近世編第3節/人々の暮らしと文化4/百姓の財産(岩城卓二)




失踪した百姓

 安政7年(1860)、上坂部〔かみさかべ〕村の八左衛門という百姓が失踪〔しっそう〕しました。村高が1,400石を越える同村は当時東方と西方に分かれ、ふたりの庄屋が置かれており、八左衛門は西方の百姓でした。文政13年(1830)には、西方で3石3斗の土地を所持していたことがわかっていますが、失踪当時、どれくらいの土地を所持していたのかは不明です。彼は、東方には土地を持っていなかったようなので、西方にわずかな土地を所持するだけの零細な農民であったと思われます。
 一方で、八左衛門は、米商人という顔も持っていたようです。西摂〔せいせつ〕(摂津国西部)の農村には、こうした在郷商人が多く、なかには大きな富を蓄える者もいました。米商人八左衛門は、領主である旗本船越家の年貢米売買に関わったりしていますが、それほど大きな商人ではなく、幕末期にはかなり苦しい経営を強いられていたようです。借金を重ね、またわずかな土地も手放し、なんとか凌〔しの〕いでいたようですが、とうとう追いつめられたのでしょうか。安政7年、土地売買で人をだまし、お金を持ち逃げしてしまったのです。

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八左衛門家の財産

 八左衛門家には、多額の借金がありました。そこで村は、債権者たちと協議のうえ、八左衛門家の財産を競売にかけ、売上金を債権者に配当することとしました。これを「分散〔ぶんさん〕」といいます。分散となった八左衛門家の財産は、家屋敷・田地・道具類です。家屋敷と田地は銀1貫900匁〔もんめ〕で買い手がつき、道具類は「せり市」で売られ、村は銀252匁1分5厘を得ることができました。八左衛門家の道具を購入したのは25人ほどで、村外の人の方が多かったらしく、庭木であったと思われる松・柿・あんず・梅、そして生け垣も「せり市」にかけられています。生け垣には椿が用いられていたようです。また、畳・障子・風呂といった家屋敷の備品から、四斗樽・香物樽・箱火鉢・釣り棚・はしご・箒〔ほうき〕・花具・提灯〔ちょうちん〕・唐傘等々、ありとあらゆる道具類に買い手がついており、このなかには仏壇も含まれています。百姓家にとって仏壇は高価な財産だったようで、銀32匁という高値が付きました。
 八左衛門家の財産を処分して得られたお金は、持ち逃げされた者への返済、滞〔とどこお〕っていた村入用等への支払、分散のための経費に充てられ、残った銀72匁2分8厘余りが債権者に回されました。八左衛門家が借金していたのは5人で、合計銀1貫61匁1分3厘になりました。しかし5人が回収できるのは貸銀100匁につき6匁8分にすぎず、たとえば銀144匁余りを貸していた東方村役人の場合、戻ってきたのはわずかに9匁8分余りでした。

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「八左衛門分散請取并諸式勘定帳」


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「せり市」で売買された八左衛門のおもな道具

「せり市」で売買された八左衛門のおもな道具

分 類 道 具 名
農 具 横槌1 ふご1 綿ず2 唐臼1 こやし又 1
五升樽1 香物樽1 弐升樽1 四斗樽1 十升樽1
庭木等 梅木1 柿木1 あんず木1 松木1 きりしま1 榎木1 生垣・つばき1
その他 堺重2 きね1 たばこ盆1 かさ1 風呂1 莚ばた1 はしご1 提灯箱1  提灯1 箒1 箱火鉢1 釣棚1 折障子4 畳8 引き出し付硯箱1 花具1 仏壇1

 ほとんどの分散で四斗樽、仏壇が売買されていることから、 これらが百姓家の必需品であったことがわかります。また多くの農具が確認できる家は、他の道具類も多く所持していたようです。

