近世編第3節/人々の暮らしと文化2/武士の家(岩城卓二)
桜井松平家の家臣団
宝永8年(1711)から尼崎藩主家となる桜井松平家は、慶長14年(1609)遠江〔とおとうみ〕国浜松藩であった忠頼時代に所領が没収されています。しかし、その子忠重は8,000石の知行地を与えられ、寛永12年(1635)には、遠江国掛川に4万石を領する大名になりました(本節1参照)。
大名家としての身分と所領を失った時期には、おそらくごく少数の者を除いて一旦家臣団は解体し、忠重と、その子・忠倶〔ただとも〕の時代に、ふたたび大名家としての家臣団が形成されていったものと思われます。
尼崎に転封〔てんぽう〕となる忠喬〔ただたか〕の時代の家臣団は、給人〔きゅうにん〕・大小姓・御徒〔おかち〕などの格式に分かれていたようです。表1は享保年間(1716〜36)頃のものと思われる史料をもとに作成した、忠重・忠倶時代に給人として召し抱え・取り立てられた者の一覧です。
忠重・忠倶時代に多くの家臣が召し抱え・取り立てられていったことがわかります。しかし忠重時代に召し抱え・取り立てられた78人のうち、2代後の忠喬時代までに3分の1にも及ぶ25人が御暇〔いとま〕・断絶となり、松平家を去っています。断絶は跡継ぎに恵まれなかった場合が多いようですが、不行跡を理由に、御暇=解雇されることも少なくありません。また、17世紀初頭は、家臣がさまざまな家を渡り歩くことは珍しいことではなく、忠重が死去すると、みずから御暇を願い出て、新たな主君を探し求めた者もいました。それは、この時代の主従関係が、主君と家臣の個人間で結ばれる傾向が強かったからです。
続く忠倶時代、領地は掛川から信濃国飯山に移されます。4万石という領知高は変わりませんでしたが、依然、新規の召し抱え・取り立てが続き、その人数は112人にも及んでいます。そのうち28人は、忠重時代には見られない扶持〔ふち〕を含む形態です。50石以上の知行取が給人の条件で、それ以外の者は格式は給人に属しますが、知行取よりは下位に位置付けられる場合が多かったようです。最初は扶持取から召し抱え・取り立てられ、その後、知行取になっていくことが多いので、この史料が作成された頃には、まだ出世途上にあったのかも知れません。
また、忠重時代とは違い、御暇・断絶となった家は6家を数えるに過ぎません。これは、17世紀中頃以降になると、主従関係は主君家と家臣家という家と家との関係になっていったからです。また養子縁組も広く行なわれるようになり、跡継ぎがないことを理由とする断絶も少なくなりました。
忠喬時代にも給人の召し抱え・取り立ては行なわれましたが、前2代に比べると激減しています。享保年間頃、50石取以上の給人139家のうち、忠喬時代に召し抱え・取り立てられた家は6家程度に過ぎません。
もっともこうした召し抱え・取り立ての過程がわかるのは給人だけで、大小姓・御徒等に属する中下級家臣団のことはよくわかりません。明治2年(1869)を例にすると、藩から禄〔ろく〕を支給されていた者は、給人・大小姓・御徒が522人、小者〔こもの〕・足軽・中間〔ちゅうげん〕が834人、奥女中30人、大庄屋・菩提寺住職など75人の合わせて1,461人にものぼります。この人数には武士以外の者も多く含まれていますし、ふつう嫡子は相続前に奉公を始め、禄が与えられるため、実際の武士の家数はもう少し減ります。明治5年を例にすると士族773人、うち元50石取以上の給人に属したと思われるのは132人、士族全体の17%にすぎなかったことがわかります。
家臣団の上位に位置する給人に限ってみると、18世紀以降、その家数は大きく変動することなく、一定数で推移したものと思われます。
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召し抱え・取り立て
召し抱え・取り立てにはさまざまな契機がありました。興味深い例をいくつか紹介しましょう。
江戸町奉行から紹介された浪人を召し抱えたことがあります。北・南両町奉行より1人ずつ紹介され、15両5人扶持で召し抱えたのち、130石の知行を与えました。うち1人は御暇〔おいとま〕を願い、松平家を去りますが、もう1人の中瀬治兵衛は精勤を続け家老となり、500石高にまで出世しました。しかしその後、同家は不行跡を理由に御暇になったようです。
十八松平家の一家である藤井松平家の当主忠之が所領を没収された際、同家一族の松平権之助を引き取ったこともあります。最初10人扶持であった権之助は200石高になり、由緒ある家柄を理由に子供たちも優遇されました。しかしその後、松平から浅野へと改姓しています。主君家と同じ姓であり続けることは憚〔はばか〕られたのでしょうか。
親類である松平家の家臣家に浪人として居候していた者が、召し抱えられたこともあります。後に120石高になる高木新右衛門は、伯父の願いが聞き届けられ、家臣に加えられています。また、忠倶幼少のときに女中として精勤し、相当な地位に就いた者の功により、親類が召し抱えられたこともあります。
