近世編第2節/成長する西摂地域5/宿駅と街道(石川道子)




近世の宿駅

 現在の尼崎市域に関係する近世の大きな街道は、京都と西国を結ぶ西国街道と、大坂と西宮を結ぶ海沿いの中国街道です。
 西国街道に設けられた、山崎宿(現大山崎町)・芥川〔あくたがわ〕宿(現高槻市)・郡山宿(現茨木市)・瀬川宿(現箕面市)・昆陽〔こや〕宿(現伊丹市)・西宮宿(現西宮市)、さらに兵庫・明石などは、伝馬〔てんま〕人足の常備が義務付けられている幕府が指定した宿駅です。
 中国街道は大坂を出ると、つぎの伝馬宿は西宮になります。途中に神崎・尼崎の駅がありましたが、これは尼崎藩独自の宿駅でした。
 西国街道を例に宿駅の景観を見ると、一般的に、街道を挟んで両側に家並みが続いています。その中心部に駅問屋、本陣、脇本陣、旅籠〔はたご〕などがあり、高札が立ち、宿端にかけて茶屋、煮売り屋、木賃宿などが並んでいます。家並みの途中には火災に備え火除〔ひよ〕け地もあります。
 宿駅内には、旅客に対して人馬の継ぎ立てや休泊に関する一切の手配を管掌する駅問屋が設けられ、ここに問屋を補佐する年寄、書記役の帳付け、人馬に対する荷物の差配をする人馬差しや使い走りをする人夫などが詰め、宿駅の中心的な機能を果たしています。
 全国の街道には伝馬制度が張り巡〔めぐ〕らされ、交通量の多少により伝馬人足の定数が定められていました。西国街道の場合は1日に25人の人足と25匹の伝馬の提供が義務付けられていました(東海道では100人の人足と100匹の伝馬でした)。そして、御用通行の旅客は無賃もしくは廉価〔れんか〕に設定された規定の賃銭でこれを利用することができました。一般の旅行者は相応の駄賃〔だちん〕を払い、御用通行の邪魔にならない限りこれを利用することが認められていたのです。


尼崎関連地域の宿駅


尼崎地域の二本の街道 国立公文書館内閣文庫蔵「天保国絵図」(部分)
 西国街道は中央上端から南西へ、中国街道は右下の大坂市街から北西へ神崎渡しを経て尼崎城下(下部中央の白四角)に南下し、西宮町(中央左)で両街道が合流しています。
 村名記載の小判形は郡ごとに色分けされています(豊島郡:赤、川辺郡:青緑、武庫郡:黄色、西成郡:緑)。

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西国街道

 近世の西国街道のうち、山崎から西宮に至る10里(約40km)は山崎街道あるいは山崎通〔みち〕と称され、山陽道と東海道を結ぶ近道として、西国大名の参勤交代路などによく利用されました。
 尼崎市域で西国街道が通っているのは武庫川の東、西昆陽村です。西国街道昆陽宿から15丁ほど西にすすむと西昆陽村で、ここで武庫川を渡ります。「髭〔ひげ〕の渡し」と親しまれ、旅人や人足・馬子〔まご〕が休息する茶屋がありました。通常は仮橋が架〔か〕けられ歩行〔かち〕渡りをしていたとありますが、増水すると人足の肩車や蓮台〔れんだい〕による川渡しが行なわれました。
 増水時には、武庫川の東岸では西昆陽村と常松〔つねまつ〕村が隔月で西側への渡しを担当し、西岸は段上〔だんのうえ〕村・上大市〔かみおおいち〕村・下大市村(以上現西宮市)が対岸への渡しを月交代で担当しました。
 武庫川については安政6年(1859)からあまり遠くない時期に作成されたと考えられている「山崎通宿村大概帳」(『近世交通史料集』5、吉川弘文館、昭和46年)に、「常松村・段上村の間武庫川あり、幅大概二六○間〔けん〕程、歩行渡り也、この水元は摂州・丹州両国の境、字あいの秀坂と申す所より流れ来、流末は尼崎領西新田村地内にて海へ落ちる」とあります。また、増水時の蓮台による渡しについては、水の深さごとに「小深」=台1挺〔ちょう〕につき人足6人掛かり、「腰切」=台1挺につき8人掛かり、「臍切〔へそきり〕」=台1挺につき人足10人掛かり、「乳切」=台1挺につき人足12人掛かり、とも記されています。
 「髭の渡し」は西国街道における武庫川渡しで、同川の下流には中国街道の渡しとして「西新田の渡し」があります。