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相次ぐ破綻

 この前後、上坂部村では経営が破綻〔はたん〕する百姓家が相次ぎました。とくに安政7年(万延元年、1860)は、八左衛門家に加えて東方の伊之助家、源右衛門家の経営が破綻しました。
 伊之助家は、この当時東方に6石余りの土地を所持していました。東方410石余りの土地は42軒が所持しており、伊之助家は中位の所持高でした。東方では40石余りを筆頭に、8軒が20石以上の土地を所持しており、この8軒で東方の3分の1以上を占めるという状況でした。幕末期の農村は、多くの土地を所持する家と、土地を失う家とに村内が二分される農民層分解が顕著にすすんでいたのです。
 伊之助家は、毎年、年貢納入に苦慮し、小作米も滞りがちでした。家屋敷を担保に村の頼母子〔たのもし〕講から借金をしたり、父は、駿府加番を務める領主船越家の武家奉公人として駿府で働き給金を得るなど、ぎりぎりの家計でした。そして万延元年、ついに立ち行かなくなったのです。
 財産の処分が始まり、諸道具売り払い代銀818匁7分3厘、家屋敷代銀333匁、塚口村に住む伯父からの出銀156匁5分8厘から諸経費を引いた1貫213匁2分7厘が債権者への返済に充てられました。債権者は伊之助家が小作をしていた地主6家で、滞っていた小作米1石につき銀170匁の返済となりました。当初は家屋敷は売却されず、また1石につき75匁3分8厘の返済でしたが、債権者が納得しなかったため家屋敷が売却され、返済額が大幅に引き上げられたいう経緯があります。
 こうして伊之助家は多くの財産を失いましたが、以後も村に住み続けました。持ち家を失い「借地」となりましたが、このとき30歳を越えたばかりの伊之助は、わずかに残された田畑をもとに再起をはかったのです。

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徒党を企てた百姓

 源右衛門家も東方に7〜8石程度の田畑を所持する農民でした。先の八左衛門家同様、領主年貢米の売買に関わっているので、米商も営んでいたものと思われます。安政5年には大坂町人から貸銀の返済が滞っていることを大坂町奉行所に訴えられているので、それなりに大きな商いを営んでいたのかもしれません。しかし、年貢納入には苦慮していたようで、安政6年には年貢が9石余りも滞り、翌年とうとう分散となりました。
 年貢納入に行き詰まり、借金を重ねたうえで分散となるという道筋は、八左衛門家や伊之助家と同じですが、源右衛門家の場合、事情はもう少し複雑かもしれません。それは、安政5年に旗本船越家領の摂津国5か村が「御改革」を領主に願い出ており、源右衛門はその中心人物のひとりだったから です。
 残念ながらこの願いの具体的な中身はわかりませんが、この頃領主船越家の財政は多くの旗本家同様、危機的状況にあり、村々には度々御用金が賦課〔ふか〕されていたようです。年貢の取り立ても厳しかったものと思われます。そこで一部の百姓は、領主に財政改革を願い出ることを目論〔もくろ〕んだようなのです。ところがこれに同意しない者との間で村方騒動〔むらかたそうどう〕に発展し、結局、「徒党」を企てたことを理由に、中心人物たちが処罰されました。源右衛門はその1人で、数十日間の手鎖を命じられましたが、村から歎願書が出されていますので、支持者は多かったようです。
 この一件と源右衛門家の分散が直接関係したのかどうかわかりませんが、一件終了直後に分散となっていることから、この騒動に奔走する間に家の経営は一層苦境に陥〔おちい〕り、分散に追い込まれたのかもしれません。
 分散後、源右衛門は8歳の息子に戸主の座を譲り、1年後、ふたりの子供を残し失踪しました。家には姉弟が残されましたが、弟にかわって14歳の姉が戸主となり、残された田畑を小作に出したりして生計を立てていたものと思われます。子供だけの家なので、村や親類もなにがしかの援助をしていたのかもしれません。
 それから3年後、源右衛門が大坂の堂島中三丁目(現大阪市北区)に居ることがわかりました。庄屋は、村へ連れ戻すよう領主から命じられたことを源右衛門に伝えますが、源右衛門は、商売が軌道に乗り始めたことを告げ、稼いだお金を持って帰村したいと申し出ました。一旗揚げずには帰村できなかったのでしょうか。結局源右衛門は、今しばらくは大坂で頑張ることにしたようです。慶応3年(1867)の宗門改〔あらため〕帳にも、源右衛門の名は見えず、2人の子供が家を守っていました。

