近世編第3節/人々の暮らしと文化3/百姓の家(岩城卓二)




東富松村

 尼崎城下の北約5kmに位置する川辺郡東富松〔とまつ〕村(立花地区)。富松荘が室町時代から戦国時代初期に東西にわかれ、東側は東富松郷・東富松荘と呼ばれました。川辺郡と武庫郡の郡境に位置する交通の要衝〔ようしょう〕で、戦国時代には富松城が築かれていました。
 慶長10年(1605)の史料によると村高は1,372石余りの大村で、天和・貞享年間(1681〜88)には家数145軒、801人と記録されています。
 この東富松村に、代々半兵衛を名乗る有力家が住んでいました。有力家といえども、代々家を相続していくことはたいへんなことでした。同家の記録から、有力百姓の家の相続について見ていくことにしましょう。

戻る

初代半兵衛

 半兵衛家は近世初頭に市兵衛家から分かれ、一家をなしました。本家にあたる市兵衛家は村の6人の役人株を構成する有力百姓家でしたが、近世初頭は経営に苦しんだようで、60石の所持高はみるみる減少して半減してしまいました。この所持高は長男市太郎(後に市兵衛)が15石余り、次男源七郎(後に利兵衛)が13石余りを相続しました。17世紀には、このような分割相続が多く見られますが、次第に長子単独相続が一般的になります。
 娘は野間村の善左衛門家に嫁ぎましたが、同家にはもうひとり、三男の亀松がいました。経緯はわかりませんが、亀松は9歳のときから江戸で暮らしていました。17世紀には、目覚ましい発展を遂〔と〕げる大坂や江戸で一族の一家が商売を始め、一族の子がその養子となることもあったようなので、亀松もそういう事情から江戸に出されたのかもしれません。
 しかし、亀松は30年余りの江戸生活に終止符を打ち、万治2年(1659)故郷東富松村に帰村しました。江戸在住の折に、名を半兵衛と改めていたようです。幸い母(野間村清兵衛娘)が存命でしたので、同居し面倒をみますが、その母も寛文2年(1662)世を去りました。そこで翌年、村内に新たに家を構え、父市兵衛の財産分けとして兄利兵衛より隠居田2か所を受け取りました。その後、半兵衛は農業に精を出したのでしょう。寛文10年には、所持高が15石にまでなりました。
 この初代半兵衛の功を讃〔たた〕え、以後同家では初代の祥月命日、年忌の法事は子々孫々まで欠かさず供養することとなりました。

戻る

成長する半兵衛家

 初代半兵衛は跡継ぎに恵まれず、野間村善左衛門家の三男を養子としました。2代目半兵衛も家の発展に尽力し、正徳4年(1714)に60歳で往生〔おうじょう〕するときには所持高を80石余りにまで増やしていました。
 2代目半兵衛は男子5人・女子6人もの子供に恵まれましたが、うち7人は早世しました。この時代、有力家といえども乳幼児の死亡率はたいへん高かったのです。
 80石の所持高は、成長した2人の男子のうち長子が50石、次子が30石を相続し分家、3人目の亀松は他家へ養子に出されました。
 3代目半兵衛も祖父・父と同じく精進し、同家の所持高はついに180石近くにまでなりました。周辺村々でも有数の富家に成長したものと思われます。
 3代目半兵衛は、男子4人・女子3人をもうけました。父の財産のうち100石は4代目半兵衛が相続し、残りの77石は3代目の妻に分与され、新宅=分家を興します。このとき妻は50歳半ば、息子夫婦と同居しなかったのです。近世であれば親と同居するのがあたり前と思われるかも知れませんが、村の戸籍簿である「宗門改〔あらため〕帳」を見ると、親と子が別の家として記載されていることは決して珍しいことではありません。

戻る

半兵衛家の危機

 分割されたとは言うものの、100石を相続した4代目半兵衛ですが、32歳という若さでこの世を去りました。4代目半兵衛をはじめ冨五郎・美之松と、男の兄弟はいずれも長寿を全うできませんでした。そして4代目の妻も夫死去から2日後、18歳という若さでこの世を去ります。
 当主の若死には、家の危機につながりました。妻も後を追うように死去したうえに、まだ子供にも恵まれていませんでした。そこで3代目の末子林兵衛が、17歳の若さで5代目半兵衛として家を相続することになりました。しかし、元服を終えたばかりの若年のうえ、突然の家督相続は荷が重かったのでしょうか。みるみるうちに100石の所持高を減らし、ついに20石余りまでになってしまいました。さらに借金もかさんだのか、ついに家屋敷を手放し、5代目半兵衛は新宅を興していた母(3代目半兵衛妻)のもとに同居することになったのです。そして、33歳の若さで死去しました。
 ところで、新宅を興した母は、娘とわを跡取りにしました。婿養子を迎え、相続させるつもりだったのでしょうか。ところが、とわも17歳で死去してしまいます。そこで孫の亀松を養子としますが、これも8歳で死去するという不幸に見舞われました。本家も経営に失敗し、5代目半兵衛の家族を引き受けざるをえなくなったうえに、新宅も家の危機に直面したのです。
 この半兵衛家の危機に、3代目の妻は新宅の所持高77石を本家に返し、本家の残高20石余りと合わせて100石の大高持ちとして本家を再起させることにしました。相続したのは5代目半兵衛の子で、16歳という若さでした。
 同家の記録は、3代目の妻がたいへんな苦労をして半兵衛家を守ったと記したうえで、「この家の相続人は、御恩を忘れてはならない」と説いています。