西国街道・髭の渡しの茶屋
「五街道其外延絵図」 重文 東京国立博物館蔵
Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/


肩車・蓮台〔れんだい〕による川渡し
 左手前に肩車、蓮台に武士一人と駕籠〔かご〕を載せた様子が描かれています。
歌川広重 「東海道五十三次 小田原」 東京国立博物館蔵
Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/

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中国街道と神崎駅

 市域の海沿いに東西に伸びる中国街道は、大坂から尼崎を経て西宮で西国街道(山陽道)と合流します。西国街道が古代から重要な位置付けをされていたのに対して、中国街道はいつからあったものか明確ではなく、最初は海岸沿いの集落をつなぐ生活道として利用されていたものが、近世に至り大坂・尼崎の発展によって利用度が高まり、整備された街道と言えるでしょう。
 「行程記」(山口県文書館蔵)に大坂から神崎・尼崎を経て西宮に至る通行路が詳細に描かれています(『尼崎市史』第2巻、巻頭折込図参照)。神崎川は「広四十間程、船渡り」とあり、神崎川を渡って神崎村に入ると、北の伊丹方面から来る道筋と交差するところに高札場があります(後掲『摂津名所図会〔ずえ〕』「神崎の渡し」参照)。神崎の渡しは仮橋がなく、旅人は1人につき40文、増水時は増銭24文を払って渡し船に乗ったとのことです。
 神崎駅はおもに商人荷物を扱う駅所として繁栄しました。神崎川を控え、近隣の年貢米の津出しや伊丹で買い入れた酒造米の受け入れ口でした。このような諸荷物を扱う問屋が宝暦8年(1758)に6軒あったことが認められます。
 商人荷物の運送が多かったのに対し、幕府御用の公用継ぎ立てに関しては、寛政4年(1792)に、当駅で継ぎ立てを行なう通行として後掲の表に示した通行に限定しています。これは尼崎駅においても同様だったと考えられます。
 寛政元年10月29日、長崎奉行水野若狭守の通行時に神崎駅で継ぎ立てた人馬を見ると、継ぎ人足180人、継ぎ馬40匹の先触れ*に対して、他村からの助〔すけ〕人足500人を申請しています。寛政3年10月13日、同奉行永井筑前守の通行に継ぎ人足156人、継ぎ馬60匹に対し、助人足480人を申請しています。もちろん、これだけの人馬を神崎村だけで手当できるものではなく、尼崎藩に助人馬の調達を依頼し、領内から人馬を集め公用継ぎ立てを行なっていました。人 馬数については、先触れで命じていた馬を人足に換算することもあり、人馬の実数が変わることがあります。
 このように公的な継ぎ立てを行なうことはありましたが、宿駅の指定を受けていない神崎駅は、相応の駄賃を受け取って伊丹の酒荷物ほか商人荷物等を運送する馬借〔ばしゃく〕所でした。
 正規の宿駅では無賃あるいは廉価な駄賃で公用継ぎ立てを行ない、公用継ぎ立ての合間に駄賃稼ぎをしているのに対し、神崎では駄賃稼ぎを専〔もっぱ〕らにしているため、正規の宿駅の駄賃稼ぎの邪魔になり宿駅の収入を減じさせ、ひいては困窮〔こんきゅう〕をもたらすということで、近隣の宿駅との間にしばしば争論が引き起こされています。
 しかし、天明4年(1784)に伏見の舟元締坪井喜六らに許可された下河原(現伊丹市)から庄本〔しょうもと〕村(現豊中市)までの猪名川通船による荷物の減少、また、中期以降公用通行貨客が多くなったことなどによって、神崎は衰退していったと言われています。
 このような神崎駅が、多忙を極めたのは幕末です。長州征伐や海岸警備のため公用貨客の通行が激増し、神崎の人馬だけでは処理しきれず、継ぎ立て業務を補助する助郷〔すけごう〕人足が幕府の指示によって付けられました。文久元年(1861)には年間1万6千人が継ぎ立て業務にかり出されています。そしてこの内9千人は神崎村の人足でまかない、7千人が尼崎領内の村々から徴発した助郷人足でまかなわれています(地域研究史料館蔵、田中大庄次郎氏文書(1))。さらに元治元年(1864)の長州征伐において、川辺郡・豊島〔てしま〕郡の村々およそ50か村から神崎・尼崎駅に助郷が付けられました。このときの助郷は幕府から指定されたものでした(豊中市、奥野薫美氏文書)。