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源右衛門が大坂で発見されたことがわかる文書

  

地域研究史料館蔵、徳永孝哉氏文書

(意 味)
当村源右衛門が大坂堂島中三丁目西の伊賀屋卯之助の借家に住んでいると耳にされ、村へ連れ戻すよう仰せ付けられました。このことを源右衛門へ申聞かせましたところ、有難いことではございますが、いまだ商売もままならないところ、住居もない村に帰っても難渋するだけです。商売で成功してお金を持って帰村したいので、今しばらく猶予下さるよう願ってくれと申し出ております。このこと御憐愍〔れんびん〕をもってお聞き届けいただきますれば有難いことでございます。
 慶応元年12月22日 上坂部村庄屋 徳永俊蔵
御地頭様(上坂部村領主・旗本船越氏)
    御役所

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 天保8年(1837)2月尼崎藩領武庫郡西新田村の善兵衛家の土蔵が盗賊に破られました。
 盗まれたのは茶立嶋の綿入(裏を付け中に綿を入れた衣服)・袷〔あわせ〕(裏を付けた着物)、浅黄立嶋・地白小紋、羽織、風呂敷など18点で、いずれも木綿製品でした。
 同村では5月にも三左衛門家の納屋が火事となったおり、木綿製の衣類8点が紛失し、盗賊の仕業と届けられています。貨幣や年貢米が盗まれることもありましたが、多くの場合、衣類が盗難に遭っており、そのほとんどは、木綿製でした。
 江戸時代、武士や富裕層は絹を着用することが多く見られましたが、ふつう農村では木綿製の衣類を着ていました。そして衣類は古着市場で売買され、何人かの手に渡りました。衣類は貴重な財産であり、ゆえに盗賊にねらわれたのです。

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再起をはかる百姓たち

 親子2代にわたって分散となった百姓家もあります。
 嘉永2年(1849)、兵蔵家が分散となりました。兵蔵家は借金を重ね、家屋敷も質入れし、凌いでいましたが、ついに破綻したのです。
 梁行〔はりゆき〕2間・桁行〔けたゆき〕5間の藁葺〔わらぶ〕き家屋に、家族と慎〔つつ〕ましやかに生活していたようですが、この家は天保12年(1841)に銀550匁で質入れしています。1か年に利息ともで82匁5分の返済を10年間続ける約束でしたが、とても返済できるような額ではなかったらしく、天保14年には銀189匁、同15年には銀280匁を、家屋敷を質入れした同じ相手から借りています。返済のために借金を重ねるという、悪循環に陥っていたことがわかります。
 分散となった兵蔵は、息子新助に戸主の座を譲り隠居しました。58歳のときのことでした。26歳と若い息子新助は、経営の立て直しに努力したのでしょうが、万延元年には東方に2石余りの土地を所持するにすぎませんでした。これでは妻と子供3人、弟・妹3人、そして父母という大家族が生活していくのは相当困難だったのでしょう。借金を重ねたあげく、文久元年(1861)、同家はふたたび分散となったのです。
 このように幕末期、多くの百姓が経営に苦しみ、長年にわたって築き上げた財産を失うことも少なくありませんでした。兵蔵・新助のように親子2代にわたって分散となることもありました。しかし、新助もふたたび家再建の歩みを始めています。厳しい社会状況のなか、百姓たちはたくましく再起をはかり、社会もそのチャンスを与えていたのです。

もっと詳しく調べるには
 百姓の財産のうち、土地は検地帳・名寄〔なよせ〕帳などから知ることができますが、どのような道具を所持していたかは案外わかりません。中小の百姓家の場合、なおさらです。
 ここで用いた分散に関する史料は、制約はありますが、百姓の財産を垣間見〔かいまみ〕ることができる数少ないものです。分散史料は意外と残されていますので、活用することでいろいろな発見があると思います。
 分散については、宇佐美英機「『分散』と『出世証文』」(国立歴史民俗博物館『歴博』88、平成10年5月)をご参照ください。
 また道具については、小泉和子『室内と家具の歴史』(中央公論社、平成7年)をご参照ください。

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