戻る

再起した半兵衛家

 16歳で相続した6代目半兵衛は、家を守ることに尽力したものと思われます。しかし、ふたたび同家はたいへんな危機に見舞われました。天明2年(1782)、尼崎藩領を揺るがした綿場〔わたば〕騒動で、6代目は捕らえられ牢舎(入牢)となったのです。家の記録に記載された6代目の年齢からすると安永9年(1780)の事になるのですが、牢舎となったのは天明2年の騒動の結果と考えて間違いないでしょう。
 この騒動は、綿作の大凶作にもかかわらず、藩が年貢減免などの措置を行なわなかったことに端を発します。再三の願いを却下された藩領村々の百姓たちが武庫川堤防に集まり決起したもので、とくに東富松・西富松・塚口・南野・時友・武庫庄〔むこのしょう〕村の百姓が中心でした。そのため村の有力家であった6代目半兵衛は藩に捕らわれ、首謀者を白状するよう厳しい取り調べを受けました。再出発したばかりの同家では、6代目の母くめがたいそう心配しますが、藩に取りなしてくれた人物がいたらしく赦免〔しゃめん〕となりました。
 この6代目半兵衛も41歳という若さで死去しますが、その後は尼崎城下鉛屋〔なまりや〕治左衛門家から迎えた婿養子が7代目半兵衛、その子が8代目半兵衛として家は相続され、明治を迎えました。

戻る

半兵衛家の女たち

 3代目半兵衛の妻が本家の危機を救ったように、半兵衛家が継承されていくうえで女性がしばしば重要な役割を果たしています。
 3代目半兵衛の娘のひとりは、大坂農人〔のうにん〕橋の平野屋嘉兵衛家に嫁いでいました。しかし子には恵まれず、跡継ぎに苦労したようです。そのうえ弟が5代目半兵衛となった実家がたいへんな危機に陥〔おちい〕り、5代目半兵衛の娘いその婚姻仕度もままならなくなります。そこで、いそを平野屋に迎えることにしました。養女として婿養子を迎えたのか、平野屋の男子の嫁としたのかはわかりませんが、いその婚礼道具はすべて彼女が揃〔そろ〕えました。そうすることで、実家の苦境を少しでも助けようとしたのでしょう。半兵衛家の記録には「当家御引立」てた彼女の年忌には、ふさわしい法事をするよう子孫に申し渡されています。
 また5代目半兵衛の妻くめは、6代目半兵衛が41歳の若さで死去し、家の継承が危ぶまれたとき、7代目半兵衛を婿養子として迎えるまでの4年間、当主として家を守っています。
 このように、有力家であっても、家を継承することは容易ではありませんでした。幾度もの危機を乗り切り、家は継承されたのです。

戻る

東富松村塩田家(半兵衛家)系図



戻る

大根屋小右衛門

 19世紀になると、領主層の財政は構造的な危機に陥〔おちい〕り、その再建のためにさまざまな人々が登用されました。そのひとりに大根屋小右衛門〔だいこんやこえもん〕なる人物がいます。大根屋は大坂天満市場で干物仲買商を営んでおり、18世紀後半、寒天仕入問屋として財を築きました。
 小右衛門は、この大根屋の当主としてよりも、財政改革家として歴史にその名を残すことになります。岸和田藩財政改革の成功を皮切りに、西本願寺、富山藩、そして天保5年(1834)から尼崎藩の財政改革にも関わっています。そして、文政13年(1830)に始まる西本願寺改革に没頭するため家督は息子に譲り、自身は京都油小路に移住しています。
 実は小右衛門は大根屋の婿養子で、実家は摂津国豊島〔てしま〕郡東市場村(現大阪府池田市)の岸上家でした。そして東富松村半兵衛家は、この岸上家の娘を嫁に迎えています。6代目半兵衛の妻、ちかです。両家の姻戚関係はその後も続き、ちかの孫娘まきが岸上家に嫁ぎました。
 また、大根屋を継いだ小十郎の後見人として小右衛門の実兄である岸上治左衛門が天満の店に入り、大根屋をもりたてました。一方、孫娘が嫁いだ岸上家にはちかが10年間出向き、同家の手助けをしています。

〔参考文献〕
中川すがね『大坂両替商の金融と社会』(清文堂出版、平成15年)

戻る