*先触れ=街道を通行するに際し、宿駅に対してあらかじめ人馬の継ぎ立てを達しておくこと。

公用継ぎ立てをする幕府御用通行者
御三家・御三卿
御朱印**・御証文***所持の役人
大坂城代
大坂定番・同組与力・同心
大坂奉行・同組与力・同心
大坂川口船手奉行・同組与力・同心
破損奉行
弓奉行
鉄砲奉行
御蔵奉行
大坂代官・同組同心・手代
堺奉行・同組与力・同心
長崎奉行
長崎糸割符(いとわっぷ)御用

地域研究史料館蔵、田中大庄次郎氏文書(1)より
**御朱印=将軍の朱印状により人馬の使用を許可したもの。公家衆、門跡方、京都への使者、宇治御茶御用、巡見御用、伊勢神宮・京都知恩院・日光御名代、三州滝山寺、その他公用の使者に発行。
***御証文=老中・京都所司代・大坂町奉行・大坂定番〔じょうばん〕・駿府町奉行・勘定奉行・遠国〔おんごく〕奉行・道中奉行等が、国々へ御奉書御用、御用状箱、鷹匠〔たかじょう〕御用などのため通行する役人に発行。



尼崎地域の中国街道(緑色のルート)  明治42年陸地測量部測図 2万分の1地形図(大阪西北部)



神崎川と渡し場 『摂津名所図会』より
 下部の神崎川の流れに渡し船が描かれ、駅の西側で街道が南北に分かれています(右上方が伊丹への道、左下方並木道が尼崎城下へ至る)。

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尼崎駅

 尼崎駅は城下の別所村に設けられていました。尼崎駅も幕府の指定した宿駅ではなく、尼崎藩が独自に置いた駅所です。前述の「行程記」に尼崎周辺の街道が詳細に描かれています。西から、小松村を過ぎて武庫川に至ります。弘化3年(1846)、明石から日光に向かった人の旅日記「道中みちしるべ日記」(明石市、田中源左衛門氏文書)に、雨模様のなか「武庫川舟わたし十六文」とあり、西新田の渡しの舟賃が記録されています。
 「行程記」に描かれた道をたどってみます(後掲写真)。武庫川を越すと西新田村に着きます。さらに東新田村を過ぎ蓬〔よも〕川に架かる土橋を越えると街道は南に折れ、出屋敷にかかります。左折して濠〔ほり〕に架かる土橋を渡ると惣門(竹谷〔たけや〕御門)があり、ここからが尼崎の城下です。駅所のおかれた別所村西の町・東の町等を過ぎまっすぐすすむと尼崎城本丸。濠の手前、高札場で大きく南に築地町へ迂回〔うかい〕し東へすすむと二の丸の東で道はふたたび北に折れます。別所町、市庭町〔いちにわちょう〕、大物〔だいもつ〕町を抜けると番所があり、北の口御門が描かれ、ここまでが尼崎城下であることが示されています。
 尼崎付近駅所の人馬賃銭は、正徳元年(1711)以来後掲の表のように定められていましたが、神崎と同様に尼崎で継ぎ立てができるのは幕府の公用通行に限られ、大名の参勤交代などの人馬の利用はできませんでした。
 文政9年(1826)、オランダ商館付医師として来日していたシーボルトが出府したとき道中の様子を記した『江戸参府紀行』(平凡社「東洋文庫87」、昭和42年)に次のような記載があります。

