩(岩城卓二)
豊臣秀吉は、畿内の平定を終えた天正13年(1585)頃以降、尼崎地域を直轄地としていました。しかし、慶長20年(1615)の大坂夏の陣後までに、その大部分は徳川氏の直轄地になったと考えられます。
元和5年(1619)、幕府は大坂を直轄地とし、西国有事に備える軍事拠点とします。慶長19年と翌元和元年の大坂の陣においては、大坂と西国海陸交通の分岐点に位置する尼崎は、軍事的・経済的要衝〔ようしょう〕として重視されました。幕府は、この大坂に近接する尼崎地域をどのように位置付けたのでしょうか。
歴代尼崎藩主家
大坂の陣から2年後の元和3年、建部政長〔たけべまさなが〕に代わって、近江国膳所〔ぜぜ〕(現大津市)より戸田氏鉄〔うじかね〕が5万石の大名として尼崎に配されました。これ以後、尼崎には、同規模の譜代〔ふだい〕大名が配されます。
氏鉄は徳川家の信頼が厚く、膳所では京都の守りという重要な役目を担っていました。その氏鉄が尼崎に配されたことからもわかるように、幕府は、大坂に近接する尼崎をたいへん重要視しました。氏鉄が尼崎に配されるとすぐに、旧城を大きく上回る尼崎新城の普請〔ふしん〕が始められましたが、これは幕府が大坂の西を固める城として尼崎城を位置付けていたからです。氏鉄は、大坂城の普請奉行としても活躍しますが、寛永12年(1635)7月、美濃国大垣(現大垣市)に転封となりました。
代わって、青山幸成〔よしなり〕が尼崎藩主の座に就きました。幸成は、後の老中に相当する重職を務めたこともある人物で、卓越した政治手腕の持ち主でした。その子・幸利〔よしとし〕も父に劣らぬ政治力量を備えていたようで、彼の事績を記した「青大録」によると、幸利は頻繁〔ひんぱん〕に大坂に出向き、大坂城代や町奉行と懇談しており、尼崎藩主にとどまらない重責を担っていたことがうかがえます。その後、幸督〔よしまさ〕・幸秀〔よしひで〕と続き、宝永8年(1711)2月、信濃国飯山〔いいやま〕(現飯山市)に転封となりました。
この後、尼崎に配されたのが、松平忠喬〔ただたか〕です。同家は、三河国桜井に発するため桜井松平家と呼ばれ、「十八松平」などと言われる徳川氏の分家のひとつに数えられる名家でした。忠喬・忠名〔ただあきら〕・忠告〔ただつぐ〕・忠宝〔ただとみ〕・忠誨〔ただのり〕・忠栄〔ただなが〕と続き、忠興〔ただおき〕が最後の尼崎藩主となりました。
藩主名 | 藩主在位期間 |
戸田 氏鉄 | 元和 3年(1617). 7〜寛永 12年 |
青山 幸成 | 寛永 12年(1635). 7〜寛永 20年 |
幸利 | 寛永 20年(1643). 3〜貞享 元年 |
幸督 | 貞享 元年(1684). 9〜宝永 7年 |
幸秀 | 宝永 7年(1710).10〜宝永 8年 |
松平 忠喬 | 宝永 8年(1711). 2〜寛延 4年 |
忠名 | 寛延 4年(1751). 3〜明和 3年 |
忠告 | 明和 4年(1767). 2〜文化 2年 |
忠宝 | 文化 3年(1806). 2〜文化 10年 |
忠誨 | 文化 10年(1813). 4〜文政 12年 |
忠栄 | 文政 12年(1829).10〜文久 元年 |
忠興 | 文久 元年(1861). 8〜明治 2年 |
尼崎藩領の変遷
戸田氏鉄は、摂津国川辺・武庫・莵原〔うはら〕・八部〔やたべ〕の4郡内に5万石を領有しており、東は川辺郡神崎村から西は八部郡西須磨村までの海岸線一帯は、ほとんど尼崎藩領でした。
続く青山幸成は、戸田氏の所領をそのまま引き継ぎますが、寛永20年、幸成死去にあたって、二男・三男・四男に計2千石が分知されたため、藩領は4万8千石となりました。
宝永8年以後、幕末まで尼崎藩主家となる松平家は、最初、川辺・武庫・莵原・八部の4郡に4万石を領有しました。知行高が青山家より8千石少ないため、藩領の一部が幕府領となりましたが、川辺・武庫・莵原3郡の海岸線の村々は引き続き藩領とされました。しかし、八部郡の兵庫より西側海岸部は、幕府領となりました。
