近世編第1節/幕藩体制の成立と尼崎8/猪名川・武庫川の水利をめぐる争論(横田冬彦)




豊臣期の水論

 猪名川から猪名寺・清水〔しみず〕・上食満〔かみけま〕・田中・万多羅寺〔まんだらじ〕・岡院〔ごいん〕・上坂部〔かみさかべ〕・森・塚口村に用水を供給しているのが、三平井〔さんぺいゆ〕です。この三平井組では三平という人物についての物語が伝承されており、昭和7年(1932)頃に記念碑が建てられ、毎年三平供養の法要が営まれています。信長時代の天正3年(1575)の旱魃〔かんばつ〕に際し、このあたりを支配した伊丹有岡城主荒木村重に対して、猪名川からの取水を農民たちが願い出ますが、荒木は他の村々との関係もあって許可しませんでした。村の庄屋であった三平は重罪を覚悟で猪名川の堤を切って水を引き、甦〔よみがえ〕る水田を見ながら自害したと伝えられています。
 この伝承について確実な史料は確認できませんが、たしかに16世紀後半には、治水技術の進展にともなって、今まで洪水を恐れて設置がむずかしかった主要河川にも直接取水口を開くことが可能となり、猪名川や武庫川にも次々に取水口が設けられるようになりました。そうしたなかで、さまざまな水論も起こるようになっていました。
 「有岡庄年代秘記」によれば、三平井組の下手で猪名川から分流する藻〔も〕川に取水口をもつ大井〔おおゆ〕組が、天正17年、藻〔も〕川への水量を増やそうと藻川口に「新塞」(堰〔せき〕のようなものでしょう)を設けた水論では、豊臣政権の京都奉行増田長盛〔ましたながもり〕の裁許を受け、さらに天正20年(文禄元年・1592)にはその新塞をめぐる争いで6人が死亡したため、庄屋7人が成敗されたことを記しています。後者の事件は「三平井・大井水論年暦書」という記録(浜野種次郎氏文書、『尼崎市史』第6巻、288頁)にも記されており、両組の惣百姓〔そうびゃくしょう〕中が井河原で鑓〔やり〕・長刀〔なぎなた〕その他の「兵具」を用いた「一揆」のごとき「大取合」となったとあり、また両方の庄屋らが京都四条河原で斬罪に処せられたとあります。
 武庫川の西岸(現西宮市域)でも、同じ天正20年の夏、北郷樋〔ひ〕用水をめぐって、川上の瓦林庄村々と川下の鳴尾村とが争いとなり、双方とも近郷村々の「加勢」を得て「弓・鑓・馬上等携え」た「合戦争論」となり、多数の死傷者を出しました。豊臣政権の奉行である増田長盛・片桐且元は関係者を京都へ召喚して糾明。加勢をした村々もふくめて双方各村庄屋1人ずつが処刑されました。26人とも83人とも言います。その上で検使が派遣され、絵図にもとづいて実地検分・証拠究明が行なわれた結果、鳴尾村への用水を認める裁許が言い渡されました(『西宮市史』第4巻)。



三平記念塔 尼崎市御園
昭和40年頃、市史編集事務局撮影



天正14年(1586)「増田長盛大島井条書」
(地域研究史料館蔵、東大島部落農会文書)
 第1条で、大島井が武庫村領内の武庫川堤に取り入れ口を開けて水を引くことを、年来の慣行として認めています。


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喧嘩停止令−自力救済の否定

 用水確保は農民たちにとって死活問題であり、それを「兵具」をもって自力で守ることは、中世の村々にとってごくふつうのことでした。しかし、豊臣政権は、理非の判断とは別に、こうした実力による「合戦争論」を私的な「喧嘩」とみなし、厳しく否定しました。鳴尾村の争論を記録した興福寺の僧多門院英俊は、これを「天下悉(ことごとく)ケンクワ御停止」によるものと記しています。豊臣政権はそうした実力行使にかえて、実地検分と証拠にもとづく公的な裁判制度を調〔ととの〕えようとしたのです。藤木久志は、これを農民の武器を没収する「刀狩令」にともなって実力行使をも禁止した豊臣喧嘩停止令〔けんかちょうじれい〕とし、大名・領主に対して、国境紛争を解決するための実力行使=大名交戦権を否定し、政権の公的裁定に委ねるよう求めた「惣無事令〔そうぶじれい〕」とともに、「豊臣平和令」の一環をなすものと位置付けました。それは中世の社会のあり方に対して、近世の新しい社会秩序を示すものでした。