 三月一三日〔旧二月五日〕われわれは西宮から八時に悪天候をついて出発。吹雪と氷のような北風の吹くなかを平坦な道を進み、尼崎の町に着く。松平遠江守の城下である。同所には海に続く広い濠をめぐらした城があり、一筋の幅広い河(小さな歩幅で七○歩)を通って海水が濠のなかに流れ込んでいる。われわれはそこに掛かっている橋を渡り、一一時に神崎に至り、かなり広い神崎川を舟で渡り、十三で休み、十三川を越えて二時四五分に大坂の郊外に着く。(後略)
(原文の地名・人名欧文表記を省略)

 また、尼崎では運送業務のほかに、別所村を中心に11人が藩の公許のもとに飛脚仲間を結成し、尼崎・大坂間の通信を請け負っていました。
 尼崎駅も幕府の指定した宿駅ではありませんが、城下町という大きな市場を控えた近在の商品荷物の集散地であり、また尼崎浦の船荷物を扱い繁栄していたことがうかがえます。
 享保12年(1727)には近在の馬持ち42人が66匹の馬をもって尼崎駅に所属し駄賃稼ぎをしています。これらの馬は、尼崎・塚口・猪名寺・久々知〔くくち〕・守部〔もりべ〕など14か村から寄せられたもので、これらの馬によって公用の継ぎ立てを行ない、また駄賃馬として商人荷物の運送を行なっていました。
 尼崎駅で行なう駄賃稼ぎをめぐって、しばしば昆陽駅・伊丹駅との間で争論が起こったことは、神崎駅と同様です。
 また幕末には公用継ぎ立てが激増し、それをまかなうための助郷が付けられました。


「行程記」(山口県文書館蔵毛利家文庫) 中国街道の武庫川渡し(左端)と尼崎城の区間 前掲の中国街道ルート図と対照してみてください。
(画像は『尼崎市史』第2巻、巻頭折り込み図を転載)


尼崎城下の西端、竹谷〔たけや〕御門と貴布禰〔きふね〕神社 『摂津名所図会』より
 街道筋は、左手前の出屋敷の町並を通って玄蕃〔げんば〕堀を渡ると城下に入ります。貴布禰神社は尼崎城下の総鎮守〔ちんじゅ〕社でした。

区間
本馬
軽尻
人足
生瀬〔なまぜ〕〜西宮
125
80
60
生瀬〜小浜〔こはま〕
42
26
21
小浜〜伊丹
57
37
29
西宮〜昆陽〔こや〕
86
57
43
伊丹〜大坂
181
125
91
小浜〜西宮
77
57
34
神崎〜伊丹
35
神崎〜尼崎
18
神崎〜大坂
48
尼崎〜大坂
130
84
69
尼崎〜西宮
84
56
42

正徳元年(1711)尼崎近隣駅の人馬賃銭(単位:文)
なお、「尼崎〜西宮」の人足賃を46文とする史料もある。


〔参考文献〕
『山崎通分間延絵図』(東京美術、昭和53年)
石川道子「尼崎の通運業―城下の飛脚仲間から尼崎陸運組合へ」(『地域史研究』28−3、平成11年3月)

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