近世編第4節/幕末動乱期の尼崎3/慶応元年武庫川大洪水(岩城卓二)





「慶応元年武庫川洪水の瓦版」
48cm×34.8cm(地域研究史料館蔵)
『地域史研究』28−3(平成11年3月)に翻刻文を掲載しています。

武庫川堤防決壊する

 第二次長州征伐のため将軍家茂〔いえもち〕が大坂城入りした直後の慶応元年(1865)閏5月29日昼八つ過ぎ頃、武庫川堤防が決壊しました。決壊したのは武庫川が枝分かれする場所で、連日の大雨に堤防が耐えきれず、最初に東岸、続いて西岸と、両岸堤防が決壊し、尼崎城下まで水が押し寄せるという大惨事となりました。この数日、大坂・京都周辺は相当な大雨に見舞われたようで、京都町人の日記によると、27日は夜から雨が降り、翌28日は「折々細雨降、夜大雨、終夜降」、そして翌29日「雨降」と3日続きの雨模様だったことがわかります(『幕末維新京都町人日記』清文堂出版)。
 上の写真は、この武庫川洪水を知らせる瓦版です。西摂〔せいせつ〕(摂津国西部)の災害を知らせる瓦版は珍しく、そのことがかえってこの洪水の猛威を物語っているとも言えますが、残念なことに決壊したのは「五月廿八日」、「前々日より大雨ニて山川の水あぶれ」と誤報しています。大坂町人の日記にも、「閏〔うるう〕五月廿九日頃、雨天続にて、武庫川つゝミきれ、尼か崎大水難義のよし承り申候」と記されていることから(『幕末維新大坂町人記録』清文堂出版)、武庫川洪水の情報は広く駆〔か〕けめぐっていたものと思われます。おそらくこの瓦版は現地取材などせずに、そうした伝聞情報をもとに摺〔す〕られたのでしょう。
 この瓦版からは、「近在ことごとく水ニつかり尼ケさきの町大ニこんざつ」し「大道を舟ニて往来」するあり様で、「家牛馬諸道具等ながれきたる」と、尼崎城下が大きな被害に見舞われたことがわかります。また流失家屋420軒余り、破損村数30余か村、負傷者は数知れずと、被害の大きさがわかります。記事の信憑〔しんぴょう〕性はさておき、瓦版屋の関心を引く程の大きな災害であったことは間違いなく、末尾には昔から大きな災害があるたびに被害状況を伝える瓦版を摺っており、今回も知音縁者〔ちいんえんじゃ〕の安否確認の一助になればと、板行理由が記されています。

戻る

繰り返された洪水

 瓦版は130年ぶりの大洪水と記しています。武庫川は何度か大きな洪水を引き起こしていますが、大洪水として知られているのは正徳2年(1712)7月と元文5年(1740)6月・閏7月の洪水です。瓦版が記す130年前の洪水とはおそらく後者のことで、6月には西岸および枝川各所で破堤、閏7月には流水が堤防をあふれ出し、さらに破堤するという大惨事となりました。流下した水が庄下〔しょうげ〕川に流れ込み、増水によって城下の橋も崩れ落ちたと言います。また閏7月には藻〔も〕川西岸も破堤し、多くの犠牲者が出ています。危うく難を逃れた人々を待っているのは、河原と化した田畑の復興です。洪水は大量の土砂をともなうため、農地へと蘇〔よみがえ〕らせるにはたいへんな労力と時間を要しました。
 この元文5年以降、武庫川の洪水は次第に沈静化し、大きな水害は確認されていません。これは、水害を引き起こす河川への土砂流出を防ぐ工事が、武庫川上流部で行なわれるようになったためだと言われています。しかし大きな水害経験者がいなくなった慶応元年、武庫川は百年の眠りから目覚め、ふたたび洪水となって人々を襲ったのでした。
 被害状況は史料によって異同がありますが、東岸では山田新田で200間〔けん〕以上破堤しました。山田新田付近は武庫川が蛇行〔だこう〕し枝川に分流する水勢の強い場所で、ここで決壊するとすさまじい勢いの洪水が人々を襲うことになり、水堂〔みずどう〕・今北・浜田・東大島村で床下浸水、守部〔もりべ〕・西大島・東新田・西新田・道意〔どい〕新田の各村と尼崎城下は床上浸水という大惨事となりました。さらに東岸に続いて、西岸でも約50間の長さで決壊し、両岸で大きな被害となりました。

