近世編第2節/成長する西摂地域1コラム/未遂に終わった藩主家の引き留め歎願(岩城卓二)
許可されない家督相続
年の瀬も押し詰まった明和3年(1766)12月29日、尼崎藩より大庄屋岡本家に、江戸にいる藩主松平忠名〔ただあきら〕の危篤〔きとく〕が知らされました。忠名はすでに26日に死去していましたが、まだそれを知らない大庄屋たちは、すぐに病気平癒〔へいゆ〕祈願のための伊勢参りを藩に願い出、年明け早々の3日、出発しました。しかし、江戸から忠名死去の知らせが届いたため伊勢参りは中止となり、藩領内には高声・騒音を規制する「鳴り物停止〔ちょうじ〕」が発令されました。
17世紀にはたびたび領主が交代していた大坂周辺でも、18世紀に入ると、幕府領と役知〔やくち〕領を交互に繰り返す地域を除けば、ほとんど領主交代は見られなくなりました。尼崎藩でも青山幸督〔よしまさ〕の死去半年後に領主家が交代しましたが、こうした譜代〔ふだい〕大名家の転封〔てんぷう〕も、18世紀にはなくなりました。ところが、忠名が死去し、嫡男忠告〔ただつぐ〕が家督相続するにあたって、なぜか幕府は難色を示したようです。
藩主家引き留め歎願の計画
この事態に、藩主松平家が転封されるのではないかと危惧〔きぐ〕した藩領村々は、転封を阻止しようと幕府への歎願〔たんがん〕を計画しました。
明和4年正月の歎願書では、「正徳元年(1711)に尼崎藩主家となった松平家は、領内の百姓・町人にたいへん慈悲深い御家柄で、正徳2年・元文5年(1740)の洪水や、享保17年(1732)の飢饉〔ききん〕に際して善政を尽くし、その「仁政」によって領民が救われてきた」と賞賛しました。そして、忠名死去で領民が失意していることにふれ、このうえは忠告が尼崎藩主となり、自分たちの殿様になるようお願いしたいと認〔したた〕めています(後掲の史料赤字部分)。
この歎願には、兵庫津と莵原〔うはら〕郡都賀〔とが〕村を除く領内すべての村が加わり、正月11日、大坂町奉行所へ歎願書を提出し、場合によっては江戸まで出かけるつもりだと藩に知らせました。知らせを受けた藩は、すぐに対応を検討し、しばしの延期を村々に命じ、18日、大庄屋に次のような藩の方針を告げました。
「藩領の村々が忠告様の家督相続許可を幕府に歎願しようというのは喜ばしいことである。しかし、こうした歎願はこれまで例もなく、大げさなことだと幕府に思われてはかえって良くないし、忠告様は、江戸では一、二を争う器量の持ち主で評判も良く、皆が案じているのとは違う。いずれ家督相続は認められるので心配するには及ばない」というものでした。そして、藩が言うとおり、2月20日、忠告家督相続許可の知らせが尼崎に届き、6月末日、新藩主となる忠告が江戸を出立し、尼崎入りすることになりました。
ここに、藩主家の引き留め歎願は未遂に終わったのです。
明和6年尼崎藩領上知との関係
村々が領主や幕府代官の交代を阻止し、引き留めようとするのは、新しい領主が来ると、旧領主には認められていた慣行等が反古〔ほご〕になることを危惧したからです。尼崎藩の引き留め歎願も、こうした理由からだと思われますが、やや時期の早い歎願と言えます。
そもそも幕府は、なぜ、忠告の家督相続を渋ったのでしょうか。当時、忠告は25歳。大坂の西の守りという重要な軍事的役割を担う尼崎藩主としては若年であったことが、理由だと考えられなくもありません。しかし、忠告の家督相続からわずか2年後の明和6年、尼崎藩の軍事的役割が形骸化する上知〔あげち・じょうち〕が断行されているので、それが理由だとも思えません。
むしろこの明和上知の断行に、忠告の家督相続を幕府が渋った理由が隠されているのではないでしょうか。
明和年間に入ると、幕府は、大坂を中央市場として機能させるために、さまざまな政策を実施しました。家督相続問題が起こる直前の明和3年3月には、絞油〔こうゆ〕業の厳しい統制策を打ち出していますが、こうした幕府の方針に対して、とりわけ尼崎藩領の村々は激しく抵抗していました。明和6年上知は、明和2年10月、灘目〔なだめ〕(莵原・武庫両郡の沿海地帯)を巡見した長崎奉行石谷清昌〔いしがやきよまさ〕の進言によって実現したと言われています。とすると、すでに明和3年には、村々の激しい抵抗に業〔ごう〕を煮やした幕府が、上知を計画していた可能性は十分に考えられます。
歎願書提出にあたって、藩が「皆が案じているのとは違う」と言っているように、村々は新藩主忠告の力量を危惧していた節がうかがえます。事の真偽はわかりませんが、何らかの理由で、忠告の家督相続に幕府が難色を示し、忠告の家督相続をめぐって、幕府と尼崎藩の間で激しいやりとりがあったことが想像されます。
明和6年上知は、尼崎藩の軍事的役割を形骸化させただけでなく、そのわずか2年前には藩領村々も藩主交代を危惧していたのです。にもかかわらず、2年後の上知は粛々〔しゅくしゅく〕とすすめられています。この間、尼崎藩、藩領村々、幕府の間にさまざまな駆け引きがあったのではないでしょうか。
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