近世編第2節/成長する西摂地域5コラム/象が通る(岩城卓二)
「御用の象」
享保13年(1728)6月、現在のベトナム産の象2頭が長崎に入港しました。8代将軍吉宗への献上品で、長崎でメスが病死したため、オスだけが江戸へ連れて行かれることになりました。
象は翌14年3月に長崎を出発しましたが、なにしろ将軍への献上品である「御用の象」でした。ただの動物が通行するのとは訳が違うのです。
大名・幕府役人通行時のもてなしには慣れている沿道の人々も、おそらく象を目にした者すらおらず、はじめての経験に戸惑いました。とりわけ領主たちは、「御用の象」にもしものことがないようにと緊張し、道筋の村々にさまざまな指示を出しています。道筋から離れた村の人々は象を一目見ようと集まったことと思われますが、領主や道筋の村々にとっては珍しい動物の見物どころではありませんでした。
後掲の史料は、出発にあたって長崎奉行から道筋の領主に、象通行の心得を申し渡したもので、この内容を領内に通達するよう命じています。
過剰な対応は必要ない。通行に関わる負担を村々に命じる必要はない。長崎奉行は御用象の通行に支障がないように通達するだけだ。とわざわざ強調しますが、おそらく領主や村々はそうはとらなかったでしょう。将軍に献上される象に、もしものことがあっては一大事です。そのため道筋となった尼崎藩領では、さっそく象通行の準備が始められました。
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村々の対応
4月に領内に通達された尼崎藩の触〔ふ〕れでは、事細かな指示が出されています。象通行の当日は道筋より5間〔けん〕(約9m)に縄を張り、見物人は静かにするよう申し付けること。珍しい動物なので、他所〔よそ〕者が見物したいと言ってきても断ること。道筋に犬・猫が出ないようにすること。象の視界に牛が入らないようにすること。鐘・太鼓・拍子木〔ひょうしぎ〕、鍛冶屋〔かじや〕など大きな物音を出す商売は、当日の朝から象が半里(約2km)通り過ぎるまで止めること。煙が上がる職や普請〔ふしん〕も同様。見物人が騒がないようにすること。すだれに莚〔むしろ〕などを下げているところは取り払うこと等々。当日は仕事どころではないという、厳しい規制がしかれたことがわかります。そして通行時にはかぶり物は取り、たばこも禁止という見物者の作法は、幕府役人など高い身分の者の通行時と同等の対応で、藩が不始末の起こらないよう緊張していたことがわかります。
同じように、道筋の村々も緊張していました。行列の警備、象小屋・飼料に関わること、道筋の整備、同行者のもてなし等を、先に通行した村々にみずから問い合わせ、万事ぬかりないよう準備しているのです。
象小屋内の土はよく固めること。道筋が砂だと象が鼻から口へ入れてしまいよろしくないので、土で固めておくことなど、藩からは指示されていない、すでに象が通行した村々であるからこそわかるような具体的な情報を入手しています。さらに道筋家々の前には、手桶・柄杓〔ひしゃく〕を置いたことも知りました。これは身分の高い者が通行するときに道筋で行なわれた作法で、象が丁重な扱いを受けていたことがわかります。
過剰な対応は必要ないという長崎奉行の命とは逆に、領主も村々も、もしものことがないように過剰な反応をしたのです。長崎奉行は、そうした人間の心理を最初から読んでいたのかもしれません。
駆けめぐる象の情報
渡来象のことはさまざまな記録に書き留められ、その様態が描写されました。象遣〔つか〕いが象と会話できること、江戸でたくましい武士が象に近づき挨拶を交わしたことを揶揄〔やゆ〕した話などが残されています。こうした珍しいできごとや事件はまたたく間に日本中に伝えられ、また珍談・奇談を集めた書物も刊行されました。江戸時代人もゴシップ好きで、また重要な政治情報にも通じていました。
上と下の図版は『難波噺〔なにわばなし〕』(国立公文書館蔵)のうち享保渡来象について記した部分です。
同書によると、オスの象は全長約3m、高さ約1.8m、胴回り約3m。耳はコウモリの羽に似ており、約40cm、鼻は約1mと記されています。また六、七百年も生きると思われていたようです。
1日に草3荷・大豆8升、水6〜7升を食し、好物は芭蕉〔ばしょう〕の葉・根だったようです。蟻〔あり〕は大の苦手で、鼻で砂を吹き散らすのはそのためだと記されています。
また象遣いは45歳ぐらいの男性で、中国人とは違った服装をしていたこと、鳶口〔とびぐち〕と手綱〔たづな〕で象を自由に扱っていることなどが記されています。
〔参考文献〕
石坂昌三『象の旅』(新潮社、平成4年)
山崎幸恵「享保渡来象の馳走について」『地域史研究』29−3(平成12年3月)