近世編第1節/幕藩体制の成立と尼崎4/城と城下町−港と町屋−(中村光夫)
尼崎の城下町には、武家屋敷の区画とは別に、町人たちが住む町屋の区画がありました。町屋の区画のうち、城の東方の大物〔だいもつ〕・辰巳・風呂辻・市庭〔いちにわ〕・別所の5町は、中世以来の港町である大物・尼崎の区域です。城の西方の宮町・中在家〔なかざいけ〕の2町は、城の用地となった地区からそれまで砂州〔さす〕であった新開の地に移されて来ました。八つ目の町は築地町で、それまで城地の南端を通っていた中国街道を迂回〔うかい〕させるために、城の南側の葭島〔よしじま〕を造成して寛文4年(1664)にできました。
船着き場
寛永12年(1635)の城下絵図を見ると、大物町と東町(辰巳・風呂辻・市庭・別所町)の町場には、「舟乗場」の文字や港の施設である「石カンキ(雁木〔がんぎ〕)」が描かれています。後掲の図に抜き出したように、大坂への舟乗り場が、かつての長遠寺〔ぢょうおんじ〕に近い辰巳町の長遠寺浜と、大物橋のたもとの大物浜にあります。大物浜に面する町並みは旅籠屋〔はたごや〕が軒を並べていたようで、文政8年(1825)の記録に、その1軒の有馬屋忠右衛門宅は尼崎藩が公用で使う定宿とあります(澤田兼一氏文書、本編第3節1コラム参照)。辰巳町には、大坂への街道が通る佃〔つくだ〕島との間を往復する渡し場もありました。この渡し場は尼崎藩領の東の境にもなっていて、領内追放の刑を受けた人たちがここから他領に出されています。
「別所ハマ」(別所町南側の浜)には漁業や商売の神様の戎〔えびす〕社が祀〔まつ〕られていて、廻船や漁船などの荷の積み下ろし、取り引きでにぎわったことでしょう。ところで、この浜に描かれている石雁木は参考図のように石の階段状の施設ですが、この浜は藩の軍船の船着き場だったのかもしれません。この一画は城に接していて、後には松平氏時代の図のように藩の御舟小屋になっているからです。
別の城下絵図には、中在家町東端(庄下〔しょうげ〕川の西岸)にも雁木が描かれ、また、中在家町五丁目浜の魚市場に多数の漁船が着岸している様子が描かれています。中世以来の港町であった大物町・東町だけでなく、城の西部地区・西町にも港の施設がありました。
町屋と街並み
大物町・東町の町並みは、城下町らしく一応方形の町割りになっていますが、風呂辻町の例のように間口幅も敷地の形状も不統一で家々の入口も街区の四方に向いています(本編第2節3参照)。長年の所有者の変遷によって屋敷地の合筆〔がっぴつ〕が繰り返されたせいもありますが、城下町建設の際に町中にあった寺院を寺町に移転させたり道路の拡幅・新設をして、中世以来の町並みを外形だけ整形した結果でしょう。
それに比べて築城時に新設された中在家町の町並みは東西方向に長い長方形街区をしており、幕末の慶応2年(1866)の絵図(「中在家町町並み復元絵図」)を見ても街区の南北二面に入口の並ぶ短冊形の屋敷地割りが基本となっています。これは近世城下町に典型的な町並みです。屋敷地は、なかには10間以上の間口もありますが、多くは2〜5間間口で、街道筋に面した列の屋敷地はすべて奥行き14間、その背中合わせの屋敷地はすべて9間と、東西方向は同じ奥行きが基本になっています。これも、この町が築城時に計画的に建設されたことを示しています。
梶久右衛門家は、その中在家町に店と住居がありました。梶家はかつて大物町に屋敷があり、戸田氏鉄が元和3年に初めて尼崎に入部したとき休息したという伝承のある肥料商です。大物町からの移転の時期は不明ですが、中在家町の名主〔なぬし〕を務めた家ですから古くからの住人なのでしょう。梶家の住居は街道筋から二筋南の浜筋の通りに南面していましたが、同じ街区の北側・中筋の通りに面した貸家と土蔵・納屋のある敷地とは背中合わせにつながっていました。住居は合計8間間口の屋敷地、また貸家・土蔵等は合計12間間口の敷地でした。
尼崎の城下には、整然とした町割りのなかに、町屋と侍屋敷と城という多様な風景が展開していました。
〔図版の出典〕
「寛永12年尼崎城下絵図」(大垣市立図書館蔵)。この絵図の全体画像については本節の「この節を理解するために」参照。
「中在家町町並み復元絵図」(公手博・地域研究史料館・神戸大学地域連携センター制作)
「尼崎城下風景図」(尼崎市教育委員会蔵)
「文政10年梶久右衛門家屋敷図」(地域研究史料館蔵)
〔参照項目〕
本編第2節6「行き来する舟」