軍術家や儒学者としての才能が認められ、召し抱られた者もいます。才能という点では、代官手代であった中西三左衛門は興味深い例でしょう。彼が認められたのは「地方巧者〔じかたこうしゃ〕」という才能です。17世紀中頃から、農村支配に長〔た〕けた人物が求められるようになっていきました。三左衛門は代官手代という下級武士でしたが、「地方巧者」であることを理由に、忠倶時代いきなり100石高で召し抱えられています。一方で「小僧」から取り立てられ、長年地道に務め、出世を続け、最後には70石高の江戸普請〔ふしん〕奉行に就いた者もいます。
縁故、推せん、才能、長年の精勤と、召し抱え・取り立てられる理由はさまざまで、さらに上級武士である給人に属するまでにはさまざまなことがあったようです。武士の苦労が垣間見〔かいまみ〕えますが、とりわけ興味深いのは田浦源大夫です。
彼は、「切支丹〔きりしたん〕類族」で、譜代〔ふだい〕大名秋元家に奉公していましたが、どういう理由でかはわかりませんが、何度か松平家に召し抱え・取り立ての打診があったようです。近世にはキリスト教信者は厳しく罰せられ、子孫は数代にわたって幕府の監視下に置かれました。そのため、松平家では断り続けていましたが、その後、源大夫は秋元家を去り、飯山藩時代に、その領内で浪人生活を送るようになりました。宝永3年松平家は遠江国掛川に転封となりますが、その際、彼を飯山に置いていくわけにもいかず、10両5人扶持で召し抱えることにしました。田浦源大夫家は、元は松平家の家臣であったのかもしれません。「切支丹類族」が召抱えられた興味深い例で、忠喬時代、子孫は祐筆〔ゆうひつ〕に就いています。
家臣の格式
同じ家臣であっても、そのなかには格式がありました。主君御目見〔おめみえ〕や吉凶などの儀礼の際には、この序列にしたがい着座・行動しなければなりませんでした。同じ給人でも、格式の違いがありました。
家臣団でもっとも上位に位置したのは、堀家です。文化11年(1814)の史料によると、当主小三郎は460石高ですが、800石高の家老たちよりも上位に位置しています。これは、同家が忠正正室の付人として、松平家家臣団に加わったという由緒を持つためです。忠正の正室は、徳川家康の異父妹とされ、婚姻時に堀家の先祖が付人として徳川家より遣わされたという家柄のためで、「御用家老」という重職に就いたこともありました。
忠喬時代には、時の当主が不行跡を理由に蟄居〔ちっきょ〕させられ、親類の監視下に置かれたこともありました。しかし、同家が由緒ある家柄であったためでしょうか、代々、家臣団の上座という地位は維持し続けたようです。
忠喬婚姻時にも、妻の生家である戸田家から付人が遣わされています。しかし、給人に属するものの、わずか7人扶持を与えられているにすぎません。堀小三郎家とは随分異なる処遇ですが、それだけ堀家の由緒は重かったと言うことでしょう。
こうした格式は、変動することもありました。出世にともない上昇する場合もあれば、家督相続に際して、父の代よりも下がることもありました。
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江戸詰めの家臣たち
弘化2年(1845)の史料*によると、鉄砲洲の上屋敷と深川の下屋敷で260人程度が仕事をしていました。このなかには奥女中なども含まれ、家臣には家老から御伽〔おとぎ〕まで70の役職がありました。尼崎にいる家臣と同様、御徒〔おかち〕から始まって、50年後には給人にまで昇進した者や、昇進途上に病気のため降格された者、あるいは左遷〔させん〕となった者等々、さまざまな人生があったようです。
江戸詰め家臣の多くは、代々江戸詰めのことが多いようです。格式は尼崎同様、給人・大小姓・御徒などに分かれ、仕事は藩主の日常生活や大奥の庶務に携わる者が多く、知行や俸禄は尼崎の家臣と差はありませんでした。また、親の知行・俸禄、家格によって初任職が決定し、役料(役職手当)があったことなども、尼崎の家臣と多くは同じだったようです。ただ、幕末には、江戸詰め家臣の多さが藩財政を逼迫〔ひっぱく〕させているという議論が、諸藩で起きています。
* 義根〔よしもと〕益美「幕末期尼崎藩『江戸分限帳抜書』」(『地域史研究』25-2・3、平成8年2・3月)
役 職
藩にはさまざまな役職がありました。軍事を担う番方〔ばんかた〕と、行政を司る役方〔やくかた〕に大別されますが、全家臣が何かの役職に就けるわけではありません。
表2に文化11年忠誨〔ただのり〕藩主時代の役職を示しました。給人が務める役職なので、重職・要職ばかりですが、同じ序列、しかも同役職であっても、実際に得ている給米には違いが見られます。たとえば4人の家老は全員800石高の序列ですが、実際の給米は900石高が2人、720石高・500石高が各1人です。これは、家督相続の時期や、長年の精勤によって知行高が変動する場合があったためです。また、下位の者が出世を遂〔と〕げ、上位の役職に就いた場合、「役料」が支給されることもありました。80石もの役料を得る者もいましたが、辞職したり、家督相続が行なわれると役料はなくなりました。
