近世編第1節/幕藩体制の成立と尼崎1/織豊期の尼崎 戦乱から平和へ(横田冬彦)




信長から秀吉へ

 永禄11年(1568)9月、織田信長は将軍足利義昭をいただいて上洛。そのまま山城・摂津・河内・大和を席巻〔せっけん〕。摂津・河内に勢力を伸ばしていた三好三人衆らを阿波に追い返し、義昭を将軍に擁立〔ようりつ〕しました。
 この時、信長は尼崎本興寺に「禁制〔きんぜい〕」を与えています(後掲「織豊時代 尼崎地域の禁制」の史料1)。
 これは本興寺に対する、軍勢の略奪や暴力行為などを信長が厳禁したもので、そこが信長の特別な保護下に置かれていることを証明するものです。戦争が起こりそうな場合や、新たな支配者が現れた場合に、その保護を得ようとして禁制が求められますが、そのためには「制札銭」などと言われる礼銭・礼物や、発給者の勝利を祈祷〔きとう〕するなどの奉仕が必要でした。
 このように禁制は、その地域の実質的支配者が誰であると認識されたかを示しています。現尼崎市域に出された禁制の一覧を示す後掲の表を見ながら、この地域の政治状況の変遷を追ってみることにしましょう。
 永禄11年に信長に次いで、足利義昭の奉行人から得ているのは(史料3)、義昭が信長によって将軍に擁立されたからです。そして、元亀元年(1570)10月に篠原実長ら三好三人衆がふたたび現れるのは(史料5)、石山本願寺を中心とした反信長連合の巻き返しが尼崎にまで及んだことを示し、元亀3年に信長禁制が長遠寺〔ぢょうおんじ〕に出された(史料7)のは、それを信長が克服しつつあったことを示していると思われます。
 この間、信長の武将として摂津攻略を行なっていたのは、有岡〔おりおか〕城に拠〔よ〕った荒木村重〔むらしげ〕でした。天正2・3年(1574・5)頃の村重の禁制(史料8〜10)は摂津がほぼ平定されたことを示します。ところが天正6年10月、荒木村重は信長に反旗を翻〔ひるがえ〕し、翌7年には破れます。このため、天正8年に入るとふたたび信長の禁制が見られ、10年6月に信長が本能寺の変で倒れると、以後は秀吉とその配下の武将たちに代わります。
 その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いまで禁制が見られないのは、秀吉の全国統一のもとでおおむね摂津地域の平和が維持されていたことを示しています。慶長19・20年の大坂の陣では豊臣秀頼の禁制も出されていますが(史料23・25)、以降禁制は必要でなくなりました。中世の長い戦乱の時代は、近世の泰平の時代に変わったのです。


永禄11年「織田信長禁制」(本興寺文書)

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織豊時代 尼崎地域の禁制




典拠:Aは『尼崎市史』第5巻、Bは『箕面市史 史料編2』、その他は『兵庫県史 史料編 中世1』の文書番号を示す。
1:本興寺文書27、2:多田神社文書450、3:本興寺文書28、4:多田神社文書455、5:本興寺文書31、6:本興寺文書32、7:長遠寺文書1、8:本興寺文書35、9:長遠寺文書2、10:滝安寺文書B、11:中山寺文書9、12:名塩村文書1、13:西宮神社文書2、14:興正寺文書A、15:興正寺文書A、16:興正寺文書A、17:吉井良尚氏所蔵文書2、18:栗山文書A、19:栗山文書A、20:栗山文書A、21:興正寺文書A、22:西村文書3、23:教行寺文書27、24:興正寺文書A、25:教行寺文書28