このように、戸田家、青山家、松平家と藩領域は若干変動しましたが、小さな所領が分散錯綜〔さくそう〕する大坂周辺にあって、尼崎藩領はまとまった領域を形成していました。この藩領域が大きく変わるのが、明和6年(1769)の上知(あげち・じょうち)で、兵庫から今津までの海岸線は幕府領となり、尼崎藩は、代わりに播磨国に所領を与えられました(本編第2節1参照)。
松平家時代の尼崎藩領(明和6年上知以前)
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海陸交通の要衝、尼崎藩領
藩領の西に位置する兵庫は、瀬戸内海海上交通の要衝であり、北国・西国・江戸行き廻船の寄港地として発展しました。西国大名が参勤交代の途上寄港したため、宿泊・休息場所となる浜本陣もありました。また、山陽道上に位置することから陸上交通の要衝でもありました。こうした海陸交通の要衝であったため、兵庫には尼崎藩の陣屋が置かれていました。
また兵庫は、朝鮮から徳川幕府に対して派遣される朝鮮通信使の馳走場〔ちそうば〕(接待場所)に指定されており、後掲の史料にあるように、尼崎藩が接待役を務めることとされていました。
西国から京都・江戸へ向かうには、西宮から京街道=西国街道を利用して昆陽〔こや〕を通るルートと、西宮から大坂街道を利用して神崎村、大坂へと至るルートがありました。藩領の西宮はこのふたつのルートの分岐点であり、陸上交通の要衝でした。そのため、兵庫と同様に藩の陣屋が置かれていました。
藩領の東端に位置する神崎村は、古代・中世から京都と西国、さらには東アジア世界を結ぶ交通の要衝として栄えました(中世編第1節1参照)。近世に入っても、大坂への出入り口に位置することから、宿駅となりました。
このように、尼崎藩は4〜5万石の藩領ではありましたが、大坂に近接する海陸交通の要衝を治めていました。
尼崎藩の朝鮮通信使接待
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大坂城守衛を担う尼崎藩
19世紀初頭、平戸藩主であった松浦静山〔まつらせいざん〕によって著された『甲子夜話〔かっしやわ〕』という書物に、「尼崎は花火が有名であるが、これは大坂で一大事があったときに知らせるための烽火〔のろし〕の術である」と記されています。安永10年(1781)の武庫川の花火には、14〜5万人もの見物人が押し寄せたと言いますから、尼崎の花火はかなり有名だったようです。
この花火が烽火から始まったのかどうかはわかりませんが、『甲子夜話』が記すように、尼崎藩は、大坂で火災などの異変があったとき、駆けつけなければなりませんでした。大坂に近接する尼崎藩は、将軍の直轄城である大坂城の守衛という重要な軍事的役割を担っていました。
たとえば、寛文5年(1665)正月、落雷で大坂城天守閣が炎上した際、尼崎城天守閣からこれを見ていた藩主青山幸利はすぐに手勢を率いて大坂に駆けつけ、城代などに指示を仰ぐとともに大坂城追手門前に手勢を配置し、警戒に当たっています。こうした大坂入りは、近世を通じてたびたび行なわれたようで、天保8年(1837)2月の大塩の乱のときも、いち早く大坂入りしています。尼崎藩は、大坂の異変を知ったときは、幕府の指示がなくても手勢を率いて大坂入りすることを許されていたのです。
大坂城の南に位置する岸和田藩も、同じく大坂城守衛を担っており、尼崎藩主が江戸にいるときは岸和田藩主は在国するというように、このふたつの藩は交互に参勤交代を行ないました。これは、両藩主がともに江戸にいては、大坂城守衛が手薄になるからでした。このため両藩主は、江戸に長期間滞在しなければならない老中・寺社奉行など幕府の重職を務めていません。大坂城守衛の最高責任者である大坂城代がはじめて大坂城入りする儀式に、大坂周辺の譜代大名のなかで両藩主だけが招待されたのは、こうした理由からでした。
また両藩は、ふだんから大坂周辺の動静を監察し、尼崎藩では、兵庫・西宮や城下を往来する大名の動向に、常に目を光らせていました。
このように、尼崎藩は大坂の西の守りとして大坂城を守衛し、海陸交通の要衝を警衛するというたいへん重要な軍事的役割を担っていました。
〔参考文献〕
岩城卓二『近世畿内・近国支配の構造』(柏書房、平成18年)