上級給人の多くは、物頭〔ものがしら〕・使番〔つかいばん〕に就いていますが、これらは軍事のときに活躍する番方で、位は高いものの、平時は閑職でした。一方、勘定奉行・普請〔ふしん〕奉行・代官などの役方の多くは、100石以下の給人や大小姓に属する家臣が務めました。格式は低いものの、平時にはやりがいのある役職でした。とくに、藩財政が悪化する19世紀の勘定方はその代表で、むずかしい仕事ではありましたが、出世の糸口をつかめました。その1人が片岡惣左衛門です。
片岡家
同家の先祖は、譜代大名土屋家に奉公していましたが、浪人生活を送ったのち、忠倶時代の延宝元年(1673)、高野山照明院先代和尚の紹介で、保広が料理人として召し抱えられました。時に12歳、金2分・2人扶持という小禄からのスタートでしたが、代官・勘定吟味〔ぎんみ〕役を歴任し、勘定奉行にまで上り詰めました。45歳の時に給人入りを果たし、享保8年(1723)には90石高となっています。一代で給人となり、享保20年74歳で死去しました。
その後、保光、保道と続きますが、保道は嫡子に恵まれないまま32歳の生涯を閉じたため、藩内伊与田家の三男が婿養子として片岡家を継ぎました。陳好です。伊与田家は80石高程度の給人であり、同格の家から養子を迎えたことがわかります。実は伊与田家は保光の弟久禄が養子として相続した家であり、陳好はその三男でした。
陳好は江戸詰めののち、普請奉行を経て、大坂留守居〔るすい〕在職中に死去しました。続く陳由は浦廻〔うらまわり〕、寺社支配、側用人〔そばようにん〕を務めたのち、物頭に就きます。同家でははじめての番方でした。
陳由の後は、丹波国篠山藩士大塚家から17歳の養子を迎えました。この大塚家も片岡家から養子が入っており、陳好同様、養子を迎える際、血統が重んじられたことがわかります。そしてこの大塚家からの養子が、幕末期の尼崎藩で藩主忠栄〔ただなが〕の腹心として活躍する陳矩=惣左衛門でした。
片岡家系図
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片岡惣左衛門の活躍
片岡家の嫡子となった惣左衛門は文政12年(1829)、藩主忠栄の近習〔きんじゅう〕役となり、忠栄の側近として活躍を始めました。ところが天保10年(1839)雁〔かり〕打ちの際、流れ弾で足を負傷してしまいます。
その後歩行に支障を来すようになりましたが、小納戸〔こなんど〕、目付、郡代と出世を続けます。そして郡代になると、その才能を一気に開花させ、藩財政改革に手腕を発揮しました。とりわけ領内からの御用金徴収などに大きな功があり、忠栄からたびたび御褒美〔ほうび〕を頂戴〔ちょうだい〕しています。さらに藩が試みた交易会所の御用掛に任じられ、尽力しました。その才能は藩主忠栄から高く評価され、側用人にまで出世しますが、一方で家中の妬みを買い、悪評を立てられることもしばしばだったようです。そして嘉永6年(1853)、養母に対する不義を理由に、側用人免職となりました。
しかし、藩主忠栄の信頼は変わらず、寺社支配役として藩政に復帰し、当時最大の懸案となっていた忠顯=左近様御用掛に任じられます。一歩間違えれば、藩内に波風が立ちかねない難問の扱いを任されたことからも、惣左衛門が忠栄の厚い信頼を得ていたことがわかります(本編第4節1コラム参照)。その後も金穀方大元締を任されるなど幕末期の藩財政改革に大きな足跡を残し、慶応3年(1867)、67歳の生涯を閉じました。
片岡家の妻子たち
片岡家も多くの子に恵まれました。「妾〔めかけ〕」を抱えた当主もいます。武家の当主にとって家の継承をはかることが第一の課題であり、多くの子に恵まれることが必要でした。しかし、早世・病死が多く、2人の養子を迎えることで、家を継承しています。そして、未婚のまま死去した保道を除くと、保光・陳好・陳由・陳矩は何れも尼崎藩士家より妻を迎えていますが、陳貴だけは公家〔くげ〕・徳岡中務〔なかつかさ〕の娘を娶〔めと〕っています。
無事成人まで成長した男子のうち久禄は尼崎藩士伊予田家、可権は丹波国篠山藩士大塚家、陳剛は尼崎藩士家へ養子に入っています。また陳常は、忠栄から分家を許されています。この時期、片岡家がいかに藩主忠栄から重んじられていたかがわかります。女子は6人が尼崎藩士家、1人が摂津国麻田藩士家、1人が丹波国篠山藩士家に嫁いでいます。
武家の家計は苦しいうえに、19世紀には緊縮財政のあおりを受けてたびたび減米となりました。天保4年、90石高片岡家の実際の給米は、25石余りに過ぎませんでした。
代々の家の格式や知行高などによって、嫡子の初任職は同じではありませんでしたが、片岡惣左衛門のように精進〔しょうじん〕を重ね、出世する武士も少なくありませんでした。