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禁制の消滅が意味するもの

 先の信長禁制をもう少し詳しく見てみることにしましょう。
 「濫妨〔らんぼう〕」とは、穀物・諸道具・牛馬などの略奪のことであり、今日言うところの人間に対する暴力行為としての乱暴はここでは「狼藉〔ろうぜき〕」と言われます(なお誘拐〔ゆうかい〕・かどわかし=拘引は当時「人取」と言われた)。「放火」は家屋その他の建築物への放火であり、「陣取」は「寄宿」とも言われ、軍隊駐留のための強制占取。「竹木の伐採」は砦〔とりで〕その他軍事上の構築物などのための徴発です。「禁制」とは、信長の軍隊(当手軍勢)が、本興寺および寺中境内においてこうした行為を行なうことを禁止したものです。もし行なわれれば信長が厳罰に処するということを記し、そこが信長の特別の保護下にあることを証するのです。逆に言えば、それによって保護されないところでは、「濫妨・狼藉」などは当然の戦闘行為として行なわれました。そうした礼銭が出せないのであれば、寺も百姓の村々も、みずから武装して自衛するしかなかったのです。
 たとえば信長が荒木村重を攻めたとき、「在々所々百姓」たちが信長側に従わず、甲山〔かぶとやま〕へ籠〔こ〕もったため、信長軍は「濫妨」し、山探しをして捕えた者を「切捨」て、西宮・住吉・芦屋・御影〔みかげ〕の「宿」や所々を「放火」し、「兵糧〔ひょうろう〕」その他をほしいままに「取来」り、生田森(社)に「陣取」をしました(『信長記』)。それが戦国時代の戦争のやり方でした。禁制には「苅田〔かりた〕」という条項がありますが、「兵糧」を自前で各自調達することになっている軍隊にとっては、戦闘地域で「苅田」を行ない、敵とみなされた者を略取し、人馬や食料の略奪を行なうことは当然のことで、それが信長の戦争でもありました。
 しかし秀吉の戦争は、そうした方式を根本的に変えました。天正11年の本庄〔ほんじょう〕村等宛て禁制(史料17)に「百姓に対して非分を申し懸〔かけ〕る」ことを禁止する文言が入り、特に天正18年の小田原攻めの時には村々に宛てていっせいにこの文言を含む禁制が発給されたことが知られています。同時に秀吉の軍隊には、明確な敵地以外での略奪・放火が厳しく規制され、そのかわり兵糧が秀吉から支給されました。太閤検地はその膨大な兵糧を確保するために行なわれたのであり、秀吉は百姓の武装解除(刀狩令)と年貢納入を代償に、戦乱からの百姓の安全と耕作専念を保障することを掲げたのです。
 その後、関ヶ原の戦いと大坂の陣というふたつの戦争を経て、近世の公儀は、すべての国土に平和と安全(惣無事〔そうぶじ〕)を保障しました。もちろんそれは武士による軍事力によって守られた平和ではあったのですが、戦争状態があたりまえで特定の地域にだけ平和を保障するという禁制の消滅は、長い戦乱の中世から泰平〔たいへい〕の近世への転換を象徴していました。

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荒木村重

 信長に反旗を翻〔ひるがえ〕した荒木村重は、西摂国衆〔くにしゅう〕のひとりであった池田氏の郎党にすぎなかったのですが、しだいに頭角を現し、信長方に与〔くみ〕してみずから摂津攻略の担い手となり、天正元年には信長から摂津一国支配を任されました(一職支配)。旧主池田氏を追ってその所領を収め、また伊丹親興〔ちかおき〕を滅ぼして、伊丹城を有岡城と改めて居城とし、従五位下摂津守に叙任されました。
 その後は秀吉とともに播磨攻略にあたっていましたが、天正6年10月頃、信長に異心を抱いているとの噂が流布し、その弁明に安土へ赴〔おもむ〕こうとしたのを、行けば殺されるであろうと従兄弟の中川清秀に制止され、11月、茨木城の中川清秀や高槻城の高山右近らとともに反旗を翻すことになりました。信長との対立を深めていた石山本願寺を中心に、播磨攻略をはさんで対峙していた毛利氏、毛利氏に亡命していた足利義昭らの反信長戦線に与したことになったのです。勅使を立てて本願寺と和解した信長の攻撃で、高山右近・清秀が降伏、有岡城の村重は尼崎城にいる子の村次とともに10か月の籠城に耐えましたが、天正7年10月、村重は単身尼崎城に入りました。有岡城は陥落し、信長は、明智光秀の娘である村次の妻を除いて、残された村重の妻子・一族36人を京都六条河原で処刑し、家臣やその妻子郎党など120人を尼崎城に近い七松〔ななつまつ〕で磔〔はりつけ〕、500余人を4棟の家に籠〔こ〕めて火を付け、焼き殺しました。12月村重は花熊城を経て、毛利氏のもとへ亡命、剃髪〔ていはつ〕して道庵と号し、信長死後は堺に隠棲〔いんせい〕しました。
 この村重謀反〔むほん〕に誘われながら有岡城を攻囲する側に廻った光秀が、本能寺の変で、自らの娘ガラシャを嫁がせた細川氏や、高山右近・中川清秀らの協力を得られず敗北したのは、それから3年後のことでした。