戻る

道意新田村の被害

 災害後、被害前後の状況が人々によって記録されることがあります。後年の教訓としたり、あるいは読み返すことで次の災害時の対応に生かそうとしたのかもしれません。
 慶応元年洪水も記録されています。道意新田村の橋本治左衛門の記録から、人々の対応と被害を見てみることにしましょう(地域研究史料館蔵、橋本治左衛門氏文書(3)。
 治左衛門をはじめ道意新田の人々が武庫川決壊を知ったのは、噂〔うわさ〕からでした。遠望できる場所に大勢が集まったものの、確かなことがわからないまま時を過ごしていたところ、今北村東方(道意新田村の北西約1.5km)に達した洪水が目に入りました。そのため人々は慌〔あわ〕てて帰宅し、洪水への備えに懸命となりました。
 治左衛門は飯を炊き、収穫したばかりの菜種は2階に上げ、四斗樽の上に板を敷いて米・麦を積み上げました。洪水が押し寄せてきても作業は続けられ、畳・建具・ふとん・長持〔ながもち〕・帳箪笥〔だんす〕が2階に、香の物は舟に積み込み守られました。最初に収穫したばかりの菜種の保全を図っているところには、商業的農業に生きる農民の姿が垣間見〔かいまみ〕られます。
 こうした財産の保全は治左衛門と2、3人の使用人で行ない、家族はいち早く蔵の2階に避難させました。しかし蔵は出入り口が一つで危険だということになり、家族を舟に移し、一夜を過ごすことにしました。大急ぎで舟に乗り移ったため舟に持ち込めたのは飯櫃〔めしびつ〕・提灯〔ちょうちん〕・蝋燭〔ろうそく〕・火打ちだけで、寝間着1枚の治左衛門にとって寒い一夜となりました。
 他の村人は道意新田村を囲む堤防に避難したり、最初から舟で避難すると決めた人はたくさんの道具を積み込んでいました。これを見た治左衛門は判断を誤ったと考えたのでしょう。「残念之事、以来後々年迄〔まで〕心得置事」と記しています。

戻る

尼崎藩の対応

 武庫川決壊の報は尼崎藩江戸屋敷にももたらされました。藩政の中心にいた服部清三郎は「堤切〔つつみぎれ〕、御城下満水之由〔よし〕、扨々仰天仕〔さてさてぎょうてんつかまつり〕候」と、尼崎の家老宛の手紙に認〔したた〕めています。
 続けて、服部は今北から浜田辺りは流失したのではないかと案じ、詳細がわからず「日夜懸念」しているが、怪我〔けが〕人が少なかったことは幸いだと述べるとともに、「夫食〔ぶじき〕御手宛〔てあて〕等定而莫大〔さだめてばくだい〕之御事」と認めています。
 藩は、まずは被災民への「夫食御手宛」=食料供給に努めねばなりませんでしたが、武庫川堤防の修復にもいち早く取りかからなければなりません。もたもたしているうちに再び大雨に襲われると、たいへんなことになります。堤防の修復は一刻を争う課題でした。
 この堤防修復のために村々から人足が動員され、諸費用は村々に賦課〔ふか〕されました。しかし、尼崎藩も相当な出費をしたものと思われます。服部が「日夜懸念」していたことのひとつは、財政が逼迫〔ひっぱく〕するなかで降りかかった、こうした膨大〔ぼうだい〕な額にのぼるであろう復興資金でした。
 そこで服部は、幕府に拝借金を願い出ることにしました。「幸いなことに御勝手月番老中は懇意とする宮津藩主本荘宗秀であるため、願い出てみる」と、尼崎の家老に書き送っています。
 この願書の下書きが残されています。冒頭で大坂城守衛、海岸防備、砲台場〔ほうだいば〕築造、大和国十津川一揆・但馬銀山一揆・禁門〔きんもん〕の変の出兵などをぬかりなく勤めてきたが、そのための出費も相当で、借金で凌〔しの〕いできたことが記されます。そしてこれからも万事怠〔おこた〕りなく御奉公に出精したいが努力すればする程出費がかさむと、御奉公に努力する藩の姿勢を強調しながら、武庫川洪水についてふれます。「領分出水之儀ハ百年以来未曾有〔みぞう〕之荒ニて、堤切川欠等普請〔ふしん〕所ハ一日も難取置〔とりおきがたく〕、身上不相応之入費相掛、其外建屋流失、田畑渕成〔ふちなり〕・土砂入等ハ勿論〔もちろん〕、夫々窮民扶助〔それぞれきゅうみんふじょ〕之手宛向等夥敷〔おびただしき〕入費」と、堤防修復、被災民救済、復興支援に莫大な費用を要するので、1万5千両拝借したいと言うのです。
 家屋の修復、田畑の整備などの多くは村・個人の責任で行なわれましたが、尼崎藩もその費用をすべて領民に賦課するのではなく、領主として復興に努めようとしたのです。
 この拝借金が幕府に願い出られ、受理されたのかはわかりませんが、軍事出費に苦しむ藩財政をさらに苦境に追い込んだことは間違いありません。人々に甚大〔じんだい〕な被害をもたらした慶応元年の武庫川洪水は、藩財政にも決定的なダメージを与えることになりました。
〔参考文献〕寺田匡宏「近世民衆の見た災害と復興」(『地域史研究』28−3、平成11年3月)

戻る

護岸と修復



戻る