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江戸時代の水論の特徴

 こうして近世の村々は、水利権を実力行使によって自力で守るのではなく、公〔おおやけ〕の裁判の場で正当性を主張しあうことになりました。このことにより、証拠となるべき文書や絵図が大切に残され、争論の詳しい経過を記録しておくことが庄屋の責務となり、膨大な争論文書が残されることになりました。『尼崎市史』第2巻には多くの事例が記述されていますが、そのなかから特徴的なものをいくつか紹介してみることにしましょう。
 前述した三平井・大井の争論は寛文8年(1668)〜12年にも再燃しています。大井組から「瀬堀」をしたり、「堰〔せき〕留メ所え門樋」を伏せたりしたと言います。絵図(後掲「解読図」)を見ると、大井の取水口は藻川の分流点より10丁ばかり南にあります。猪名川も藻川も大水の時は両岸堤まで満水になりますが、通常は河原のなかに水筋があり、その水筋を堰き止めて(横堰を張る)各取水口へ一定の水量を誘導するようになっていることがわかります。大井組は本来藻川で堰を張って取水すべきですが、これでは不足なので、藻川の西岸に沿って猪名川の分流点まで水路(井溝・井路)を掘り上り(瀬堀)、さらに枠・杭・柵〔しがらみ〕などを入れ、横堰や「門樋」を設置して猪名川本流の水筋を取り込もうとしたのです。さすがに猪名川筋の東岸豊島〔てしま〕郡の村々や少し下流になる西岸三俣井〔みつまたゆ〕(三ツ又井)組から訴えられ、寛文9年に京都所司代と町奉行連名で、「門樋」以下撤去の裁許が下されました。しかし掘り上った井溝はそのままだったようで、さらに掘り上ることで三平井の樋口と競合することになり、寛文11年には三平井口から29間下までとした絵図が作成され、今後の掘り浚〔さら〕えが禁止されました。その後、元禄・寛延・明和・安永・寛政と、前の裁許の記憶が曖昧〔あいまい〕になる頃に、証拠文書の意図的な読み替え等を行ないつつ、争論は何度も再燃しました(後掲の裁許絵図参照)。
 一方、武庫川からは、野間・時友・友行、さらには武庫庄〔むこのしょう〕・富松〔とまつ〕などに給水する野間井(富松井)をはじめ、生島井・武庫井・水堂〔みずどう〕井・守部〔もりべ〕井・大島井の六樋がありました。このうち野間井については永禄年間(1558〜1570)頃にはすでに存在していたことがわかっており、武庫川本流からの取水をめぐって、対岸の百間樋〔ひゃっけんひ〕井組との間で水論が繰り返されました。そして慶長16年(1611)、摂河泉国奉行であった片桐且元らの裁定により、野間井6分・百間樋4分に分水する分木が定められました。しかし分木が大坂の陣で焼失したとして、正保4年(1647)争論が再燃。大坂町奉行所において、6分・4分の割合が再度確定され、川筋がどこになっても取水する樋の横幅が野間井2尺4寸、百間樋1尺6寸(高さ1尺2寸)として並べるように定められたのです。
 このように分水の比率は、取水口の設置場所や樋枠の大きさ、あるいは分木の位置、番水の日数や時間割などにより決められました。しかし正徳2年(1712)の大水による武庫川東堤の決壊をはじめ、川筋の変動などを契機に争論は再燃しました。
 野間井では井路の水上であり井親〔ゆおや〕である野間・友行・時友が主導権を持っており、寛政6年(1794)の旱魃の際には、彼らだけで番水を回したため、武庫庄・東西富松・塚口の下4か村は、五、六百人で「太鼓を打、ほら貝を吹たて、人揃〔そろ〕へいたし」「抜身・鳶口〔とびぐち〕・棒等持参」「堰所も残らず切払ひ、番小屋打潰し」ました。文政6年(1823)にはやはり、下4か村が「惣百姓拾五歳以上の者残らず、凡千三百人も徒党いたし、竹鑓・鳶口・棒・木刀之類持参」、野間村の庄屋家を打ちこわし、47人が大坂町奉行所で入牢となっています。明和元年(1764)の浜田川の水論では、浜田村の庄屋・年寄・百姓代以下8人(10人とも伝える)が牢内などで死亡しており、近世後期になると、ふたたび実力行使に近い状況も生まれていました。
 また、いわゆる「非領国」地帯として、川筋や井懸〔ゆがか〕りの村々の領主が異なる場合がほとんどであったため、京都奉行や大坂町奉行などにより裁判が行なわれたことも、この地域の特徴として指摘できます。



浜田川水論牢死者墓碑(浜田町)
 基礎の部分に、浜田村の犠牲者10人の名を刻んでいます。



六樋水路図(左)、猪名川・藻川水路図(右)
 尼崎市域の水利は、東半の猪名川・藻川水系と西半の武庫川水系に二分されています。市域に残る各種の水利争論絵図と、現地調査により復元作成しました。
Web版尼崎地域史事典"apedia"より転載)



猪名川・藻川分流個所の大井その他井組瀬掘り記録絵図(解読図、地域研究史料館蔵、徳永孝哉氏文書をもとに作成)



寛政6年(1794)「大井・三平井・藻川沿い村々の争論裁許絵図」(部分、地域研究史料館蔵、三平井水利組合御園部落農会文書)



改修前の大井組取水口(猪名寺)
昭和42年、市史編集事務局撮影



改修後の大井取水口
堤防の背後は、猪名寺廃寺跡の森
平成18年撮影



貞享5年(1688)「生島井・野間井の争論裁許絵図」(部分、地域研究史料館蔵、友行部落有文書)



生島井(左側)と野間井の水路(旧西昆陽〔こや〕字六反田付近)
昭和42年、市史編集事務局撮影
 左手の松並木は武庫川堤防、右手に西昆陽須佐男〔すさのお〕神社の鳥居と森が見えています。


〔参考文献〕
藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』(東京大学出版会、昭和60年)
村田路人『近世広域支配の研究』(大阪大学出版会、平成7年)


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