荒木村重の署名「信濃守」と花押
(本興寺蔵、天正2年3月吉日「荒木村重禁制」より)

〔参考文献〕
八木哲浩編『伊丹資料叢書4 荒木村重史料』(昭和53年)

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太閤検地

 豊臣秀吉の行なった土地調査を太閤検地と言います。天正12年頃から始まりますが、市域には、文禄3年(1594)の検地帳が残っており、川辺郡椎堂〔しどう〕村・富田〔とうだ〕村では舟越〔ふなこし〕五郎右衛門が、猪名寺村では片桐且元が、善法寺村・万陀羅寺〔まんだらじ〕村・岡院〔ごいん〕村では山岡如軒、上坂部〔かみさかべ〕村では宮木藤左衛門、潮江村では矢島藤兵衛らによって検地が行なわれたことが知られています。豊臣政権の奉行たちを動員して、一円的・いっせいに行なわれたと考えられます。
 このうち椎堂村や額田〔ぬかた〕村など、現存するいくつかの検地帳によれば、一筆〔いっぴつ〕ごとに、小字〔こあざ〕名、田畠・屋敷の別と等級、面積、分米〔ぶんまい〕高、および百姓名が書かれ、面積の単位は中世以来の360歩〔ぶ〕=1反制をやめ、1反=300歩制を採用しています。なお、これらの村では、自村の百姓が持つ土地は村高のおおよそ3分の2程度、残りは他村からの出作で、この段階ではなお村民の耕地が村落間で錯綜〔さくそう〕していたこと、にもかかわらずこの検地が村域を地縁的に確定したこと(村切り)がわかります。また自村の百姓のうちでも屋敷地を持たない零細な小百姓も多く、そうした者にも名請〔なうけ〕=土地所有を認めたことがわかります。
 天正17年の検地に際して石田三成が浜田村に出した掟〔おきて〕書(地域研究史料館蔵、寺岡得夫氏文書)によれば、@この検地帳に記載された名請人に「作職〔さくしき〕」=土地所有権は認めるが、年貢納入を怠れば取り上げるとし、さらにA年貢の付加税(口米〔くちまい〕)率を2%に限定すること、納入枡〔ます〕を京枡にすることを定めています。
 なお、ある村の検地帳には「かわた」の肩書を持つ名請人も記載されており、彼らの土地所有権は百姓と同様に認められたのですが、一村として独立することは認められず、百姓の村に枝村〔えだむら〕として従属させられました。


文禄3年「椎堂村検地帳」
(地域研究史料館蔵、門田隆夫氏文書)


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豊臣秀吉の朱印状−年貢率をめぐる領主と農民

 検地によって算出された村ごとの生産高=村高に対して一定の年貢率を乗じて年貢量が決められるのですが、左の天正14年の秀吉の朱印状によれば、@年貢納入率については、以前に定めたように給人と百姓が相対〔あいたい〕(当事者間の合意)で決めるが、もし「損免」(水害等による控除分)について争論が起これば、実際の立毛〔たちげ〕=収穫を三分して一を百姓が、二を給人が取ることとする。A「土免〔どめん〕」といって、春にあらかじめ年貢率を決めておく方式(豊作であればそのまま百姓の剰余になる)は認めない。それを許した給人も同罪。B耕作している田畠の耕作を返上する(一種のストライキ)百姓は処罰する。C他郷へ逃亡する百姓がいたならば処罰する。その百姓を抱えた村も同罪。などとあって、年貢率の決定にあたっては、合法的訴訟から、集団的な逃散〔ちょうさん〕や耕作罷業〔ひぎょう〕まで、さまざまな抵抗が繰り広げられていたことがうかがわれます。


天正14年「羽柴秀吉掟書案」
(唐招提寺蔵、大覚寺文書)
写真提供:奈良文化財研究所


天正14年「羽柴秀吉掟書案」解読文


〔参考文献〕
高木昭作「乱世」(『歴史学研究』574、青木書店、昭和62年)
小林清治『秀吉権力の形成』(東京大学出版会、平成6年)
安良城盛昭『太閤検地と石高制』(NHKブックス、昭和44年)

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